NEW! 2002年 11月3日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)
20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
上の天にあるものでも、 下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、
どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、
わたしを憎む者には、 父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、 恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
皆さんは、「でもクリ」、「こそクリ」、「ちゃんクリ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?(へそクリではありません。これらの言葉は東海聖書神学塾のある先生が教えてくださったものです。^・^)
まず「でもクリ」ですが、これは、クリスチャンらしくない人を見た時に、「あの人あれでもクリスチャン?」とゆうふうに使われます。あるいはクリスチャンらしくない自分自身に対して、「私はこれでもクリスチャンなんだろうか?」というようにも使われます。「でもクリ」というのは、クリスチャンらしくないと思われる人のことを指して使われる言葉です。
次に「こそクリ」ですが、これは、「あの人こそクリスチャン」、とか「私こそクリスチャン」というように使われます。「こそクリ」という言葉は、クリスチャンはこうあるべきだという理想に生きている人を指して使われます。
私たちはお互いに、口に出さなくても、「あの人あれでもクリスチャン?」とか、「あの人こそクリスチャンだ」などと、裁いてしまいやすいのではないでしょうか?
お互いにクリスチャンはこうあるべきだという理想のイメージがあって、それに照らし合わせて、「あの人あれでもクリスチャン?」と言って「でもクリ」というレッテルを貼ったり、また、「あの人こそクリスチャンだ」と言って「こそクリ」というレッテルを貼ってしまう。そんなことを私たちはしてしまいやすいのではないでしょうか。
けれども私たちは、たとえクリスチャンであっても、仕事などで疲れて、暗い顔をしている時もあります。クリスチャンであっても、心配ばかりしてしまって落ち込んでしまう時もあります。クリスチャンであっても、悲しみのあまり涙が止まらない時や、苦しみのあまりうめくことしか出来ない時があります。クリスチャンであっても、元気に「ハレルヤ!」などと言いながら、喜んで神を賛美出来ない時があるのです。
そんなことをいろいろと考えながら、改めて聖書に耳を傾けてみますと、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)」という力強い御言葉がありました。イエス・キリストは、誰でもキリストのうちにあるなら、「あなたもあの人も、ちゃんとしたクリスチャン(略してちゃんクリ)ですよ!」と宣言して下さっているのです。
さて、今年の7月から、キリストの弟子の自由というテーマで、十戒に耳を傾けていますが、今日で4回目になりました。今日は「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」という御言葉を、ご一緒に味わいたいと思っています。
まず、「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」は、「御名を唱えてはならない」ではないことを覚えて頂きたいと思います。御名をみだりに唱えてはならないということであって、御名を一切口にしてはならないということではないのです。
ユダヤ人、イスラエル人は、神様に対する恐れから、御名を一切唱えてはならないというふうにこの御言葉を受け止めていったようです。新改訳聖書で読みますと、旧約聖書の中に、太字で主と記されている所はすべて、この主なる神様の御名が出てくる所です。ユダヤ人たちは、聖書を読む時、神様の御名が出てくると、主(アドナイ:私のご主人様という意味)と読み替えて、御名を唱えなかったようです。そのためユダヤ人たちは、神様の御名をどういうふうに発音するのか、だんだんと忘れてしまったそうです。
創世記4章26節を見てください。ここには、信仰の人々が主の御名によって祈ることを始めたことが記されています。
4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。
「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」
4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。
そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。
「主の御名によって祈ることを始めた」という所は、欄外注にも記されていますが、「御名を呼ぶことを始めた」ということです。御名を呼ぶということは、祈るということなので、新改訳聖書では「主の御名によって祈ることを始めた」と訳しているのでしょう。まさしく祈るということは御名を呼ぶことであり、御名を呼ぶことはクリスチャン、キリストの弟子の生活そのものではないでしょうか。
続けて旧約聖書に記された信仰者の歩みを見ていきたいと思います。創世記12章からは、信仰の父と呼ばれているアブラハムの歩みが記されていますが、信仰の父アブラハムの歩みも、祭壇を築き、そこで主の御名によって祈るという歩みであったことを知ることが出来ます。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。
西にはベテル、東にはアイがあった。
彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。
13:4 そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。
その所でアブラムは、主の御名によって祈った。
21:33 アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、
その所で永遠の神、主の御名によって祈った。
そしてアブラハムに約束の子として与えられたイサクもまた、お父さんに倣って、祭壇を築き、主の御名によって祈るという歩みをしたことが記されています。
26:25 イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。
皆さんは神様の電話番号と呼ばれている聖書の個所をご存知でしょうか?エレミヤ書33章3節という所がそれです。そこも開いて見てください。
33:2 「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。
33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、
あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。
主なる神様ご自身が、「わたしを呼べ!」と仰っているのですから、主の御名を唱えること、主の御名を呼び求めることは、禁止されていることではなくて、むしろ神様が望んでおられて、そうしなさいと仰っていることなのです。
こんどは新約聖書を開いてみましょう。使徒の働き4章10節から12節というところを開いて見てください。
