NEW! 2001年 8月5日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)
11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
先程ご一緒に主の祈りを祈りましたが、この前から、主イエス・キリストが、その弟子たちに教えて下さった主の祈りに、ご一緒に耳を傾けることを始めました。前回は「父よ!」という素晴らしい呼びかけについてご一緒に恵みを味わいました。今日はその続きになりますが、 「御名があがめられますように!」 という祈りを、ご一緒に味わっていきたいと思っています。
主イエス様が教えて下さった主の祈りでは、「父よ!」という親しい呼びかけのすぐ後に、「御名があがめられますように」という祈りが来ます。御名というのは、父なる神様ご自身のお名前のことです。名前というのは、不思議なもので、その名前で呼ばれる者自身をよくあらわしています。
例えば、イエス様という名前を、心に思い浮かべてみて下さい。このルカの福音書をよく読まれている方なら、あの良きサマリア人のようなお方をすぐに思い浮かべられるかもしれません。傷つけられて倒れている者のそばを、決して通り過ぎることなく、近寄って下さり、時間と労力と心を裂いて、介抱して下さるいつくしみ深いお方。そのようなイエス様のイメージが、その人の心の中に湧き上がって来るかもしれません。
またある方は、イエス様という名前を心に思い浮かべた時、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」という十字架の上で祈られた言葉を思い出すかもしれません。その人はイエス様という名前を聞いたとき、赦す愛に満ち溢れたお方をイメージされるでしょう。
このように、名前というのは、その名前で呼ばれる者自身をよくあらわしているのです。「名は体をあらわす」という言葉があるとおりです。
さてイエス様は、「御名があがめられますように」と祈りなさいと、教えて下さいました。この祈りは、「名は体をあらわす」ということを考えると、「主イエス・キリストの父なる神ご自身があがめられますように」という祈りであることがわかります。あがめられますようにという言葉には、聖なるものとされますようにという意味があります。ですからこの祈りは、神様ご自身が聖なるものとされますようにという祈りです。言い換えればこれは、神様が神様とされますように、神様が神様としてほめたたえられますように、という祈りなのです。
ここで、私が小学生の時の思い出を少しお話したいと思います。ちょうど今のような夏の暑い時で、プールで泳ぐ時でした。一人のクラスメートがふざけて生意気なことをしていた時、担任の先生が怒って、その子にこう言いました。「おまえ何様やとおもっとるんや!?」と。そうしたらすかさずそのクラスメートは「神様!」と答えたのです。その後に起こったことは、…先生のげんこつがその子の頭に飛んだということでした。…これは笑い話ですが、イエス様を信じた今、この話はとても考えさせられることを含んでいると思います。
それは、今日のこの「御名があがめられますように」、「神様が神様とされますように」という祈りと、とても関係しています。最近、駅前や学校の前などで教会の案内を配っていると、「神様か、俺が神様や!」と笑いながら、でもはっきりとそう言い切る高校生に何人か出会いました。でも普通、「私が神様です」なんてはっきりと言い切る人はあまりいません。だからこそ、さっき笑った人がいたんではないでしょうか。でも皆さん、胸に手をあてて、じっくりと考えて見てください。口で「私は神です」とは言わなくても、心の中では、まるで自分が神様であるかのように考えておられないでしょうか?自分は正しいとして、人を裁いたり見下したり、罪に定めたりということを、あなたはなさっておられないでしょうか?あなたは本当に、あなたの造り主なる神を神としてあがめておられるでしょうか?
