Apr. 17, 2000

私の志

My vision for contribution to Japan and the World

野町 真理

半導体の研究開発についてのエピソードは、
菊地誠著の「若きエンジニアへの手紙」(ダイヤモンド社)からかなり引用させて頂きました

 私は黒潮流れる南国土佐の高知県に生まれ育ちました。アマチュア無線で世界中の人と交信をしていた父の影響を受け、小さい頃から電気に興味を持っていました。そのため中学校を卒業した後、高知高専に入学し、5年間電気工学(エンジニアリング)を学びました。高専では普通高校と違って大学受験のための厳しい受験戦争を経験することがありません。そのため5年間空手道にも励むことができました。吉川英治著の宮本武蔵を読んで、より高い自分にとどきたいという強い憧れを持ちました。高専を卒業した後も、両親の理解と経済的サポートによって豊橋技術科学大学において学びを続けることが出来ました。大学院修士課程では電気・電子工学を専攻し、鉄に変わって「産業の米」と呼ばれるようになった半導体の結晶成長に関する研究を行う機会が与えられました。半導体といっても、なじみのない方もおられると思います。したがってまず、半導体がなぜ「産業の米」と呼ばれるようになったのか、そのいきさつを述べたいと思います。そしてその後で、私の歩んできた道を振り返りながら、私の所感と志を述べたいと思います。

 今から50年程前の1948年6月、アメリカのベル電話研究所がトランジスタラジオで有名なトランジスタの誕生を公開する記者会見を行いました。それはニューズウィークやタイムのような週刊誌でも、ほんの小さな記事でしか扱われませんでした。しかし、今日のハイテクノロジーの根幹をなす半導体エレクトロニクス技術の源はまさにこのトランジスタの誕生であると言えます。なぜならトランジスタに源を発する半導体技術とこれに関わる科学が現代のほとんどすべての生活とその周辺に浸み透っていて、広く見れば20世紀の生活文化全般を特色づけているからです。ラジオ、テレビ、ビデオ、コンパクトディスク、MD、DVD、CD−ROMなど。また、電話、無線、FAX、衛星放送、光通信、ISDN、電子メール、インターネット等で代表される通信、電卓、ワープロ、パソコン、コンピュータ、プリンタ、コピー機、デジタルカメラなど、あるいは各種センサーや太陽電池などにおいて半導体が使われていないものはありません。

 数年前、戦後50年目を迎えました。わずか50年程前、天皇を神とした悲惨な戦争に敗れ、貧しい小国として復興の道を歩き出した日本。その日本が今日これほど世界の中で注目され、さまざまな新しい問題に引き込まれるようになった一つの原因は、神のあわれみと共に、日本が1948年にトランジスタを熱心に学び始めたということにあると思うのです。トランジスタを工業化したことから自然に集積回路(IC)にも手をつけ、エレクトロニクスの技術を次々にマスターしていった日本は、約50年の間に高度成長期を経て、世界でもトップレベルの技術を身に付けていました。そして今、半導体エレクトロニクスはあらゆるハイテクノロジーの中核となっています。

 ところで、このトランジスタの発明までのいきさつには「ものづくり」をする際に何が必要であるかを指し示してくれるいくつかのエピソードがあります。トランジスタを発明したウイリアム・ショックレーはあるインタビューで「トランジスタの発明は偶然ですか?それともうまく計画された研究の成果ですか?」と質問されたとき、「トランジスタの発明は、非常にうまいマネジメントで行われた研究の中から、偶然生じた。」と答え、人々を笑わせました。しかし「よく計画し、管理された研究の中で偶然生まれた」という表現はその経緯を見ていくとその通りであるとうなずけます。

 技術の研究・開発におけるマネジメントにおいて、まず第一になされることは、技術予測、市場調査、技術評価を通して、何が必要とされていてどのようなものをつくるのかという明確なビジョンを得ることです。特に「ものづくり」のための研究・開発をする場合には、何を実現したいのか、成し遂げたいのかという具体的な目標がないと形のあるものが何も出てこない結果となります。これは例えば暗闇で物を探すとき、何を探すのかがはっきりわかっていれば、探し方の手順が出て来ますが、ただ手を振り回し、足で探るだけでは目標の範囲を狭めることもできないのと同じです。明確な目標のないところに技術革命は生じないということが言えると思います。トランジスタ研究の際なされたマネジメントはまさにこのことを教えてくれます。

