The Lord's Prayer

共に苦しむ父なる神
天にいます私たちの父よ(おとうさん!)
御名があがめられますように
御国が来ますように
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました
私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい
New!国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。

 


共に苦しむ父なる神

毎日のように、悲惨なニュースが私たちの目と耳に飛び込んできます。
人のいのちや人格があまりにも軽視されています。
その中で多くの人々が、「もし本当の神様がいるのなら…」という魂の叫びを抱えながら、
痛み、苦しみ、悲しみ、不安、恐れ、絶望、孤独、むなしさ、憎しみ、怒り、疲れ、渇きの中で生きています。

1998年に日本で自殺した人は、なんと30000人以上と伝えられています。
平均すると、毎日80名程の方が日本のどこかで自ら命を絶ったことになります…。

また、あまり知られてはいませんが、
人工妊娠中絶によって闇に葬られている小さないのちは、
日本で年間100万あるいは、300万ともいわれています。
3人の赤ちゃんが母の胎に宿ったら、そのうち1人しか生まれ出でることが出来ないのです!
産ぶ声をあげることもなく、1日に数千の割合で、赤ちゃんが闇に葬り去られています。
出生前DNA検査がこれに拍車をかけています。
 「お母さんぼくを殺さないで!」…声なき声をあげて小さないのちは泣き叫んでいます…。
人命軽視はここから始まっています。

また、狭い日本から目を世界に向けると、
1分間に約28人(うち子ども21人)、 1日に4万人、
1年間に1500万人の人々が飢えで死んでいます…。
世界中から食料を輸入し、有り余ったものを捨てている日本の現状が問われています。

そして、森総理は「日本は天皇を中心とした神の国である」、と何の痛みもなく語られますが、
その思想と日の丸・君が代のもとに、どれほどの暴虐が行われ、どれほどの血が流されたのかを知らないようです。
韓国、台湾、フィリピン、インドネシア、中国、シンガポール、
タイ、ビルマ、マレーシアといったアジア諸国の方々の痛みや、
沖縄の方々の痛み、在日の方たちの痛みをまったく感じることができないようです。

 

天の父なる神よ!あなたは私たちが苦しむ時、どこにおられるのですか?

『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。』
詩篇 46篇1節

…わたしはどこか遠くにいる神ではない。あなたが苦しむ時、そこにいて、あなた以上に苦しんでいるのだ。

 

ではなぜ、あなたはその全能の御手をもって、暴虐を止められないのですか?

…もしあなたに苦しみや痛み、なやみやむなしさがなければ、あなたはわたしに叫ぶこともなく、
わたしに背を向けつづけて、永遠の滅びへとさまよい続けることを、わたしはよく知っているからだ。
けれども、どの苦しみも悲惨も、まずわたし自身を通って、私を刺し貫き、
それから後、あなたの所に向かうのだ!

聖書は、世界を包む御手を持って、苦しみ痛んでおられる父なる神が、
確かにおられることを語っています。
この世界は、父なき世界に見えますが、そうではありません。
あなたが苦しむ時、孤独と絶望に打ちひしがれる時、
天のわたしたちの父はそこにおられ、腸がわななくほどの痛みを味わっておられます。
そして、あなたが天の父を呼ぶずっと前から、天の父はあなたを呼んでおられます。
このお方はあなたを愛するために造り、いのちを与え、生かしてくださっているお方です。
あなたはこのお方にかけがえのない大切な存在として愛されています!
このお方はあなたと共に生きることを心から願っておられるのです。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、
あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』
エレミヤ書 33章3節


天にいます私たちの父よ(おとうさん!)

