今年見た映画の中で一番素晴らしい内容

今日はチケットをプレゼントしていただいたので、ヒューマントラストシネマ渋谷まで映画を観に行った。
観たのは、
神は死んだのか(GOD’ NOT DEAD)



天国はほんとうにある(HEAVEN IS FOR REAL)。

両方とも、今年見た映画の中で一番素晴らしい内容だった。
スクランブル交差点が見えるスターバックスでコーヒーを飲みながら。

The Word became flesh and made his dwelling among us

AMAZING GRACE & 夢伝説 by STARDUST REVUE


スターダストレビューの素敵なアメイジンググレイス。その後にあの夢伝説を聞くと・・・実はこれは讃美歌か???
二人(神とあなた)の愛を 壊そうとしても
無駄なことさ 全てMysterious Love(ローマ人への手紙8章35−39節参照)
不思議な糸が 結びつけた
謎かけ言葉のような 恋さ
Somebody’s watching you
 誰か(Jesus)があなたを見つめているよ
Somebody’s watching me
 誰か(Jesus)が僕を見つめているよ
求め合う二人、気づかないうちに
Somebody waits for you
 誰か(Jesus)があなたを待っているよ
Somebody waits for me
 誰か(Jesus)が僕を待っているよ
遥か時を超え、巡り会える日まで

ただ神の恵みによって

ただ神の恵みによって
野町真理の写真
野町真理(のまちしんり) 日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師
 名前からよく間違われますが、私は女性でもクリスチャンホームに生まれ育ったわけでもありません。24年前私が土佐の高知にいて20歳の時、フィリピンから留学生が来ました。いっしょに食事をし、夜が明けるまで語り合ううちに、異文化の壁を超えて友になりました。彼は土佐言葉で私に福音を語ってくれました。「野町君、心の中に罪を持っちょったら天国に行けんがでー。けんど神のひとり子のイエス様は野町君のために身代わりに十字架に架かって死んでくれたが。ほんでもしイエス様を信じると天国に行けるがやきー。」神などに頼るのは弱い人間のすることだと思っていた私は聞き流していました。しかし三浦綾子さんの塩狩峠を読み、教会に導かれました。
 北海道の塩狩峠で事故がありました。峠越えの最中に連結器が外れ車両が暴走したのです。叫び声の中で一人のクリスチャン青年が立ち上がり、暴走を止めようとしました。しかし列車は止まらず大きなカーブが迫って来たのです。彼は祈って考えました。今このスピードなら、私が列車の前に身を投げて下敷きになれば乗客を助けることが出来る。そして彼は自分の命を犠牲にして乗客を助けたのです。真っ白な雪を彼の血が真っ赤に染めたそうです。涙が止まりませんでした。自分には出来ないことだと思いました。クリスチャンは自分にはない何かを持っているような気がして、聖書を読み始めました。
 聖書には、人間が作った神ではなく、人間をそして全宇宙を造られた唯一の神のことが書かれてありました。まるで本当の自分を映し出す鏡のように、聖書は私の心の中の醜さ、弱さを見せてくれました。神を神とせず、自分は正しいとして人を見下し、裁き、結局自分のことしか考えていない自己中心な自分に絶望しました。しかし神様からのラブレターと呼ばれている聖書にはこう書かれてあったのです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 旧約聖書イザヤ書43章4節

 私を造りデザインされた神なら、すべてをお見通しのはずです。けれどもこんな私を高価で尊い存在として愛しておられることがわかったのです。そしてイエス様を十字架につけて殺したのは他の誰でもない、私であることに気がついたのです。イエス様は私の罪から来る報酬である死を身代わりに受けてくださり、永遠いのちそのものである神と結びついて生きることが出来るようにしてくださったのです。十字架につけられた後、3日目によみがえって今も生きておられるイエス様に出会ったとき、私はイエス様を心に受け入れるお祈りをして永遠のいのちをいただきました。私のいっさいの努力に関係なくただ神の恵みによって。

