NEW! 2003年 4月20日 イースター主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)
15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、
どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、
あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。
なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、
私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、
あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
皆さんの家族や親族の中で、一番記憶に新しい葬儀は、どなたの葬儀でしょうか?家族・親族の中で一番記憶に新しい葬儀。それは私の場合、2000年の5月31日に持たれた、私の母方の祖父、おじいちゃんの葬儀です(親しみを込めて「じいちゃん」と呼んでいた)。
葬儀の後、じいちゃんのなきがらが収められた棺おけが、釜の中に入れられ、釜のふたが閉められたその時のことを、今でも忘れることが出来ません。私の胸は悲しみでいっぱいになり、目からは涙が溢れ、顔がくしゃくしゃになりながら、ボロボロ、ボロボロと涙が止まらなくなりました。そしてしばらく待った後、白い骨となったじいちゃんを骨壷にひろって収めました。
けれどもそのような葬りの中でも、私の心の中には確かな希望がありました。それは、死の向こうにも持つことの出来る確かな希望でした。その希望を一人でも多くの方に知って頂きたくて、私は遺族の方々に次のような手紙を書きました。
おじいちゃんが亡くなられたことを覚え、おばあちゃんをはじめ、ご遺族の方々の上に、主イエス・キリストの父なる神からのお慰めがありますようにと心からお祈りいたします。 おじいちゃんは私にとって、母方の祖父になります。いつも私は、「じいちゃん」と親しみをこめた呼び方をさせて頂いていました。
私が小さい頃、じいちゃんが私をいろんな所に連れて行って下さり、一緒に遊んで頂いたことなどを今思い出します。昨年の三月二十日、私の結婚式の際には、はるばる高知から愛知県豊橋市まで来て下さり、一緒に新しい門出を喜んで下さいました。その時少し咳き込んでおられたようですが、その後胸に痛みを覚えられ、医師に肺がんであると診断されたようです。先日ゴールデンウィークに、私は妻と共に高知に帰り、じいちゃんをお見舞いすることが出来ました。病院に入院し、痛みを和らげるモルヒネを使っていましたが、時折激しい痛みに襲われて、身体を震わせながら痛みをこらえていたじいちゃんの姿を忘れることができません。
じいちゃんが八十三年の、この地上での旅を終えられた今、私は一つの確かな希望があることを皆様にお伝えしたいと思っています。それはじいちゃんが、病室で私と一緒に、イエス・キリスト様を心に受け入れるお祈りをされたことです。これはつまり、その時じいちゃんが、「天国へのパスポート」を手にされたということでありました。聖書の中には、永遠に変わることない神様の約束が書き記されてありますが、その中に次のような約束があります。
『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
新約聖書 ヨハネの福音書十一章二五節』
私はこの聖書の約束によって、祖父、おじいちゃんが今、私たちにいのちを与えられた造り主、天の父なる神様のふところに帰り、一切の痛みから解き放たれ、静かに休んでおられること、そして主イエス・キリストが再びこの地上に来られる時によみがえることを信じています。またこの約束によって、私が将来天国に行ったときに、必ずじいちゃんと再会できるという希望があるのです。慰め主イエス・キリストが、皆様と共にいてくださいますように。
私の母方の親族には、創価学会の信者の方が多くいます。特に祖父の家は、近所の創価学会の方が集まって集会が行われていたような家でした。その祖父が、病床にあって主イエスを信じ受け入れ、そしてしばらくの眠りについたことは、本当に主のなさった奇跡でした。
先日私共の豊橋ホサナキリスト教会でも、召天者合同記念礼拝式が持たれ、すでに天に召され、主のふところでしばらくの眠りについておられる方々のことを覚える時を持ちました。そしてその後、桜がきれいに咲いてにぎわう向山の墓地に足を運び、納骨式も持たれました。ご遺族の方々、特に最近、身近な家族・親族、友人を亡くされ、葬儀をなさった方々の上に、主イエス・キリストの深い慰めと励まし、また希望が豊かにありますようにとお祈りいたします。
さて、今日私たちは、イースターの朝を共に迎えています。主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架につけられ、墓に葬られ、そして3日目の朝、日曜日の朝によみがえられたことを記念する朝です。今日はイースターなので、「死者の復活」ということを考えながら、聖書の言葉に耳を傾けたいと思っています。
15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、
どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
コリントの教会には、死者の復活はないと言っているキリスト信者がいたようです。そのような人たちに対して、使徒パウロは、「もし」という言葉を繰り返し使って、
15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
と語っています。死者の復活を否定するということは、キリストの復活をも否定することになる。死者のよみがえりを否定することは、キリストのよみがえりも否定することになる。パウロはまず何よりも、そのことを強調しています。
そして、パウロは、もし死んで葬られたキリストが復活されなかったとしたら、どういうことになるのかを述べています。
15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、
あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。
なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、
私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、
あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
ここにきれいな絵ががついたイースターエッグ、ゆで卵があります。実質がないものというのは、中身が入っていない殻だけの卵のようなものです。あるいはお金が入っていない金庫、宝が入っていない宝箱のようなものです。キリスト教会が宣べ伝えている宣教のメッセージの最も大切な中身、それが死者の復活、キリストのよみがえりであって、もしそれがないとするなら、どんなメッセージを語ったとしても、それは中身がない殻だけの卵、空の金庫、空の宝箱なのだとパウロは語っているのです。
もし死者の復活がないとしたら、死んだらすべてが終わりです。死んだらゼロになるということになるわけです。ですからそのような信仰はむなしいと言う以外にありません。そしてパウロは、皮肉と嘆きを込めて19節にこんな文章を記しています。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
さて、このイエス・キリストの復活ということは、人間的に考えるならば、最も信じ難いことだと思います。そしてそれ故に、いろいろな反対論が考えられています。その中でも代表的な4つの反対論について、考えてみたいと思います。
これには、まず、墓が空であったということが、否定できない事実としてある。遺体も骨も墓の中にはなかった。
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
28:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
28:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 すると、御使いは女たちに言った。
「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
28:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。
イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、
あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
28:8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
28:10 すると、イエスは言われた。
「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」
28:11 女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。
28:12 そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、
28:13 こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ。
28:14 もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