★天にいます私たちの父は、愛において完全な、「本当の心の教育者」です★
(マタイの福音書5章43節−6章15節参照)

1、天にいます父は、私たちの地上の父(肉の父)とはまったく違って、愛において完全です。

 私たちの地上の父、肉の父は、神様ではないですから愛において完全ではありません。弱さがあります。
本当に愛していろんなことをして下さっていると思いますが、
自分の思いに従ってくれる者、つまりかわいいものだけを愛するということが、どうしてもあります。
地上の父にとって、親の言うことを聞かない者、親を裏切る者、
親の顔にどろを塗るような者を愛することは非常に難しいのです。

しかし、
「天の父は悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、
正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるお方である」

とイエス様は紹介して下さいました。
天の父は自分を無視し、愛さない者、神を神とも思わない者、
敵のような者をも愛して下さる無限の愛を持ったお方なのです。

このお方は、地上にいる人間としての父ではありません。
また、人間が父親コンプレックスから造り上げた幻影でもありません。
このお方は全世界のすべての人を愛するために造り、
敵をも愛する完全な愛をもって愛し続けてくださっているすべての人の父なのです。

 

2、天にいます父は私たちを教えて育てる(教育する)能力において全知全能です。
⇒天の父は真の心の教育者

 地上の父は全知全能ではありません。
これがこの子にとって一番いいことだと思っても、そうでないときがあるのです。
また、親の目の届かないところ、見抜けないところがあるのです。
そして、地上の父は私たちが願うまでは、必要を知ることが出来ない場合が多いのです。

 天にいます父は目には見えません。
けれども、隠れた所であなたのすべてを見ておられ、すべてを知っておられるお方です。
私たちが願う前に、私たちの必要のすべてをご存知なのです。
私にとって、あなたにとって、何が最善かを良くご存知なのです。
そして、あなたの造り主なる父として、いつもあなたのことを心に留め、
気にかけてくれている人格的な神なのです。

このお方は私たちに日ごとの糧(満ち足りて生きるために必要なすべてのもの)を豊かに与えてくださり、
私たちの負いめ(罪)をすべて赦して下さり、人を赦す愛を与えて下さり、私たちを試みや悪から守って下さるのです。

 天の父は様々な訓練によって、私たちを完全な愛の人、
本当の人間であるイエス・キリストの姿に磨き上げて下さいます。

肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめます。
しかし、 霊の父、天の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

このお方は、何よりも、「祈ること」を私たちに教えて下さるお方です。
主イエス様が「主の祈り」を教えてくださる前にお語りになったことについて、考えてみたいと思います。
それは、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」
ということでした!

 祈る前に、お願いする先にわたしたちに必要なものをすべて知っておられる(全知)なら、
どうして祈る必要があるのでしょう???

時々私たちが祈らなくても、天の父は必要なものを与えて下さる場合があります。
しかし、キリスト者としての歩みを振り返ってみると、
多くの場合、私たちが熱心に、切に願うまでは与えることを留めておられるように思います。
なぜでしょうか?

 それは祈ることによって、私たち自身が、
神様の自分に対するみこころ、計画が何であるかをしっかりとつかむためだと思います。

天の父は私たちに、「自分の願いを押し付けて神様の計画を変える為の祈りではなく、
神様の用意してくださっている最善の計画、みこころを知り、確認するために祈りなさい」と命じて下さっているのです。
神様を動かしたり他人を変えるための祈りではなく、私自身がキリストのような愛の人に変えられるために、
父なる神は私たちに祈ることを命じるのです。

 天の父は祈りの中で、みこころを知り、人を赦すことが出来る者に、
人を愛することが出来る者に私たちを変えて下さる全能のお方です。

「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という命令は、
私たちが天の父に、「そのような者にして下さい」と祈る時に、
神様が私たちを将来必ずそのような者に変えてくださるという確かな約束なのです。

祈りは 「私たちをイエス・キリストのように変えるために用いる父なる神の最大の道具」 です。
そして祈りは「父なる神様と私たちの親しい交わり」です。

 祈りの中で、「父なる神がどれほど大きな愛を持って私たちを愛して下さっているのか」
を豊かに味わうことができます。
それは本当に素晴らしい時です。

私自身、キリストのように変えられるというとてつもなく高い目標を目指して、
生涯、この素晴らしい「主の祈り」を祈り続けるつもりです。


御名があがめられますように

 名前は、その名前で呼ばれる者の全人格、その人自身を現わすものです。
ですから、「御名があがめられますように」という「主の祈り」の一番最初の願いは、
「天にいます、主イエス・キリストの父なる神御自身が、あがめられますように」という祈りなのです。