「アブラハムの神」

「アブラハムの神」
野町真理(のまちしんり) 杉戸キリスト教会牧師、関東宣教区長

★1「アブラハムの神」

しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。創世記12:17

聖書は聖人君子やエリートばかりが登場する偉人伝だと、多くの人が誤解しています。それが聖書を読みたがらない理由の一つでしょう。しかしそうではありません。信仰の父と呼ばれるアブラハム(元の名はアブラム)でさえ、聖人君子やエリートではなく、私たちと同じ普通の人でした。アブラムは旅の途上で深刻なききんに遭った時、主なる神ではなくエジプトに身を避けました。その時アブラムは、美人の妻のために自分が殺されるかもしれないという恐れに囚われ、妻を妹だと偽りました。アブラムは、自分が助かるためには、妻を犠牲にしてもかまわないと考えて行動したのです。その結果、アブラムの妻サライは、エジプト王パロの妻として召し入れられます。あなたが女性なら、アブラムの夫になりたいと思いますか?もし上記のみことばのような、主なる神による助け船がなければ、アブラハム夫妻を通して全世界のすべての国民を祝福するという神の壮大な計画は頓挫していたのです。天を見上げて、アブラハムの神、アーメンなる神の、力強い真実を覚え、神に賛美をささげましょう。

★★2「祭壇を築く歩み」

そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。創世記13:4

私たちの対応によって、「危機」は「危険」にも「機会」にもなり得ます。「試み」は、「つまずきの石」にも「踏み台」にもなり得るのです。アブラムは「危機」の時、主なる神に身を避けることをせず、エジプトに身を避けました。それは、「祭壇を築いて神に祈る日常」から離れていたアブラムが犯した、致命的誤りでした。その結果アブラムは恐れに囚われ、旅の仲間である家族親族を「危険」へと導いてしまったのでした。もしもアブラムが「危機」の時、主なる神に身を避けていたなら、つまり、ネゲブの地でも祭壇を築き、主なる神を信頼し、天を見上げ、主の指示を仰いでいたら、どうだったでしょうか。旅の仲間と一緒に神の栄光を見る「機会」が与えられたことでしょう。「祭壇を築いて神に祈る日常」こそ、キリスト者の生命線であり、「危機」を「機会」とするための最大の備えです。静まって聖書のみことばに耳を傾けること、天を見上げて祈り叫ぶこと、人生の主導権を神に明け渡すこと、自分自身を神にゆだねて祭壇に献げることが私たちの日常となるように、主イエスの御名によって祈り求めましょう。

★★★3「新しい勇気と風格」

彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。創世記14:19-20

教会は、地上を旅する神の民である以上、蚊帳の外で生きることはできません。悪が現実に存在する地上を旅する限り、艱難や戦争に巻き込まれます。ソドムに住んでいた自分の親類、おいのロトたちが略奪されたという知らせを聞いた時、新しい勇気を授かったアブラムは、しもべたちを召集して悪に立ち向かいます。そしてアブラムは見事戦いに勝利し、ロトたちを救出したのでした。その時、シャレムの王であり、いと高き神の祭司、メルキゼデクがアブラムに現れ、上記のような言葉をもってアブラムを祝福しました。アブラムは、神の恵みに応答して、感謝とともにすべての物の十分の一をメルキゼデクに献げました。ソドムの王は高慢な態度をもってアブラムを迎えましたが、アブラムは風格高き態度をもってソドムの王に応じました。新しい勇気と風格を与えてくださるアブラハムの神に、賛美と感謝を心から献げましょう。

