NEW! 2002年 12月1日 主日礼拝式メッセージ
(2004年 5月17日一部訂正)
(野町 真理)

キリストの弟子の自由D
「安息日を覚えて聖なる日とせよ」

聖書個所:出エジプト記20章1−11節

20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
   上の天にあるものでも、 下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、
   どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
   あなたの神、であるわたしは、ねたむ神、
   わたしを憎む者には、 父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、 恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、の御名を、みだりに唱えてはならない。
   は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。
   「「あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、
      また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。「「
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、
    七日目に休まれたからである。
    それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

主題:安息日とは、特別に神の恵みを覚えるための恵みの日である

導入:「夕があり、朝があった」という表現は、恵みのリズムを奏でている

 「キリストの弟子の自由」という題で、出エジプト記に記された十戒を、ご一緒に味わっています。今日は4番目の、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」という御言葉を、ご一緒に味わっていきたいと思っています。今日はまず、皆さんに一つ質問をしたいと思います。

一日の始まりはいつ?−恵みの2拍子(2ビート)を感じるために

 「あなたは、一日の始まりはいつだとお考えでしょうか?」「一日はいつ始まるとお考えでしょうか?」。「一日の始まりは朝だ」とお考えの方はいらっしゃるでしょうか?「一日の始まりは夕方だ」とお考えの方はいらっしゃるでしょうか?

 いろいろな考えがあると思いますが、普通私たちが一日の始まりと考えているのは、大体朝ではないでしょうか?夜が明けて、陽が昇ってくる朝、休んでいることを止めて起き上がり、動き始める朝こそが、一日の始まりだ。そう考えておられる方がほどんどではないかと思いますが、皆さんどうでしょうか?

 けれども、この本物のバイブル、本の中の本と呼ばれている聖書に改めて耳を傾けてみますと、実は朝ではなくて夕方が、私たちが働きを止める夕方こそが、一日の始まりだと教えています。「えーっ!そんなこと聖書のどこに書いてあります?」とおっしゃる方のために、ご一緒に聖書を開いて見てみましょう。

 聖書の一番最初のページ、創世記1章を開いてみてください。この聖書の冒頭には、創造主なる神様による、天地万物の創造の様子が記されています。

あなたの造り主なる神−「初めに、神が天と地を創造した。(創世記1:1)」

 「初めに、神が天と地を創造した。」 これが、聖書の一番最初のページに書き記されている、驚くべきメッセージです。誰も、この宇宙が造られるのを見た人はいません。ですからこの言葉は、天と地の造り主であり、そして自らの造り主なる神を体験的に知った人による信仰告白です。

 実に、聖書の語る神とは、この無限に見える大宇宙を創造された唯一の神です。このお方は、人間が造った神ではありません。人間をも造られた創造主なる神です。太陽もこのお方によって創造されました。月もこのお方の作品です。夜空に輝く数え切れない星たちも、このお方の造られたものです。夜と昼のサイクルによる日、7日ごとに安息日が来るという一週間のサイクル、1年12ヶ月というカレンダー、春夏秋冬という季節、それらすべてを造られたのは、この創造主なる神様なのです。

 私たちが住んでいるこの地球、水、空気、大地、海、山々を、そして美しい草花や木々、動物、食物をおのおのその種類にしたがって創造された神。そして私たち人間も造って下さったお方。いのちの源なるお方。そのような天地万物の創造主なる神を、聖書では神と呼んでいます。

 このお方は、特定の国や特定の民族の神といった小さなお方ではありません。全世界のすべての民族、すべての人の造り主なるお方が、聖書の語る神なのです。ですからこのお方は、あなたの造り主でもあります。お母さんのおなかの中で、あなたを組み立てられたお方、あなたにいのちを与えられたお方、あなたが生まれる前から、あなたを見つめておられるお方。あなたを本当に愛しておられるお方。それが、この聖書が語っている神なのです。

 ここに「あなたがどこから来たのか」という問いに対する答え、つまりあなたのルーツがあります。あなたはこの造り主に愛されるために造られて、この世に生まれてきたのです。