 私たち人間にとって、最も強い誘惑とは、自分が他の誰よりもあがめられたいという思いです。
まことの神様よりも、自分をあがめさせたいのです。
言い換えれば、自分が神のようになりたいのです。 すべての栄光と称賛を自分自身が受けたいのです。
他人に「あの人はすごいですね!〜さんは素晴らしいですね。」という言葉を言わせたいのです。

 これはキリスト者であっても、そうでなくても同様に、最も強い誘惑です。
また、たとえ牧師・伝道師であっても、最も強い誘惑には変わりありません。
人間的に目に見えるような形で成功すればするほど、この誘惑は激しく襲ってきます。

 ですから、人間の心の一番深い所から、密かに頭をもたげてくる願望は、
「自分の名前が、自分自身があがめられますように」という願いであると言っても過言ではありません。
  実は、この願いこそが、聖書の語る罪というものと最も強く結びついている野望です。
自分の心の王座からまことの神を追い出し、代わりに自分自身が王座に座り、
自分を神として自己中心に生きること…。
これこそが、聖書の語る本物の罪なのです。

  いのち、食物、着る物、住む所、健康、能力、職場・仕事、技術、財産、結婚相手、子供などなど…。

  どれ一つとして、神から与えられたものでないものはありません。
けれどもこれらすべてのものを、あたかも自分で勝ち得たかのように、
神を無視して生きる者はすべて、聖書が語っている罪人なのです。
この人は他人はもちろん、神様でさえも、自分のために利用します。

  こう考えてくると、主の祈りの内容はその一番最初から、
人間が自分からは決して願わない祈りであるということがわかってきます。
けれども、この祈りは、人間が本当に人間として生きるための祈りです。
何を生活の中心として置くかで、その人の人生は決まります。
私たちが、心からの安らぎと充実感、感謝と喜びに満ちあふれた人間として、
永遠のいのちに生きるために必要なこと。
それはイエス様を心の中心にお迎えし、この「主の祈り」を自分の祈りとする生活をすることです。

 私たちの天の父よ!私たちの心の中で、まずあなたの御名があがめられますように。
 私たちの歩みを通して、私たちではなく、ただあなたの御名だけがほめたたえられますように。
 主よ、この国であなたの御名がほめたたえられますように。
  アーメン。


御国が来ますように

「御国」は「神の国」という言葉で置き換えることが出来ます。
いわゆる天国のことだけではなく、
天にいます私たちの父なる神の恵みによる支配、天の父の愛による支配のことです。

もしあなたが本当にこの天の御国の価値を知ったなら、全財産を売り払ってでもその宝を買う値打ちがある。
とたとえられているほどに素晴らしい国です。

それは誰でも、イエス様をキリスト(救い主)として心の中心に受け入れる時に、
現実のただ中で体験できる素晴らしい国です。

愛されている、生かされているという感謝と喜び、生きる力、生きがい、
慰め、励まし、赦しによる心からの安らぎ、人を心から赦す愛などをもって、
豊かな実を結ぶ人生がここから芽生えて来ます。

それはいのちをもったからし種にたとえられていて、
始まりは最も小さい出来事ですが、成長すると、将来大きな木になることが保証されています。

イエス様はこの地上に人間となって来られ、三十歳になられたころから、公に伝道活動をなさいました。

まず語られた言葉は、

「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから (神の国はすでにここに来ているのだから)。」
マタイ4章17節

というものでした。

そしてイエス様がことばと生き様をもって命がけで伝えて下さったメッセージは、
「御国(神の国)の福音」とも呼ばれています。

神の国は目に見える形では現れませんが、イエス様が共にいて下さる所に現実に体験できるものです。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」
マタイ5章3節
とイエス様は弟子たちにお語りになりました。