★★★★4「星空散歩」

そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。創世記15:5-6

私たちを養育するために、主なる神がお用いになる事の一つ。それは、「時間をかけて約束を出来事に至らせる」ということです。待つという長い時の中、恐れるアブラムを主なる神がご覧になった時、主は幻のうちにアブラムに臨み、力強いみことばをもってアブラムを励まされました。その時アブラムは、率直に不安や不信の思いを主に打ち明けました。星空の下をアブラムと共に散歩しながら、主は「見上げること」をアブラムに促します。見上げた先からアブラムの目に飛び込んできたもの。それは星屑でした。天の川をはじめとする数え切れない星たちが、天には静かに瞬いていたのでした。その壮大なビジョンの中、上記のような約束のことばが語られ、アブラムは主を信じ、主はそれを彼の義と認められたのでした。信仰義認。信仰によって義と認められるという教えは、16世紀に宗教改革者たちが再発見した真理が、ここに明記されています。

★★★★★5「ご覧になる神」

そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。創世記16:13

アブラム夫婦は、神の約束を信じて旅を続けます。しかし困難な状況の中、再び神を信じきれない弱さが表に出てきます。しかし愛の眼差しをもって、すべてをご覧になる神が、いつでも共におられます。信仰生活における問題は、神の約束を信じきれない弱さです。約束が与えられているがなかなか答えられない。祈っても困難な状況が生じてくる。いくら神でもこの状況で約束が現実のものになるとはとても信じられない。信仰の父アブラムにも、何度もそういう時がありました。かつてアブラムは、不信仰から自分の命だけを守ろうとして大失敗を犯しました。この度は、不信仰から人間的な小細工によって神の約束を成就させようと試みたのです。危機的な状況の中、神の約束を信じきれないアブラムの弱さが、再び家族を一触即発の危険へと導きます。アブラムを多くの国民の父として選んだ主なる神は、そのような時に、力強い御手をもって介入し、問題を解決してくださる方です。主は祝福を与え、問題を解決してくださいます。アブラム夫婦が不信仰でも、主はいつも真実と忍耐をもって、一人一人の家族を細やかに導かれるのです。

★★★★★★6「全能の神」

わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。創世記17:1-2

主なる神は、具体的な約束をもってアブラムの信仰を育まれます。創世記17章で、主なる神は全能の神(エル・シャダイ)として現れ、アブラムとその子孫との間に割礼による契約を結んでくださいます。全能の神は、アブラムにアブラハム(多くの国民の父)という名前を、妻のサライにサラ(王女)という新しい名前を与えられました。アブラハムは、イシュマエルをはじめ家族内のすべての男と共に割礼を受けて契約を成立させます。けれども、全能の神の御前にひれ伏しながら笑顔を見せるアブラハムの心中には、なお不信仰な冷笑とつぶやきがあったことを聖書は明記しています。『アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」』これが旧約聖書が語っている等身大の信仰の父、アブラハムです。しかし私たちが見上げている同じ全能の神は、そのような私たちを信仰の成人へと育て上げることの出来る全能の神です。

水路のそばに植わった木/流れのほとりに植えられた木

流れのほとりに植えられた樹
やっと詩篇1篇のイメージの写真が撮影できました。太字にした所が、最近ずっと引っかかって思い巡らし続けているフレーズ。
幸いなことよ。
悪者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、
あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。
悪者は、それとは違い、
まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、
罪人は、正しい者のつどいに立てない。
まことに、【主】は、正しい者の道を知っておられる。
しかし、悪者の道は滅びうせる。
(新改訳聖書)
いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木
ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。
(新共同訳聖書)
旧約聖書 詩篇1篇より

春夏秋冬と人生の四季

春夏秋冬と人生の四季
東南アジアではホット、ホッター、ホッテストという3つの季節しかないと言われる。
つまり、いつも夏のような一年があたりまえという状態。
けれども日本では春夏秋冬があり、立ち止まりさえすれば、それぞれの季節を満喫することができる。
春には、寒さを耐え抜いた木々や草花が一斉に芽生え、美しい花を咲かせる。
夏には、蝉時雨と向日葵、入道雲と青空、そして照りつける太陽と水遊びを満喫することができる。
秋には、赤や黄色に色付いた紅葉、ススキ、虫の声、そして月。
冬には、じっと我慢の子で風雪に耐え、暖かい春の訪れを待ち望む。
そしてどこに住んでいようと、人生には四季がある。