 その当時、将来のアメリカ社会を考え、そのために今何をしておかなければならないかということを考えていたマネージャーがいました。彼は広い国土に散って住んでいるたくさんのアメリカ人が、いつでもどこでも、まるで「面と向かって(face to face)」話を交わすことが出来るシステムが何よりも重要な存在価値を持つと考えました。これは要するに電話のネットワークです。ところがアメリカの広い国土でこれを達成するには、回路を切り替えるスイッチと、信号の減衰を防ぐ増幅装置が高度の機能を持たなければならない。その当時増幅装置といえば真空管であり、機能の限界は目に見えていました。したがって真空管をはるかに超える能力を持つ増幅装置を考え出すという明確な目標が掲げられました。ショックレーはこの仕事を成し遂げることを志とし、この夢に挑戦し続けました。失敗の連続の中で彼を支えたのは、この使命感、志であったと思います。そして彼はある日、実験における失敗によって半導体結晶の中で起こる増幅現象を発見し、トランジスタの誕生となります。現在、驚くべき半導体の集積化技術によって、手のひらに乗る一つの半導体チップの中には1億個以上のトランジスタや素子が作り込まれています。また、国際電話やインターネット等、地球規模のネットワーク形成には光ファイバーケーブルと半導体による発光・受光素子が使われており、これらが今の情報化社会、マルチメディア社会を支えています。そしてコードを切ってしまった携帯電話は高性能の半導体チップによって実現されています。「半導体」が、そして半導体技術をベースにしたネットワークによる「情報」が、現在産業の米と呼ばれるようになっている理由がここにあります。

 明確な志を持つことの大切さ。このことは「ものづくり」に限らず、むだにならない人生を生きるためにも大切なことだと思います。「志立たざれば舵無き舟、くつわなき馬のごとし」という言葉もあります。人生80年といっても死は突然来るものです。ある日突然自分の葬儀に出会う。それが人生ではないでしょうか?自分も必ずいつかは死ぬ存在であるという厳然たる現実に目を向けるとき、何のために何が見たくて生きるのか、どのように毎日を生きるべきかを真剣に考えずにはいられなくなります。「光陰ジェット機のごとし」と感じている今日この頃、私は自分の日常がすなわち遺言であるような、そんな確かな生き方をしたいと願っています。

 豊橋技術科学大学は日本でも数える程しかない「動くIC」を作れる研究設備と技術を持つ大学です。実際に自分でICを作製しそれを評価してみると、その原理と技術に目を見張るばかりです。半導体といえばシリコンと言われるほどにシリコン結晶は優れた物理的、化学的性質を持っています。中でもシリコンとその表面に形成されるシリコン酸化膜(SiO2)との相性は「神が与える最高の関係・パートナー(The best relationship which God gives.)」と呼ばれるほどに素晴らしいものなのです。何がそのように優れているのかというと、シリコン酸化膜の電気的絶縁性です。(そうやすやすと神を持ち出すなとおっしゃるかもしれませんが、1/100000の割合でしか界面に欠陥が存在しないのです。人間がつくろうと思ってつくれるものではありません。)現在、LSI(大規模集積回路)、超LSIさらには超々LSIと発展しつつあるIC技術は、一つの半導体の内に多くの素子を集積しようとする考えと、シリコンの表面をこのシリコン酸化膜で覆い、その絶縁膜の上に配線して素子を結ぶ技術にありました。この優れた絶縁膜と超微細加工技術によってLSIを作製することが出来るのです。

 ところで半導体において、テン・ナインズという言葉を耳にされたことがあるでしょうか?結晶の純度(きれいさ)を表す数字です。99.99999999%と9が10個続く数字、これがテン・ナインズの意味です。これは例えばシリコン結晶中でシリコン原子を100億個数えると、そこに1個の不純物原子があるという純度です。実は半導体でトランジスタなどを作るためには、テン・ナインズレベルの純度が必要なのです。いったいどの様にしてそのような純度の半導体を作るのかというと、偏析という物理的現象を巧みに利用しています。絵の具を溶かして色が付いている水をゆっくり凍らせると、凍った氷には色が付かないという現象がそれです。ふつう物質をどろどろに溶かしてゆっくり固めると、固まっていく部分には不純物が入りにくいという性質があり、これを偏析現象といいます。この現象を利用して結晶の純度を上げていきます。「艱難汝を玉にす」という言葉がありますが、自然科学の現象を見ていくとまさにその通りだと思います。