天の御国は、考えられないほどのあわれみに満ちた王にたとえられています。
たとえあなたに6000億円ほどの罪の負債があったとしても、
あなたが赦しを求めるなら、イエス様はすべてを赦して下さるというあわれみ深い王です。

私たちの身代わりに十字架で死んで下さったことによって、
私たちの罪の負債、借金をすべて支払って下さった王。
仕えられるためではなく、仕えて下さるしもべとなって下さった王。
復活されて、今も生きておられ、天においても地においても一切の権威を持っておられる王。
それが、神の国の王であり主であるイエス・キリストです。

主イエス様。どうかわたしの心の王座にいつもお座り下さい。
そして、私の人生の主として、私を導いてください。アーメン。


みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように

「みこころ」とは天にいます私たちの父なる神の望んでおられること、父なる神のご意志、ご計画のことです。

ここでも天と地が対比されています。

天。 そこではいつでも、みこころが完全に行なわれています。

地。ここではみこころとは正反対の偶像礼拝、裏切り、
暴虐、殺人、姦淫、盗み、偽証、むさぼりなどが行なわれています。

みこころの生き方とは、絶対的な神の物差し(神のことば)をもって、
何が善で何が悪なのかを判断していく生き方です。
みこころが行なわれる所は御国、神の国となります。

みこころでない生き方とは、自己中心で相対的な自分の物差しをもって、善悪の判断をしていく生き方です。

人間が神に背を向ける前には、地においてもみこころが行なわれ、そこは神を中心とした喜び(エデン)の園でした。
けれども人間が神を神としなくなった地では、
みこころよりも自己中心な意志、エゴを押し通そうとする私たちの願望が行われています。

この地上ではみこころが行われていないかのように見えます。
しかし決してそうではありません。

雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、
それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、 食べる者にはパンを与える。
そのように、 わたしの口から出るわたしのことばも、 むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる。
イザヤ55章10−11節

神のことば、神の意志、神の約束、神のみこころは必ず出来事となるのです!
(これがへブル語の「ことば」という単語が同時に「出来事」とも訳せる神学的理由です)

そして、ローマ8章28節には、次のような確かな約束も記されています。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
ローマ8章28節

神は神の愛を受けるのに全く値しなくなった時にも、私たちを愛して下さいました。
それだけではありません。

愛に値しない時に私たちを愛して下さった神は、
その人を取り巻くすべてのことを働かせて 益として下さり、
私たちを御子イエスキリストと同じ姿に変えて下さるのです。

あなたの今置かれている職場、学校、地域、家庭、教会に集ってくる人々は、
この神の見えざる御手をもって導かれて来た人たちです。

中には愛せない人、苦手な人がいるでしょう。
しかしその人たちは、主なる神があなたのそばに置かれている人たちなのです。

主イエス様は、十字架に架かられる前に、
ゲツセマネというところで、血のしずくのような汗を流されながらこの祈りを祈られました…。

祈りの中で、みこころこそ私たちにとって最善であり、
神様は最善以下のことをなさらないことを確信できます。

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
イザヤ55章9節

自分の考えでこれが最善だと思っても、そうでないことはいくらもあります。
しかし、神のみこころはいつでも最高、最善の道です。


人生の舵取りを主イエス様にゆだねるその時、私たちは平安のうちに生きることができるのです。


私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください

この祈りは、前半の祈りに比べると、とても小さな祈りのように感じます。

けれども主は、どんなに小さく思えることでも、私たちの必要に心を配っていて下さいます。
そしてそのためにも祈りなさいと、 いつくしみ深い主イエス様は命じて下さっています。

「一羽のすずめさえ、私たちの父なる神のお許しなしには地に落ちることがない」
(マタイ10章29節参照)

「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 」
マタイ6章26節

「…野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。 働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。
栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、 神はこれほどに装ってくださるのだから、
ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。 信仰の薄い人たち。 」
マタイ6章28−30節