そう考えると、実は神様を神様としてあがめる、神様を神様としてほめたたえるということは、私たちにとって、普通はしたくないことだということが分かっていただけるのではないかと思います。
聖書を読むと、実はこの神様を神様としてあがめたくないというところに、人間の罪と呼ばれるものがあるということが書かれています。
私たち人間にとって、最も強い誘惑とは何でしょうか?それは、自分が他の誰よりもあがめられたい、自分が神様のようにほめたたえられたいという思いです。まことの神様よりも、自分をあがめさせたいのです。この思いを一言で言えば、自分が神のようになりたいということです。すべての栄光と賞賛を自分自身が受けたいのです。他の人に「あの人はすごいですね!〜さんは素晴らしいですね。」という言葉を言わせたいのです。
実は、この願いこそが、聖書の語る罪というものと、最も深く結びついている野望なのです。創世記3章を見ますと、最初の人間アダムとエバが、そしてすべての人が犯してしまった罪のことが、書かれています。初めに神が天と地を創造された時、造り主なる神がお造りになったものはすべて非常に良きものでした。主なる神はエデンの園(喜びの園という意味)を人間のために設けて下さいました。人間が人間として喜びに溢れて生きていくために必要なものすべてを、造り主なる神は用意してくださったのです。そしてその後、創造の冠として神のかたちに似せて造って下さった人間を置いて下さったのです。
主なる神は喜びの園に、数え切れないほどの数の、実のなる木を植えられました。そして、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、園の中央にある善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とおっしゃられたのです。
しかしそこに試みる者であるサタンが、蛇の形をとって現れ、人間をこう誘惑しました。「あなたがたがそれ(善悪の知識の木の実)を食べるその時、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と。皆さん、この、「あなたがたが善悪の知識の木の実を食べるなら、神のようになれるんですよ」という言葉こそが、人間にとって、自分が神のようになりたいという野望をくすぐる最も強い誘惑だったのです。
善悪の木の実を取って食べないという生き方は、造り主なる神を善悪の規準とする生き方でした。つまりそれこそが、神を神とし、御名をあがめる生き方だったのです。しかし、善悪の木の実を取って食べるという生き方は、造り主なる神を善悪の基準とする生き方ではなく、自らを善悪の基準として生きるということだったのです。つまり、善悪の木の実を取って食べる生き方こそ、神を神とせず、自らを神の座に置いて、自分の名前があがめられますようにと願いつつ生きる道だったのです。
この誘惑は、私共がたとえキリストを信じ、キリスト者になっていたとしても、同じように最も強い誘惑であることには変わりありません。たとえ牧師や伝道師であっても、最も強い誘惑には変わりないのです。キリスト者であっても、人間的に目に見えるような形で成功すればするほど、用いられれば用いられるほど、この誘惑は激しく襲って来るのです。
人間の心の一番深い所から、密かに頭をもたげてくる願望は、「自分の名前が、自分自身があがめられますように」という願いである。そう言っても決して過言ではないのです。自分の心の王座からまことの神を追い出し、代りに自分自身が王座に座り、自分を神として自己中心に生きること!これこそが、聖書の語る本物の罪なのです。
いのち、健康、能力、仕事、結婚相手、子供、食べ物、着る者、住む所。数え上げたらきりがありませんが、どれ一つとして、神から与えられたものでないものはありません。けれども、これらすべてのものを、あたかも自分で勝ち得たかのように、神を無視し、感謝もせずに生きる者はすべて、聖書が語っている罪人なのです。この人は他人はもちろん、神様でさえも、自分のために利用します。まるで自分の召使であるかのように。
こう考えてくると、主の祈りの内容は、その一番最初から、人間が自分からは決して願わない祈りであるということが分かってきます。
大学時代、研究室の指導教官がよく口にしていた言葉。「君は何が見たくて、何のためにその研究をやっているの?」指導教官の言いたかったことは、具体的で明確な目標を持って研究をしなければ、いい研究など出来ないよ。ということだった。
私は、指導教官が「君は何が見たくて、何のためにその研究をやっているの?」と問われる度に、このように主に心を探られているように思えてならなかった。「おまえは自分の栄光のためにそれをするのか?それとも、私の栄光のためにそれをするのか?」と…。
必死になって自分を磨き、学歴をつけ、資格をとり、はくをつける。
必死になって人前でパフォーマンスをし、自分を自分で推薦する生き方。自分で自分を売り込む生き方。
劣等感と優越感の狭間でレッテルを貼りあう生き方。人の目の奴隷。
すべては自分のためにパフォーマンスをする空しい生き方。その土台とするものは自分の能力。
自分の弱さ、貧しさ、みにくさ、欠け、マイナス、空手であることを認め、
必死になって神に依りすがり、十字架を見上げ、神の愛の中で憩う。
すべては神のためにパフォーマンスをする喜びと感謝に溢れた生き方。その土台とするものは神の愛。
神の栄光と恵みは弱さのうちに最も輝く!
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
2コリント12:9−10
この主の祈りは、人間が本当に人間として生きるためにどうしても必要な祈りなのです。何を生活の中心として置くかで、その人の人生は決まります。私たちが、心からの安らぎと充実感、感謝と喜びに満ち溢れた人間として、永遠のいのちに生きるために必要なこと。それは、私たちの罪のために十字架の上でいのちを投げ出して下さり、3日目の朝に復活され、今も生きておられるイエス様を、心の王座にお迎えし、この主の祈りを自分の祈りとして日々祈る生活をすることです。
私たちの天の父よ!
私たちの心の中で、まずあなたの御名があがめられますように。
私たちの歩みを通して、私たちの名前ではなく、ただあなたの御名だけが、高らかにほめたたえられますように。
天のお父様。この国であなたの御名がほめたたえられますように。
主イエス・キリストのお名前によって、祈ります。
アーメン。
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野町 真理
このページの絵はJohn Bell's Christian Art Galleryから提供されたものです。