 また、豊橋技術科学大学には宇宙空間と同程度の超高真空を作れる装置があり、原子レベルで膜厚と組成を制御しながら半導体結晶薄膜を作る(結晶を成長させる)ことが出来ます。原子が規則正しく並んでいる単結晶半導体基板上に供給した原料が、下地(基板結晶の原子の列び)に従って規則正しく配置することにより、基板上に単結晶薄膜が成長することをエピタキシーといいます。エピタキシーという言葉はギリシャ語で、「下地に合わせて上にアレンジすること」というような意味です。ヘテロエピタキシーというと、下地と異なるものを下地に合わせて上にアレンジすることを意味します。私の大学院で行っていた研究のテーマはヘテロエピタキシーに関することでした。具体的にはシリコン(Si)基板の上に化合物半導体であるインジウムリン(InP)を結晶成長させることを目的としています。なぜそんなことをするのかというと、簡単に言えば、Si、InPともにお互いがお互いの持っていない優れた性質を持っているからなのです。言い換えれば、Siに出来ないことがInPに出来、InPに出来ないことがSiに出来るのです。Siによる大規模集積回路(LSI)はエレクトロニクスの主役の座を占めています。しかし結晶の性質としてレーザーのような発光素子を作製することは出来ません。一方、InP系の化合物半導体は光素子用の材料として優れた性質を持ちますが、SiのようなLSIを作製することは出来ないのです。ですからInPとSiのヘテロエピタキシーが実現すれば、お互いの足らないところを補い合って光電子集積回路といった次世代の集積回路が実現できることになります。

 しかしこの二つの異なるものを一つにしようと試みる時、いくつかの問題があります。例えば結晶のブロックの大きさが異なることや熱膨張係数(温度が変化したとき、伸び縮みする量)が異なることなどです。このため直接ヘテロエピタキシーを試みると、転位と呼ばれる結晶欠陥や歪みが生じ、光らない結晶となったりします。これらの問題を解決するため、歪みや格子不整合を吸収してくれる物質を両者の間に挿入し、その上に高品質な結晶を成長させようと励みました。

 考えてみると、私たち人間が共に生きていくということはヘテロエピタキシーを試みていくことではないでしょうか?ひとりとして同じものの見方、考え方、感じ方をする人はいません。そして全ての人が「その人にしかないよさ」を持ち、お互いがお互いを必要としながら生きています。共に生きるために相手を理解する努力をすること。ゆるし合い、助け合い、励まし合い、足らないところを補い合って共に生きようとすること。これはまさしくヘテロエピタキシーです。結婚ということもまさにヘテロエピタキシーではないでしょうか?健やかなときも、病めるときも共に歩くために…。 しかし私たちが共に生きようとするとき、自己中心、お互いの間の違いから生じる不平、不満、悪口、怒り、ねたみ、劣等感、憎しみ、ゆるせない心、相手を束縛する心、裁く心、見下す心といったものが必ず生じます。これらの歪みを吸収してくれるものが間にないと人と人とのヘテロエピタキシーも亀裂が入ってうまくいきません。技術だけでなくライフスタイルもアメリカの後を追っていた日本は今、家庭崩壊の危機にあります。離婚する夫婦、あるいは離婚はしなくても心がまったく通じ合えない冷たい関係の中で一つ屋根の下で生活している夫婦、子育てを重荷としか考えられない両親がますます増えています。


 10年前、私が高知高専の最終学年の時、フィリピンから留学生が来ました。ある英語の先生のおかげで英語が大好きになっていた私は、担任の先生に勧められて彼のチューターになりました。私は寮に住んでいましたが、彼は私の部屋の隣に住むことになりました。いっしょに食事をしたり、夜が明けるまで彼の部屋でいろんなことを語り合ううちに、彼とは国籍、異なる文化、言葉の壁を超えてなかなか巡り会えない親友になりました。