春の芽生え、幼年時代、少年時代。
IMGP5465
梅花青空

夏の思春期、青年時代。最も体力があり、エネルギーに満ちあふれている時期。
夏山2014
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秋の断捨離、円熟期。この時期に豊かな実を結ぶことができたら幸せ。
紅葉2014
紅一点

冬の厳しさ、死ぬという仕事への取り組み、そして死の向こう側にある最後の審判、復活と永遠への備え。
古利根の流れのほとり冬景色
雪上刻印

聖書の神がなさっておられること

聖書の神は、インスタントなことはなさらない。
腰を据えて、じっくりと時間をかけて、
僕ら人間を養い育てられる。
ちょうどドングリを何十年もかけて、
風雪に耐える大きな樫の木に育て上げるように。
人生の四季を経て、
暖かい春に美しい花を咲かせるために。
春夏秋冬を経て、
いつまでも残る実を結ぶために。
僕らは年輪を重ねながら、
やがてイエス・キリストに似た愛の人に造り変えられていく。
それは死の向こう岸で、
永遠を共に生きるためにどうしても必要なレッスンなのだ。

マタイの福音書アウトライン

マタイの福音書アウトライン(加筆修正中)
救い主の系図      1:1−17
救い主の誕生      1:18−25
神我らと共に      1:23
巡礼の旅        2:1−12
慰めを拒む者の嘆き   2:13−18
出エジプト       2:19−23
荒野で叫ぶ者の声    3:1−12
わたしの愛する子    3:13−17
荒野の試み       4:1−11
宣教開始        4:12−17
わたしについて来なさい 4:18−25
本当に幸いな者     5:1−12
地の塩、世界の光    5:13−16
廃棄するためにではなく 5:17−20
殺人について      5:21−26
姦淫について      5:27−32
誓いについて      5:33−37
仕返しについて     5:38−42
敵を憎むことについて  5:43−48
善行の報いについて   6:1−4
祈りの報いについて   6:5−15
断食の報いについて   6:16−18
宝は天に蓄えよ     6:19−24
心配から解放される秘訣 6:25−34
建設的に批判する秘訣      7:1−5
自分にしてもらいたいことをせよ 7:6−12
にせ預言者たちに気をつけよ   7:13−23
人生の土台にすべきもの     7:24−29
わたしの心だ きよくなれ    8:1−4
聖書信仰            8:5−13
病を背負ってくださる方     8:14−17
向こう岸にいくための用意    8:18−22
嵐を静める男          8:23−27
地上で罪を赦す権威を持つ者   9:1−8
必要と招きと応答        9:9−13
必要なのは新しい革袋      9:14−17
復活信仰            9:18−26
未曾有の出来事         9:27−34
収穫は多いが働き手が少ない   9:35−38
・・・

音楽を奏でることの意味や音楽が果たす役割について

浜田省吾のツアー「ON THE ROAD 2011 “The Last Weekend”」は、史上希に見るツアーだった。それは、2011年に起きた人類史に残る悲劇的な出来事に起因していたことは言うまでもない。こんな時に音楽なんかやっていて良いのか、という空気も経験したことのないものだったし、そうだったからこそ、音楽を奏でることの意味や音楽が果たす役割、コンサート、あるいはツアーという形が、観客やスタッフも含めたチームワークの産物であることも再確認させられた。  田家秀樹著「僕と彼女と週末に」あとがきより

人間が音楽を奏でることの意味や音楽が果たす役割。それは次の言葉に要約されているかもしれない。

いつか子ども達に この時代を伝えたい
どんなふうに人が 希望(ゆめ)をつないできたか
One day I want to tell the children about this era,
How hope was passed on through mankind.
by Shogo Hamada

「ON THE ROAD 2011 “The Last Weekend”」ツアーDVDの最後に、”Dedicated to J.”と書かれていることも興味深い。