NEW! 2003年 5月18日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)

キリストの弟子の自由H
「盗んではならない」

聖書個所:出エジプト記20章1−15節

20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
   上の天にあるものでも、 下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、
   どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
   あなたの神、であるわたしは、ねたむ神、
   わたしを憎む者には、 父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、の御名を、みだりに唱えてはならない。
   は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。
   「「あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、
      また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。「「
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、
    七日目に休まれたからである。
    それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
20:12 あなたの父と母を敬え。
    あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。

主題:「盗んではならない」という戒めは、神のものを神に返し、与える自由に生きるための神の言葉である

導入:盗みに関する事件の増加

駅前でのアナウンス:「最近自転車泥棒、バイク泥棒、ひったくり、車上狙いが多発しています!注意して下さい!」

万引き(客のふりをして、店から商品を盗むこと):この10年間で2倍以上に増えている。本屋、ドラッグストア(薬屋)などが一番被害を受けている。青少年から年配の方まで。個人であるいは集団で。

本論1:盗みの動機と具体例

盗みの動機

1、経済的、物質的な貧しさ

 バブルがはじけた後の不況の影響。リストラによる失業者の増加。経済的・物質的な貧しさ。

2、物欲・金銭欲・所有欲、満ち足りない心、満たされない心

あれが欲しい。これも欲しい。もっと欲しい。たくさん欲しい。まだ満足できない。まだ満ち足りない。

お金、おいしいお菓子や食べ物、本、CD、服、時計、ハンドバッグ、宝石・貴金属、靴、パソコン、ステレオ、車、カーナビ、マイホーム…。

盗みの具体例

 万引き・窃盗(他人の所有物をこっそりと盗み取ること)、強盗・ひったくり・恐喝(力ずくで、またおどして、むりやりに他人の財物を奪うこと)、職場などでの公私混同、キセル、脱税、長期借用・借りて返さない、詐欺(巧みにいつわって金品をだまし取ること。ペテン)などなど。

 罪を罪と認めずに隠し、罪の道を歩み続けるならば、罪の負債は雪だるまのように大きくなっていく。家族はもちろん、信頼していた多くの方にも多大な迷惑と苦しみをもたらす。そして、蒔いた種は必ず刈り取らなければならない。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
ガラテヤ6:7−8

 神のあわれみを受けてやり直すことの出来る道は一つだけ。

自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。箴言28:13

 どうすれば私たちは、「盗んではならない」という戒めを守って生きることができるのか?

本論2:神のものを盗んではならない。まず神のものを神に返すことが盗む罪から解放される秘訣

あなたがたはわたしのものを盗んでいる!…十分の一献金(返金)による神の祝福の約束とチャレンジ

3:8 人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。
   しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』
  それは、十分の一と奉納物によってである。
3:9 あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。
マラキ3:8−9

1、十分の一献金は、「あなたから与えられるすべてのものによって、私は生かされています。」という信仰告白、感謝のいけにえである。

生きるために必要なもの

 地球、太陽(光と熱)、雨・水、空気、衣服、食物、住まい・家、共に生きる人たちなど

収入を得るために必要なもの(1、健康 2、職場・仕事 3、仕事をするための能力 4、働きたいという意欲・やる気)

 普通私たちは、自分の力で収入を得ている、自分の力でお金を稼ぐことが出来ると思っています。けれども本当にそうでしょうか?そのことを考えるために、収入を得るために必要な条件を考えてみたいと思います。

 収入を得るために必要なものは何でしょうか?少なくとも、次の4つを挙げることが出来ます。それは、健康、職場・仕事、仕事をするための能力、そして働きたいという意欲です。

 まず、健康です。いくら仕事があり、仕事をするための能力もあり、そして働きたいという意欲があったとしても、病気になったり、事故や怪我で健康でなくなると、働いて収入を得ることができません。