 彼は夏休みが終わったころには土佐弁と呼ばれる高知の方言を覚え、私に福音と呼ばれているイエス・キリストの十字架のメッセージを語ってくれました。「野町君、心の中に罪を持っちょったら天国に行けんがでー。けんど神のひとり子のイエス様は野町君のために身代わりに十字架に架かって死んでくれたが。ほんでもし野町君がイエスキリストを信じると天国に行けるがやきー。」というようなかんじで…。私は神などいてもいなくても自分には関係ない。神などに頼るのは弱い人間のすることだと思っていたので聞き流していました。しかし新潮文庫の100冊の中に挙げられている三浦綾子著の「塩狩峠」という本を読んだ時、プレゼントしてもらった聖書を自分から読むようになりました。

 北海道に塩狩峠という峠があります。そこで起こった列車事故のことがその本には書かれてありました。ちょうど列車が峠を登りきろうとしたとき、連結器が外れて後ろの車両が暴走を始めたのです。叫び声の中で一人のイエス・キリストを信じていたクリスチャン青年が立ち上がり、手回しのハンドブレーキを回して暴走を止めようとしました。しかし、列車は止まらず目の前に大きなカーブが迫って来たのです。彼は祈って考えました。今このスピードなら、私が列車の前に身を投げて列車の下敷きになれば乗客を助けることが出来ると…。そしてもう一度祈った彼は自分の命を犠牲にして乗客を助けたのです。真っ白な雪を彼の血飛沫が真っ赤に染めたそうです…。私は涙が止まりませんでした。自分には絶対出来ないことだと思いました。そしてクリスチャンは自分にはない何かを持っているような気がして聖書を読み始めたのです。

 聖書の中には人間がつくった神ではなく、人間を、そしてこの無限の大宇宙を創られたただひとりの神様(天の父なる私たちの神)のことが書かれてありました。神秘的な自然や偉人が拝む対象になる日本的な神観を持ち、深く考えることなく無意識に進化論を受け入れていた私にとって、衝撃的な神観の革命でした。そして聖書はまるで本当の自分を映し出す鏡のように私の心の中の醜さ、弱さを見せてくれました。神を神とせず、自分は正しいとして人を見下し、裁き、結局自分のことしか考えていない自己中心なエゴの姿に絶望を覚えました。しかし神様からのラブレターと呼ばれている聖書にはこう書かれてあったのです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 旧約聖書 イザヤ書43章4節 と…。

(聖書全体が語っているメッセージは「神は愛なり」ということです。明治時代に二葉亭四迷という文学者が英語の”LOVE”という言葉をどのように日本語に翻訳したか、ご存じでしょうか?愛の本当の意味を伝えるために「あなたのために死ねるよ。」と訳したそうです。愛とは自分の最も大切なもの、命を与えることです。なぜ神が愛なのでしょうか?それは神が最も大切なひとり子、イエス・キリストの命を、ご自分の命を私たちに与えて下さったからです。)

 そのとき、私を造り、生かして下さっている神様は、すべてをお見通しのはずなのにこんな私を高価で尊い存在として愛していて下さることがわかったのです。そしてあのイエス様を十字架につけて殺したのは他の誰でもない、私であることに気がついたのです。イエス様は私の罪から来る報酬である死を身代わりに受けて下さり、永遠いのちそのものである神様と結びついて生きることが出来るようにして下さったのです。十字架につけられた後、3日目によみがえって今も生きておられるイエス様に出会ったとき、私はイエス様を心に受け入れるお祈りをして永遠のいのちをいただきました。私のいっさいの努力に関係なくただ神の恵みによって…。