と聖書には書かれています。

イエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」
マタイ4章4節

と語られました。

ここで聖書が語っていることは、 霊の糧と肉の糧、
こころのごはんと肉体のごはんというようなギリシア的霊肉二元論ではありません。

聖書は人間を、心も体も含めた全人格的な存在として見ています。
そして、パンはもちろん、人間が健やかに生きるために必要な日ごとの糧はすべて、
同じ神のことばによって造られていることを教えています。

イエス様は、旧約聖書のことばを引用されて、
パンも神のことばによって造られたものであることを教えて下さいました。

神のことばによって、神の口から出る一つ一つのことばによって、 私たちは日々生かされているのです。

「人間はどんなに物質的に豊かであっても、それだけでは満たされることがない。」
私たち日本人は今やっと、そのことに気づき始めています。

サモアの酋長ツイアビさんが「パパラギ」という本の中で指摘しているように、
「物がたくさんなければ暮らしてゆけないのは、貧しいから」でしょう。

でも自分の心の中が貧しいことに気付いた人は、神の国の門の前に立っています。

パン・食物もすべて神のことばによって造られています。
食物も人間が自ら造ったものではありません。
「食物も神から与えられている恵み」なのです。

主の祈りが指し示している神の国のライフスタイルに生きるためには、
このことを心に刻むことがどうしても必要です。
これが、どんな状況の中でも満ち足りて生きるための秘訣です。

「食物も神から与えられている恵みである」ということを知らなければ、
どんなにお腹が満たされても、決して満ち足りることはありません。

何の感謝もなく、さらに貪欲になり、
「自分さえおいしいものを食べることが出来たらそれでいいのだ」
というライフスタイルを生き続けることになります。

飽食の中で、利益至上主義のマスコミによるグルメブーム・健康ブームに踊らされ、
自分の健康ばかり気遣って、
自分のいのちのことで何を食べようか、何を飲もうかと心配するだけの生き方しかできません。

それは、同じ地球の上で、1分間に約28人(うち子ども21人)、
1日に4万人、1年間に1500万人もの人々が飢えで死んでいるという現実を知ろうともせず、
知ったとしても何の痛みも感じることも出来ずに自己中心に生き続ける罪人のライフスタイルです。

天の父なる神様は私たちの必要をすべて知っていて下さっています。

そして、 私たちの必要はすべて、 神の口から出る一つ一つのことば、
神のことばによって満たされるということを教えて下さいました。

「食物も神から与えられている恵みである」ということを知るとき、そこに感謝と喜びが生まれてきます。

「私たちの日ごとの糧(パン)をきょうもお与えください。」と祈るとき、
「食物も神から与えられている恵みである」ということをいつも心に留め、心に刻むことができます。

この主の祈りを日々祈り続けることによって、自己中心なライフスタイルではなく、
感謝と喜びに満ちあふれた神の国のライフスタイルを自分のものとして生きることが出来ます。


私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

人生の中で、人間関係ほど難しいものはないと思います。
そして、人間関係の中で、「人を赦す」ということほど難しい問題は他にないと思うのです。

実は、主の祈りの中心にあるものは、この「人を赦す」という大きな問題です。
主の祈りでは「神の赦し」と 「人を赦すこと」が結び付けられています。

友人関係であっても、男女関係、夫婦関係、親子関係、職場・仕事関係、民族関係であっても、
争い続け、和解がない原因は、相手を赦すことができないということにあります。

多くの人が裏切られ、傷つけられて、
互いに苦々しい憎しみや怒り、言葉にならない苛立ちの中で悶々とした日々を送っています。

そんな私たちのために、聖書は「人を赦すための秘訣」を語っています。
それは、まず自分自身が神の恵み、神の赦しを体験することです。

インスタントに神の恵みを体験することも、苦もなく人を赦すことも出来ません。
けれども、赦された経験だけが、赦すことを可能にするのです!
「イエス・キリストの福音」の核心には、いつでもまず神の赦しがあります!

 

私たちは聖書を通して、私たちに対する主イエス様の赦しの祈りを聞くことが出来ます。

そのとき、イエスはこう言われた。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
ルカの福音書23章34節

これはイエス様が十字架に両手両足を釘打たれ、磔にされた時に祈られた言葉の一つです。
イエス様は、今自分を十字架につけて殺そうとしている人々のために、赦しの祈りをされたのです!