恵みの2拍子−「こうして夕があり、朝があった。第…日。」

 さて、創世記1章から2章3節は、詩的に記述されています。「こうして夕があり、朝があった。第何日。 」ということばが繰り返し使われ、恵みのリズムを奏でています。それは、「まず夕があり、そして朝がある」という2拍子のリズムです。普通私たちが一日の始まりと考えるのは朝です。しかし、旧約聖書のへブル人的感覚では、夕方こそ、一日の始まりなのです。これは、天地万物が創造される前、まず初めにあったのは、やみで、神様が「光よ。あれ。」と仰せられると、朝が訪れたということに基づいている恵みのリズムです。

 夕方というのはどういう時でしょうか?私たちが活動を止める時です。夕方から夜にかけて、私たちは明かりを消して眠りにつきます。すべての働きを止めて、布団か何かにくるまり、休息の時を持つのです。眠っている時、私たちは何か仕事をすることは出来ません。人間的に考えるならば、眠っている時間、睡眠時間というものは、非常に非生産的で価値のない時間だと言えます。けれども、もし私たちが眠らなければ、次の日に元気に動くことは出来なくなります。

 朝はどういう時でしょうか?夕方とは反対に、私たちが目を覚まして活動を始める時、休むのを止めて動き出す時です。新しい朝を迎えると、私たちは目を覚まします。そして朝起きてみると、実は私たちが起きる前から、世界は既に動いていることに気づかされます。そして、私たちが寝ている間も、神様は働き続けていて下さっているということを覚えさせられるのです。

 夕方から夜にかけて、人間は眠りにつきます。働きを止めて休むのです。そして新しい朝を迎え、私たちが目を覚ます時、すべてが整えられ、神のご計画が進んでいることに気づくのです。創造主なる神は、人間が何もしない間に、すべてのことを備え、またご自身の計画を進めておられるのです。

驚くばかりの恵み(アメイジング・グレイス)のリズム⇔不恵み(アングレイス)のリズム

 聖書は、「夕があり、朝があった。」ということばを繰り返し用いることによって、恵みのリズムをいつも奏でています。ところが、普段私たちが社会の中で聞き続けているのは、「まず朝があり、そして夕がある」というリズムです。「朝があり、夕があった」というリズムは、同じ2拍子なんですが、聖書が語っている恵みのリズムとは正反対の、逆転したリズムです。

 「朝があり、夕があった」というリズムは、「まずおまえが必死になって働かなければ、何事も始まらない。おまえが何とかしなければ、すべての問題は解決されないままだ。すべてはおまえの努力にかかっている。休んでいる暇などないぞ。」、というような、暗くて、重苦しい響きを持った恵みではないリズムです。ですから、これを聴き続けても、心からの安らぎや癒しを得ることなど、とても出来ません。ますます気持ちが暗くなり、絶望的になるだけです。

 多くの人が、自分の力ですべての問題を解決しようと必死になるあまり、「朝があり、夕があった」というリズムの中で、神様の豊かな恵みを覚えることのできない悪循環の中に落ち込んでしまっています。そしてその結果、抱えきれない重荷と疲れを抱えて、心と体の不調を覚えることになっています。

 仕事中毒という病気があります。これは、「朝があり、夕があった」という恵みではないリズムの中で、休む時間を何か無駄な時間のように感じて、働き続けてしまうという病気です。まるで休むことは罪であるかのような強迫観念に囚われてしまうのです。休むことをしないで働き続けるという仕事中毒にかかった人は、遅かれ早かれ、過労で倒れてしまうか、燃え尽き症候群になるかのどちらかです。そして、過労で倒れたり、燃え尽き症候群になると、かなりの療養期間、リハビリ期間が必要になってしまうようです。そして最悪の場合は過労死ということになるようです。

 聖書が語っている「夕があり、朝があった。」というリズムは、「あなたの神様は小さすぎるよ。私たちが何かをする前に、まず神様が問題の只中にいて、働いていて下さるんだよ。全知全能のあなたの神様は、必ずすべての問題を解決へと導いていて下さるんだ。そして神様は、あなたに出来るあなたのなすべきことを備えて下さっているよ。あなたの小さな働きも、神様は大きく用いて下さるんだ。」、そんな希望と喜びに満ちた明るい響きですから、この恵みのリズムを聴き続けるなら、心からの安らぎと生きる力を得ることが出来るのです。