 私はこの神様の愛を知るまではいつも他の人と自分を比較して生きていました。そして自分よりもできる人を見る時、自分には価値が無いように思えて仕方がありませんでした。ですから一生懸命努力し、価値のある人間になろうとしました。しかし努力すればするほど、自分には価値がないように感じました。それは自分でしたいと思う良いことをすることが出来ず、かえってしたくない悪いことばかりをしてしまう自分をどうすることも出来なかったからです。今考えると、無意識のうちに自分よりもだめな人間を見つけ、心の中でその人を見下すことによって自分には価値があると思い込ませ、かろうじて生きていました。しかし私を造って下さり、生かして下さっている神様はいのちを与えて下さるほどに私を愛して下さっている。そのことを知ってから、私の人生は180度変わりました。美しい自然や、目に映るもの全てが神様によってつくられたものだということを実感した時、世界が輝いて見えました。生きててよかったと心から言えるようになりました。

(聖書は言います。ひとりの人間には全宇宙に優る価値があると。生まれる前の赤ちゃんであったとしても、老人であろうと、健康であろうと病気であろうと、有能であろうと無能であろうと、あなたには何にも代えられない価値、はかり知れない宇宙のすべてにもまさる価値があると。それは神のひとり子のイエス・キリストが、神ご自身が十字架の上で自らの命を捨ててまでして救おうとしているのがまさにあなたなのだからです。)

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 新約聖書 ヨハネの福音書3章16節

 神様と人との間のヘテロエピタキシー。そこには創られたものと創ったものという無限の違いと罪という壁が存在します。しかしイエス・キリストの十字架と復活によって、神と和解し、人はもう一度いのちと愛の源である神に結びついて生きることが出来るのです。神との関係が回復するとき、おのずから人との関係も回復し、自然との関係も回復するのです。

「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」

新約聖書 1コリント3:10-15

 イエス・キリストに出会ってから、もう10年になります。阪神大震災の際には、目に見えるもののもろさと突然来る死の現実を痛感しました。あの時一瞬にして立派な建物が崩れ落ち、丈夫なはずの高速道路が横倒しになり、たくさんの方が亡くなりました。二次災害として火災が発生し、神戸の町が一夜にして焼け野原になりました。崩れ残った建物がゴウゴウと燃えているのをTV中継で見ていると、主があるみことばを思い出させてくださいました。

「もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます…」 1コリント3:14

 イエス様がもう一度来られる日、火をもって各人の働きの真価が試されると聖書に書かれています。私は焼けない建物を建てるようなむだにならない生き方をしているだろうか?焼けない建物って何だろう?どうやって建てたらいいのだろう?という疑問とともに、「主よ、私の地上での短い旅人、寄留者としての生活を通して、焼けない建物を建てさせて下さい!」という祈りが口をついて出てきました。その後、主の花嫁、主の御体である教会こそが焼けない建物だと思いました。目に見える教会の建物は焼けるかもしれません。しかし、教会とはそこに集う(たとえ肉体的に集えなくても、祈りの内に霊的に集う事ができます)クリスチャンひとりひとりによって形成されるものだからです。さらにこのみことばによって、人の目、人の評価から解放されました。なぜなら神ご自身がすべてを知っていて下さるからです。

 戦後、日本は経済的に世界最大の祝福に預かりました。物質的な豊かさの中で、本当の豊かさというものが何であるかがぼやかされてきました。日本に、そして世界に今必要なもの。それはイエス・キリストの福音です。イエス・キリストという揺るがない土台の上にキリスト教会を建てる。神の恵みをむだに受けないためにまだイエス・キリストを知らない方に道であり真理であり命であるイエス・キリストを伝える。それが私の志です。

 21世紀を目前にした今日、インターネット上で教会案内やキリスト教に関する文章、音声(音楽)、画像情報を世界中の神学校・大学の図書館や教会などから入手することができます。1456年グーテンベルグが世界で最初に印刷機を発明したとき、最初に印刷された本は「聖書」でした。それまでは手書きで写本をしていたのですから、個人的に聖書を持つことも非常に困難でした。1926年、ラジオ放送を用いても福音のシャワーが届けられるようになりました。1952年、TV放送を用いても福音が届けられるようになりました。そして今日でも、歴史を導いておられる主イエス・キリストの父なる神は、キリスト者の人格を通しての語りかけという方法を中心として、人間がその与えられた創造力を用いて生み出してきた科学技術さえも用いて、全世界に神の国の福音を宣べ伝えようとされています。

I am the way, and the truth, and the life;
no one comes to the Father, but through me.
-Jesus Christ- John 14:6


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