赦しは神様にとっても簡単なことではありませんでした。
そのことは次の、十字架上のイエス様の叫びを聞くとよくわかります。

さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
三時ごろ、イエスは大声で、 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。
これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
マタイの福音書27章45−46節

この神のひとり子イエス様の叫びを聞かれた天の父なる神は、
その時十字架にこそつけられてはいませんでしたが、
想像を絶する、はらわたがちぎれるような痛みをイエス様と共に味わわれていたことでしょう。
聖霊なる神も、同じように共に苦しみ、うめかれていたことでしょう。

神様にとっても、苦もなく敵を、神に背を向け続けている人間を赦すことなど出来なかったのです。

 

「負いめ」とは「罪」とも言い換えることができます。

人生の中で、失敗をしない人など一人もいません。
誰もが神の前に赦されなければならない罪を持って生きていると聖書は語ります。

人が「神に頼るほど自分は弱くはない」、「神はいない」と言いながら、
造り主なる神を無視して自己中心に生きているなら、
その人はイエス・キリストを十字架につけて殺した罪人の一人なのです。

人が他人に向かって、「あいつさえいなければ」、「おまえなんか死んでしまえ」、
「あんたなんか生れてこなかったほうがよかったのよ」と心の中でつぶやいたり、口に出したりする時、
その人はすでに殺人を犯しているのです。

人は「神はいない」と考えて、どんなことでもすることが許されています。

けれども、スーパーマーケットで買い物をする時、最後に必ずレジを通って代金を支払わなければならないように、
人は人生の終りに、必ず造り主なる神の前に立って、罪の負債を支払わなければならないと聖書は警告します。

しかし、同じ聖書は、
「罪のないイエス様が、わたしたち一人一人の罪を身代わりに背負って、
十字架の上ですべての罪の負債を代りに支払って下さったので、
私の、そしてあなたの罪はすでに赦されているんですよ!」
と福音を語っているのです。

たとえあなたに6000億円ほどの罪の負債、神と人に対する負い目があったとしても、
もしあなたが「イエス様の十字架の苦しみは私の罪のためであった」ということを信じるなら、
イエス様はあなたのすべての罪を赦し、その罪から救い出して下さいます。

神様の赦しは完全です。

主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。
人の日は、草のよう。野の花のように咲く。
風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。
しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。
主の義はその子らの子に及び、
主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。
詩篇103篇8−18

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。
たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。…
イザヤ1章18節

悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
イザヤ55章7節

「「主の御告げ。「「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。
エレミヤ31章34節

イエス様の十字架の上の最後の言葉です。

イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。(負債はすべて返済した)」と言われた。
そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
ヨハネの福音書19章30節

イエス様は
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架つけられ、
死にて葬られ、
陰府にくだり、
三日目に死人の内よりよみがえり、
天にのぼり、
今は全能の父なる神の右に座しておられます。

イエス様は父なる神の右の座で、今も私たちの罪のために赦しの祈りをして下さっています。

そしてイエス様は今、あなたの心の扉をたたいておられます。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。
だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、
わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
黙示録3章20節


私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい

イエス様が荒野で受けられた3つの誘惑に見る「神のようになりたい」という人間の誘惑の本質

1、自分の存在価値やアイデンティティを、 能力や結果という土台の上に築き上げること
-最初の誘惑-

私たちは今、目に見える結果で自分の能力を示さなければ、
存在価値がないと見られる現実の世界に置かれています。


絶えず「何かが出来なければ存在価値がない」、
「能力がなければ必要とされない、愛されない」というものさしが、
自分に対しても、他の人に対しても使われています。

「神に頼るのは弱い人間のすることだ」と言いながら、
そんな中で生きていくためには、必死になって自分の能力を磨き、
出来る限りのことをして自分の能力を示さなければなりません。
もし福音の神を知らなければ、最後には自分しか頼れない、「己こそ己の寄る辺」なのですから…。