 もともとこの世界と、この宇宙のすべての動きは、私たち人間が始めたわけではありません。まず創造主なる神様が、私たちが豊かに生きていくために必要なすべてを備えて下さり、それから私たち人間を造られたのです。創造主なる神は、私たち人間が何もしない間に、まだこの地上に存在しない時に、すべてのことを備えて下さったのです。そして次に、神様は私たち人間に、ご自身の働きを委ねて下さるのです。それは、私たちを神様の働きの中に招き入れて下さる素晴らしい恵みです。

 人間がどんなに何かが出来ることを誇ってみても、聖書の視点、神様の視点で見るならば、それはたいしたことではありません。何かができる健康、何かができる能力、何かが出来る職場や仕事、そして何かをするための助け手。実はこれらすべてのものは、神様が与えて下さっている神からの贈り物なのです。これらの贈り物が与えられて初めて、私たちは何かをすることが出来るのです。私たちは日毎に毎日、神様の前に出て、「夕があり、朝があった。」という恵みのリズムを聞く必要があります。

 聖書が語るまことの神様は、不必要な人間をお造りになるほど愚かではありません。どんな人であっても(寝たきりの方、ご高齢の方、生まれたばかりの赤ちゃんなどなど)、その人にしか出来ない使命と存在価値が与えられていると聖書は語っています。神はあなたを、高価で尊い、かけがえのない存在としてお造りになり、愛しておられるのです。

 驚くばかりの恵み(アメイジング・グレイス)というゴスペルソングがありますが、「夕があり、朝があった。」ということばは、驚くばかりの恵み(アメイジング・グレイス)のリズムを奏でているのです。

 さて、出エジプト記の20章に戻りましょう。20章8節から11節までをもう一度お読みしますので、聞いていて下さい。

本論:安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ

1、安息日とは、特別に神の恵みを覚えるための恵みの日である

20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。
   「「あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、
      また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。「「
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、
    七日目に休まれたからである。
    それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

 創世記は、創造主なる神様が6日目で天地万物をお造りになって、7日目にすべてのわざを休まれたことを語っていました。

 安息日とは、この創造主なる神様に倣って、私たちも7日ごとにいっさいの仕事を止める、すべての仕事をストップする日です。安息日は、すべての仕事を止めることによって、特別に神の恵みを覚え、神を礼拝するための恵みの日なのです。私たち人間は、6日間働いてすべての仕事をし、7日目にはすべての仕事を止めて、神のふところで憩う。そのように生きるように、私たち人間は造られているのです。

2、安息日を覚えて聖とするとは、主の日に共に教会堂に集って主イエス・キリストを礼拝すること
  キリストの葬りの夕があり、よみがえりの朝があった!

 今日からキリスト教会は、アドベントと呼ばれる期間に入りました。アドベントというのは、待降節とも言われますが、クリスマスに人となられて、私たちの所に来てくださったイエス・キリストを、人となられたまことの神として覚えつつ、再びイエス・キリストが来て下さる再臨を待ち望む時です。

 クリスマスに人となられて、私たちの所に来てくださった主イエス・キリストは、約33年後に、十字架に磔にされて殺されました。それは、私たちの罪のための身代わりの刑罰死でした。金曜日にイエス様は十字架につけられて死なれ、金曜日の夕方には十字架から取り下ろされてお墓に葬られました。けれどもイエス様は、3日目の朝、日曜日の朝に復活なさり、よみがえられたのです。キリストの葬りの夕があり、そしてキリストのよみがえりの朝があった。ここにこそ、最も強い恵みの2ビートが響いています。

 そしてイエス様は、日曜日ごとに復活されたお体をもって、弟子たちに現れて下さったことが、聖書には記録されています。よみがえられた主イエスは、日曜日ごとに復活されたお体をもって、弟子たちに現れて下さった。それ故に、新約聖書は日曜日のことを主の日と呼んでいるのです。