28:15 そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。
マタイ28:1−15
キリストが捕らえられる時、弟子たちは全員、キリストを見捨てて逃げてしまった。
14:48 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。
14:49 わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」
14:50 すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。
14:51 ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。
14:52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。
マルコ14:48−52
ところが、そのような弱い弟子たちが、復活のキリストに出会い、聖霊を受けて変えられていく。
4:1 彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、
4:2 この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、
4:3 彼らに手をかけて捕えた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。
4:4 しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。
4:5 翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。
4:6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。
4:7 彼らは使徒たちを真中に立たせて、
「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだした。
4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
4:9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、
その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、
4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、
あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
4:13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、
ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
4:14 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。
4:15 彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。
4:16 彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行なわれたことは、
エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。
4:17 しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」
4:18 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。
4:19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。
「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。
4:20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
4:21 そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。
それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。
使徒の働き4:1−21
自分の無力さや弱さをいやというほど思い知らされ、砕かれ、自分に絶望し、そしてキリストにだけすがって生き始めた時、弟子たちは変えられたのです。そして、迫害をも恐れずに、いのちをかけて、捨て身で主イエスを宣べ伝えていった姿が、使徒の働きや新約聖書の手紙に記されている。弟子たちのこのような変化を見るときに、弟子たちが死体を隠してうそをついたとは考えられない。主イエスの復活が歴史的事実でなければ、どうしてそのようなことが起こるでしょうか?
これも、墓が空であったということが、否定できない事実としてあるので考えられたこと。しかし主イエスは、十字架にかけられる前に、自分は3日目によみがえることを公言していたので、ローマ兵や律法学者、祭司長たちが、キリストの死を確かめなかったはずはない。十字架刑ではなかなか死なないので、すねを折って死期を早めるということが行われていた。しかし主イエスは既に死んでいたので、すねの骨を折られることはなかったことが聖書に証言されている。
19:31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、
死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
19:32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
19:33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
19:34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
19:35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。
その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
19:36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。
19:37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。
ヨハネ19:31−37
(1) 主観的幻想説:気持ちが高ぶった弟子たちが幻を見た
(2) 客観的幻想説:神によって幻を見た
→ 多くの証言者がいることと、弟子たちの一時的でない変化はこの考えを否定する。
聖書に記されている福音のメッセージ(宣べ伝えられたことば)の中には、明らかに歴史的事実としての復活が語られている。
15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。
これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、
私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。
その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
1コリント15:1−6
このコリント人への手紙第一はA.D.50年代、つまりキリストの復活から20年しか経っていない時に記されている。その時にはまだ生き証人がいた。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
イスラム教を作ったマホメッドも、墓があってその中には骨が収められている。仏教を作った仏陀(釈迦)も、世界各地の寺院に骨(仏舎利:仏陀の骨)が収められている。
しかし、主イエス・キリストの墓の中には骨がない。なぜ?主イエスは葬られて3日目の朝、日曜日の朝、イースターの朝に、死に勝利されてよみがえられたから、復活されて、今も生きておられる生ける神ご自身であられるから。復活は歴史的な事実。
医学も遺伝子工学も、永遠のいのちを求め続けている人間の努力。しかし、死の前に人間は無力でしかない。けれども主イエスは、私たちに永遠のいのちを、神ご自身のいのちを贈り物として与えようと、手を差し出して下さっている。
わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
ヨハネの福音書11章25節
恵みの深い天の父なる神様。
あなたの深い愛を覚えて、心から感謝します。
私たちはいのちの源であるあなたから離れて、神を神とせず、自分勝手に歩み始めた故に、
死と滅びに向かっていた者でした。
けれどもあなたは、何をしているのかわからずにいる私たちのために、
独り子イエス様を遣わし、私たちの身代わりとして十字架につけて下さいました。
そしてイエス様は、死んでお墓に葬られましたが、3日目の朝、主の日の朝によみがえられ、
今も生きておられる生ける神であることを覚えて心から感謝します。
新しく始まった一週間。どうかあなたの復活の命に溢れさせて下さり、
私たちをそれぞれの家庭や職場、学校や地域に遣わして下さい。
永遠のいのちの希望、死の向こうに確かに持つことの出来る希望に生きることを通して、
あなたを指し示すことが出来るように助けて下さい。
私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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野町 真理