それは自分の存在価値やアイデンティティを、
能力や結果という土台の上に築き上げることを意味します。

けれどもこれは人生を非常に不安定で危険なものにする誘惑です。

なぜなら、もし自分の存在価値、アイデンティティを能力、結果という土台の上に築き上げるならば、
能力がある場合や、良い結果が出せる時には大切にされますが、
能力がなくなれば、結果が悪くなれば、一瞬のうちに存在価値を失ってしまうからです。

イエス様は、荒野で40日40夜断食された後、悪魔の試みを受けられました。

その最初の誘惑は、

「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
マタイ4章3節

というものでした。

これこそ、「自分の存在価値やアイデンティティを、 能力という土台の上に築き上げたらどうですか?」
という巧みな誘惑だったのです。

この誘惑に対して、イエス様は、

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
マタイ4章4節

と聖書のことばを引用されました。

イエス様は、自分の存在価値やアイデンティティを、
神のことばという揺るがない土台の上に築き上げることによって、
能力を土台として自分のアイデンティティを築くという試みに勝利されたのです。

私たちは書き記された神のことばである聖書を通して、
自分の存在価値、アイデンティティを豊かに、またしっかりと持つことが出来ます。

なぜなら、神が私たちを愛してくださっている理由は、
私たちの能力や結果(行い)によらないからです!

★"The Gospel of Jesus Christ"の調べ★
神の瞳に映るあなたは、
全世界よりも、全宇宙よりも高価で尊い、かけがえのないパートナーです!!!

私たちが自分の存在価値やアイデンティティを、
神のことばという揺るがない土台の上に築き始める時、
私たちは神から与えられたタラント(才能、能力) をただ神の栄光のために用いることが出来ます。
その時に、神から与えられた使命を忠実に全うする、最高の人生を生きることが出来るのです。

 

2、人々を自分に惹きつけるために神を利用すること
-第二の誘惑-

荒野においてイエス様が受けられた第二の誘惑は、

すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。
「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。
『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、
あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
マタイの福音書4章5−6節

というものでした。これに対してイエス様は、

イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
マタイの福音書4章7節

と答えられ、この誘惑にも勝利されました。

この誘惑は、神を利用して人々を自分に惹き付けようとする誘惑です。
「人々の関心を買うために、人々を自分に惹き付けるために神を利用したらどうですか?」という誘惑です。

この誘惑は「国民を一つにまとめるための政治的手段」として神を持ち出すこととも深く結び付いています。

真の神を神とせず真の神なしで国を治め、国民を一つにまとめるためには、
他の何かを神として祭り上げるしかありません。他に方法がないのです。

けれどもその時に祭り上げられた神は、時の指導者に利用されるだけの存在です。

真の神を神としないということは、自らが神の座に座るということです。
この人は国民はもちろん、 神さえも自分のために利用します。
そして真の神を神としない指導者は、惜しみなく奪う、あわれみのない政治を行います。

労働力はもちろん、経済力、技術力、そして国民一人一人の人生、いのちさえも惜しみなく奪います。

 

かつてのドイツのヴァイッゼッカー大統領はあわれみ深い真の神、イエス・キリストを知っていました。

イエス・キリストの十字架による和解の福音、つまり罪が完全に赦される道を知っていました。

ですから過去を水に流すことなく、しっかりと見つめ、心に刻むことが出来たのです。

ですから全世界に向かってドイツの罪責告白をすることが出来たのです。

「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」
「心に刻むことなしに和解はありえない」
「心に刻むというのはユダヤの信仰の本質である」
ヴァイッゼッカー

日本は今、過去を記憶の中から、そして歴史からも消し去ろうとしています。

本当に国を愛するためには、イエス・キリストの和解の福音にしっかり立って、
今こそ目を見開いて、日本の過去を心に焼き付けなければなりません!