 次に、職場あるいは仕事です。どんなに健康であって、仕事をする能力もあって、働きたいという意欲があっても、雇ってくれる職場がなければ、収入を得ることができません。あるいは職場があったとしても、仕事がなければ、収入を得ることができません。

 3つ目は、仕事をするための能力です。仮に私が、ピアノの先生になりたいという熱意を持ったとしましょう。健康が与えられていて職場まで与えられたとしても、私はピアノを上手に弾くことができませんから、ピアノの先生として収入を得ることは出来ないのです。このように、健康で働きたいという意欲があり、職場が与えられたとしても、もしその仕事をする能力がなければ、収入を得ることはできません。人はそれぞれ天の神様から才能、能力を与えられています(そういう意味ではすべての人は天才^・^)。けれども、与えられている能力、才能はそれぞれ違うのです。

 4つ目は、働きたいという意欲です。最近若い人たちの中には、働きたくないという人が多いようです。アルバイトなどをしてフリーターなどをしている人はまだいい方でしょう。どんなに健康が与えられて、職場や働く仕事が与えられて、その仕事をするための能力も与えられていたとしても、働きたいという意欲ややる気がないのなら、収入を得ることはできないのです。

 健康、職場・仕事、仕事をするための能力、そして働きたいという意欲。これらすべてが神から与えられて初めて、私たちは、自分で働いて、収入を得ることができるのです。

 十分の一献金は、「あなたから与えられるすべてのものによって、私は生かされ、収入を得ることが出来ました。」という信仰告白、感謝のいけにえでもあります。

2、十分の一献金は、「主よ。すべて(私自身も)はあなたのものです。あなたのご用のために用いて下さい。」という信仰告白、霊的な礼拝である。

詩篇50篇より
50:7 「聞け。わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。わたしは神、あなたの神である。
50:8 いけにえのことで、あなたを責めるのではない。あなたの全焼のいけにえは、いつも、わたしの前にある。
50:9 わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。
50:10 森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。
50:11 わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。
50:12 わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。
50:13 わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。
50:14 感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。
50:15 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」


詩篇100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。

私たち人間が盗んでいる神のものとは何か?

 あなたが、私のものと思っているものはすべて、神のものなのです。私の時間、私の才能、私の財産、私の人生、私のいのちと思っているものは、実は神があなたに与えて下さった神の時間、神があなたに与えて下さった神の才能(天才)、神があなたに預けて下さった神の財産、神があなたに与えて下さった神のいのちなのです!あなたは神の作品であり、あなたのいのちは神の御手の中にある!

 もともと私たちは、造り主なる神によって造られた神の作品です。私たちは主のもの。主なる神の栄光を表す神の作品として造られ、生かされているのです。しかし、すべての人間は、罪を犯しました。主なる神が食べてはならないと命じられた善悪の知識の木の実を盗んで食べたのです。神に背を向けて、自分勝手に自分の人生を生きることを選んだのです。神を主とすることを止めて、自分が自分自身の主人になったのです。造り主を否定し、自分が神の作品であることを否定し続けて生きる。自分の人生は自分のものとして生きる。「世界とそれに満ちるものは私のものだ」と考えて生きる、私たちはそんなふうに、どこまでも自己中心に考えて神のものを盗んで生きる罪人となったのです。

主の祈りに対抗する「罪人の的外れな祈り」に表現した、神のものを盗み続けている私たちの邪悪さ

私の名前があがめられますように。
私を中心とした私の国が来ますように。
が心の中に思い描き、願っていることが、実現しますように。
私は、自分の力と知恵によって、今日も糧を得よう。
だれでも私に罪を犯すものがあるなら、決してその者を赦さないで、報復をしよう。
わたしは自分の力で、試みと悪から自分を救い出そう。
国と力と栄え、世界に満ちるものはすべて、わたしのものだ。