 主イエス様が復活されるまでは、土曜日が安息日とされていました。けれどもよみがえられた主イエス様に出会ったキリストの弟子たち、つまりキリストの教会は、土曜日に代わって日曜日を主の日と呼び、これをかつての安息日のように考えて日曜日ごとに集まり、主イエス様を礼拝することを始めたのです。

 クリスマスは主イエス様の誕生を覚えて感謝する日ですが、キリスト教会ではクリスマスと並んでイースターというものがあります。イースターというのは、死と悪魔に勝利なさった主イエス・キリストが復活なさり、今も生きておられることを喜び祝う日です。ですから毎週の主の日、日曜日は、小イースターと言ってもいい日なのです。約2000年の間、キリストの弟子たち、キリストの教会は、日曜日ごとに、主の日ごとに会堂に集まり、礼拝をするという歩みをし続けているのです。

 現在のように日曜日、主の日を休日にしたのは、ローマ皇帝であったコンスタンティヌスという人です。コンスタンティヌスは、紀元321年に、日曜日をローマ国家の休日にしたのです。(以前ここに「コンスタンティヌスという人は、キリスト教をローマ帝国の国教にしたことでも有名ですが」と記していましたが、これは誤りでした。キリスト教をローマ帝国の国教としたのは、テオドシウスという人です。A.D.380年のことでした。…E・ケアンズ著「基督教全史」参照)

 日本では明治時代に、7日ごとに休日という今のようなサイクルが取り入れられたようです。それまでは10日ごとにしか休日がなかったそうです。旧ソビエトも、かつて10日ごとに休日というサイクルを導入したことがあったようですが、皆が疲れてしまったので元に戻して、7日ごとに休日という聖書のサイクルに従っているようです。

 日曜日は休みの日だからといって、神様を礼拝することなしにどんなに楽しく遊んでも、どんなにゆっくり休んでも、あるいは休みなく動き続けても、そういう方法では決して、心からの安らぎを持つことは出来ません。かつてアウグズティヌスが語ったように、「人間は神のふところに帰るまでは、 その魂にまことの安らぎを持つことが出来ない」存在だからです。

結論:安息日とは、特別に神の恵みを覚えるための恵みの日である

 まず週の初めの日曜日、主の日には共に教会堂に集い、主イエス・キリストを、人となられた生けるまことの神として礼拝する。共に御言葉に耳を傾け、神の恵みを深く覚える。そして共に神を賛美し、自らを生ける供え物として主イエスに捧げる思いをもって献金をし、神のふところで憩う。

 主の日の礼拝の後は、それぞれの生活の場へと遣わされ、月曜日から土曜日にかけては、遣わされる職場や学校、地域において6日間精一杯働く。その間日毎に毎日、「夕があり、朝があった。」という恵みのリズムを覚えつつ、次の安息日に向かって神と共に生きる。

 そして7日目には、すべての仕事を止めて共に集められ、再び主イエスを神として礼拝する。

 これこそが、私たち人間が共に歩むべき道、神に祝福された自由の中を、神の安息を待ち望みつつ歩んでいく道、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」という御言葉に従って生きる道なのです。

祈り

夕があり、朝があった…。
主イエス・キリストの父なる神様。
私たちは、あなたをとても小さなお方のように考えてしまいます。
そして私たちは、自分の力に頼るあまり、背負いきれない重荷を抱えて、
あなたの豊かな恵みを覚えることが出来なくなってしまう者です。
あわれんで下さい。
けれどもあなたは、 私たちが何かをする前にすべてを備え、私たちの只中にいて、
すべての問題を解決へと導いていて下さっていることを覚えて感謝します。
イエス様が私たちの罪のために十字架で死んで葬られ、そしてよみがえって下さったことを感謝します。
私たちが罪人であった時、まずイエス様の葬りの夕があり、そしてよみがえりの朝があったことを覚えて心から感謝します。
あなたが私たちを、あなたの素晴らしい働きの中に加えて下さること、
そしてあなたが、私たちの小さな働きを、大きく用いて下さることも信じて感謝します。
どうか日毎に、あなたの恵みのリズムを覚えさせて下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によって、祈ります。
アーメン。


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