 

3、自分の欲望を満たすために偶像に跪くこと
-第三の誘惑-

今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、
この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。
「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。
「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
マタイの福音書4章8−11節

荒野で主イエス様が受けられた第三の誘惑は、
「自分の欲望を満たすために悪魔(偶像)に跪きなさい」という誘惑でした。

日本でもそうですが、多くの人々が神々の前にひれ伏しています。

一流と言われる企業であっても、中小企業、自営業であっても、
トップの人は必ず何らかの神々を拝んでいるのです。

なぜ人々は偶像の神々の前に跪き、拝むのでしょうか?

それは自分の欲望を満たすため、 自分の野望を達成するためです。
それは自分のために栄光、栄華、快楽をむさぼり求めるからです。

この場合、偶像の神を拝む者は、まず自分の欲望の奴隷であると言えます。
激しい欲望の虜になっている者は、恥を捨てて偶像の神の前に跪くのです。

この誘惑は人間の意志の力を超えてはるかに強力なので、
人間は自分の力では絶対にこの誘惑に打ち勝つことは出来ません。

ある人は金銭的誘惑にブレーキが効かず、わいろを受け取ったり、
偶像の神々の前にひれ伏して商売繁盛を祈願したりします。
この人にとってはお金が神様です。

ある人は性的誘惑に負けて不倫、婚外交渉、姦淫の罪を犯します。
この人にとっては性欲あるいは性欲を満たしてくれる存在が神様です。

金銭、性欲、酒、麻薬、ギャンブル、富・財産、地位・名声・成功、権力・支配できる地位など等…。
この世は私たちを虜にする誘惑に満ちあふれています。

自分の欲望を満たすためにこれらの偶像に跪くことは、
その人だけでなく、その人を取り巻く人々をも確実に不幸にします。

もしキリスト者が自分の欲望を満たすためにこれらの偶像に跪くならば、
祝福の基ではなく、禍の基となることは過去を振り返ると明らかです。

 

イエス様が荒野で受けられた3つの誘惑に見る「神のようになりたい」という人間の誘惑の本質は、
第一に自分の存在価値やアイデンティティを、 能力や結果という土台の上に築き上げること。
第二に人々を自分に惹きつけるために神を利用すること。
そして第三に自分の欲望を満たすために偶像に跪くことでした。

自動車の運転でもそうですが、人生の中で何が一番恐ろしいかと言うと、
止まりたい時、止まらなければならない時にブレーキが効かないことです。

本当の自由は、何をしてもいいという所にはありません。
本当の自由とは、「止まりたい時、止まらなければならない時に止まれること」なのですから!

この本当の自由を私たちのものとする唯一の道は、
私たちと同じ肉体と弱さを持った人となられ、
これらすべての誘惑に勝利された主イエス様に助けを求め、
イエス・キリストの父なる神を呼び求めることです。

主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
ヘブル人への手紙2章18節

私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、
おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ヘブル人への手紙4章15−16節

これらの誘惑に勝利する唯一の道は、
神に寄り頼み、神に祈ることです。

天にいます私たちの父よ!
私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい!


国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
アーメン。

これまで主の祈りの内容を、順番に味わってきました。

今までの内容は、ただお願いでした。
賛美の調べ、喜びの調べではありませんでした。

一番最後になって、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。 アーメン。」
とあります。

けれどもこの最後の部分は、イエス様が祈りを教えてくださった時にはなく、
後から弟子たちが付け加えた部分だと言われています。

最初から最後まですべてお願い…。
実はこれが、主イエス様が主に従う弟子たちにこう祈りなさいと教えて下さった祈りなのです!

つまりイエス様は、祈る時にはすべてお願いだけでもいいと教えて下さったのです!!!

けれども、この慰めと配慮に満ちた恵みの深い主を覚えることができ、
祈りのうちに心が変えられた弟子たちは、
この祈りの最後に、主への感謝の応答として、
この素晴らしい賛美を言い表さずにはおれなくなったのだと私は想像します。

すべての栄光、誉れ、賛美を、溢れる感謝と共に、ただ父なる神に帰する賛美で終る主の祈り。
この主の祈りの恵みは汲んでも尽きない泉のようです。

(A.D.2000年7月22日 主にありて 野町 真理)

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