 私たち人間が盗んでいる神のもの。それはまず神の座・神の主権(神の国と力と栄光)。

 造り主に対する造られた者の反逆。作者である神に対する神の作品の反逆。主なる神に対する神の僕の反逆。

人間は神を神とせず、自らが神となろうとして神に反逆し、神を殺そうとする神の敵となった。その結果、人間は死ななければならないものとなり、永遠のいのちを失った。そして隣人のものを欲しがり、盗んだりする者となった。隣人のものを盗むということは、隣人を愛していない証拠。

 しかし恵みの深い神は、そんな私たち罪人・神の敵を、なお愛し続けて下さった。罪人というのは神の敵である。神のものを惜しみなく奪い、盗み、そして神を殺そうとする神の敵。それが私たち罪人である。

 あわれみ深い神は、そんな私たち罪人・神の敵を、なお愛し続けて下さった。そして、イエス・キリストは私たちのためにこの地上に人間となって降りて来て下さった。それは私たちの罪の負債をすべて身代わりに背負って、十字架でいのちを捨て、私たちの罪をすべて赦し、永遠のいのちを与えるためだった。私たちをもう一度新しい人間に造り変えて下さり、もう一度神の最高傑作として神のものとして生きる者として下さった。

 いのちを捨てるほどに神は私たちを愛して下さった。そしてご自分のいのちという代価を払って、私たちを買い取って下さった。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。1コリ6:20

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です
ローマ12:1

 すべてのキリストの弟子は、この御言葉に応答して、自らを神にささげて生きる。そういう意味で、すべてのキリスト信者が献身者である。様々な献身の道がある(ある人は、クリスチャンビジネスマン、ある人はサラリーマン、ある人は大工、ある人はエンジニア、ある人は電気屋、ある人はガス屋、ある人は教師…)。そういう意味で、すべてのキリスト信者が献身者である。

 十分の一献金は、「主よ。すべて(私自身も)はあなたのものです。あなたのご用のために用いて下さい。」という信仰告白、霊的な礼拝である。

3、十分の一献金には、あふれるばかりの祝福へのチャレンジがある。

   十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。
   「「万軍の主は仰せられる。「「
   わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
3:11 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、
   畑のぶどうの木が不作とならないようにする。  「「万軍の主は仰せられる。「「
3:12 すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。

私の体験から:収入の十分の一を献金として捧げ始めてから今日まで。あふれるばかりの祝福と満ち足りた心を体験している。
         十分の一を惜しんで一生懸命お金儲けに走るより、はるかに満ち足りている感謝と喜びの日々。

マタイ
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

結論:「盗んではならない」という戒めは、神のものを神に返し、与える自由に生きるための神の言葉である。

主イエスご自身の御言葉
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。」

ルカの福音書
6:30 すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。
6:31 自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。
6:32 自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。
   罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。
6:33 自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。
   罪人たちでさえ、同じことをしています。
6:34 返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。
   貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。
6:35 ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。
   そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。
   なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。
6:36 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
6:37 さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。
   そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。
   人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。
   あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

『受けるよりも与えるほうが幸いである。』

使徒の働き
20:33 私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。
20:34 あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。
20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、
    また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、
    私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
20:36 こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った。

エペソ人への手紙の中に記されたパウロのことば
「困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」

エペソ 4:28
盗みをしている者は、もう盗んではいけません。
かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。

祈り

恵みの深い、主イエス・キリストの父なる神様!
私たちはあなたのものをことごとく盗んで、
あなたに敵対する罪人でした。
わたしたちはみな、おのおの自分勝手な道に向かって行き、
まるで自分の力で生きているかのように思い違いをしていた的外れな者でした。
しかしあなたは、そんな私たちをあわれみ、
御子イエス様を私たちの身代わりとして十字架に磔にし、そしてよみがえらせることを通して、
信じる者を救う道をいのちがけで備えて下さったことを心から感謝します。
主よ、すべてのものはあなたのものです。
主よ、私自身もあなたのものです。
今もう一度、私のすべてをあなたにお返しいたします。
あなたが私の主として、私をあなたのしもべとして用いて下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によって、祈ります。
アーメン。


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