礼拝メッセージ「望みの神」ローマ39

礼拝メッセージ「望みの神」ローマ39(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙15章7ー13節

7 こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。8 私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。それは父祖たちに与えられた約束を保証するためであり、9 また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」10 また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」11 さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」12 さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」13 どうか、 望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。ローマ人への手紙15章7−13節

礼拝メッセージ「苦しみの意味」ローマ18

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聖書箇所:ローマ人への手紙8章18ー25節

18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに
 啓示されようとしている栄光に比べれば、
  取るに足りないものと私は考えます。
19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを
  待ち望んでいるのです。
20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、
 服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、
  神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、
  ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、
  心の中でうめきながら、子にしていただくこと、
  すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
24 私たちは、この望みによって救われているのです。
  目に見える望みは、望みではありません。
  だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、
  私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
  ローマ人への手紙8章18-25節

パウロは福音信仰の山頂で語ります。私たち人間だけでなく、神に造られた被造物全体、すなわち宇宙全体が苦しんでいる。今の時のいろいろな苦しみは、産みの苦しみである。苦しみがもたらすものに目を向けるなら、苦しみが取るに足らないものに見えてくる。苦しみがもたらすもの、それは、神の子どもとしての栄光と自由、私たちのからだの贖いである。

BACH:THE GOLDBERG VARIATIONS(GLENN GOULD)

グレン・グルードによるバッハのゴールドベルク変奏曲ピアノ演奏(55年モノラル盤)です。今日中古で買ってきました。バッハが三拍子を多用して表現した三位一体の神への賛美であり祈りとしての曲が、軽快にそして美しくピアノで演奏されています。

グルードの地上における音楽の旅は、このゴールドベルクで始まり、そしてゴールドベルクで終わっています。

聞き比べると、山肌を勢い良く滑り落ちていた水が、ゆったりと懐広く流れる大河となったようです。

礼拝メッセージ「栄光は神に」

礼拝メッセージ「栄光は神に」

聖書箇所:使徒の働き12章18ー25節

するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。使徒の働き12章23節

ヘロデが神に打たれて即死した理由は、神に栄光を帰さなかったからです。実はこれこそ、私たち全人類が犯した「死に至る罪」です。なぜ人が死ぬようになったのか。それは、「取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と警告されていた善悪の知識の木から取って食べたからです。それは以下のような、死に向かう方向転換でした。

神を基準とせず自分を基準とする。神を神とせず自分を神とする。神を主とせず自分が主となる。神中心でなく自己中心になる。栄光を自分に帰す。

しかしイザヤ書53章には、そのような私たちの身代わりに、神に打たれた主イエスのことが記されています。主イエスはあなたの罪のために十字架で死なれ、復活して今も生きておられます。

この主イエスを受け入れて向きを変える。それは以下のような、いのちに至る悔い改めです。自分を基準とせず神を基準とする。自分を神とせず神を神とする。自分を主とせず神を主とする。自己中心でなく神中心になる。栄光を自分にではなく神に帰す。