4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。
この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、
神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』
というのはこの方のことです。
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、
どのような名も、人間に与えられていないからです。」
これはペテロという弟子が語ったメッセージです。聖書は、神を神とせず、罪を罪とも思わない私たち一人一人に対して、「あなたがたがキリストを十字架につけて殺したのだ」とストレートに語っています。けれども聖書は同時に、わたしたちが十字架につけて殺してしまったイエス・キリストを、神が死者の中からよみがえらせたと語っているのです。
そして、ナザレ人イエス・キリストというお名前が紹介されています。世界中でこの御名(ナザレのイエス様)のほかには救いはないと聖書は宣言しています。そして、私たちが救われるべき主の御名とは、「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリスト」であると、はっきり語っています。
さらに、ローマ人への手紙10章9節から15節までを見てください。ここには、すばらしい救いの約束が記されています。私たちが救われるためにはどうしたらいいのかということがはっきり記されている素晴らしい所です。
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で
神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、
あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。
同じ主が、すべての人の主であり、
主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。
聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。
宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。
主イエス・キリストの御名を呼び求める者はだれでも救われるのですから、御名を呼んではならないということになると、だれも救われることが出来なくなってしまいますよね。
今年教会創立50周年を迎えている私たち豊橋ホサナキリスト教会は、「出て行く教会」という理念を掲げています。これは、「信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」という御言葉からも神の御心にかなった理念だと言えます。
けれども、最近私は、続く15節の御言葉、「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」の大切さ、遣わされることの大切さを実感しています。遣わされるということは、義務感から出て行くということではありません。遣わされるとは、まず私たち自身がイエス様の素晴らしさを味わい、その愛を味わうこと、そして私たちが喜びに満たされてそれぞれの家庭や職場、学校、地域に遣わされて出て行くということです。そうでなければ、「出て行く教会。そして誰もいなくなった…」ということになりかねません^・^。
さて、次に、主の御名をみだりに唱えないために、「みだりに唱える」ということはどういうことかを考えてみましょう。
「御名をみだりに唱える」とは、悪いこと、偽り、むなしいことのために御名を用いるということです。もしそのようなことのために御名を用いるなら、御名を汚すことになります。また、御名を聞いても、神様の素晴らしさを思えなくなるでしょう。そして、御名をみだりに呼び求めても、天の御国には入れないということをイエス様は教えてくださっています。マタイの福音書7章21−23節を開いてください。ここには、御名をみだりに唱える人の例が具体的に語られています。
7:15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
7:16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。
ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
7:17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。
『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、
あなたの名によって悪霊を追い出し、
あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。
『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
にせ預言者たちは、自分の名前が、自分自身があがめられるために、神の御名を利用します。にせ預言者は、「主よ。主よ。」と神の御名を利用しながら、自分がほめたたえられるために預言し、自分があがめられるために悪霊を追い出し、自分が栄光を受けるために奇跡をたくさん行って見せるのです。実ににせ預言者が願っていることは、自分の弟子が出来、自分が神のようにあがめられることです。
このように、自分のために神の御名を利用するということは、前回覚えた偶像礼拝にもつながることです。そして自分のために御名を利用するということは、まさしく神の御名をみだりに唱えるということなのです。十戒の中で、主なる神様が禁じておられることは、まさにそのように、自分のために神の御名を利用することなのです。ですから、御名をみだりに呼び求めても、天の御国には入れないですし、神の罰を自ら好んで受けることになります。
主の御名をみだりに唱えてはならないということを積極的に言い換えるならば、みこころにかなった用い方で御名を唱え、御名があがめられるようにしなさい。主なる神ご自身がほめたたえられるようにしなさい。すべての栄光を神に帰しなさいということです。
御名をみだりに唱えないためには、どうしても必要なこと。それは、まず何よりも、主イエスの御名を呼び求め、救いを自分のものとして体験することです。そして、御名の素晴らしさ、主イエスの愛の素晴らしさを味わうことです。
多くの人が、この十戒に対して、「十戒はとても厳しいことばだ。」、「十戒を守らなければ救われない。」、「十戒を守らなければ神様に愛されない。」というような考えを持っています。しかしそのような考えは間違っています。十戒はまず誰よりも、主の救いを体験した人、奴隷の家から連れ出された人々、救われた人たちに対して語られているのです。
十戒は、罪の中にいたときに愛され、罪と死の奴隷の家から解放された人たちに対して、語られているのです。(ハイデルベルグ信仰問答でも、十戒は「感謝について」という項目で最後の方に語られていますが、そのようなことを配慮してのことだと思われる。)
主なる神様は、私たちが愛されるにふさわしいことをしたら愛してくださるというようなお方ではありません。主なる神様は、私たちがまだ罪人であった時に私たちを愛し、そして私たちを奴隷の家から救い出して下さったのです。そして、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。 」と語って下さり、救われた者に対して、この十戒を語って下さっているのです。十戒は、救われた私たちが、自由の中に生き続けるための確かな指針なのです。
詩篇の中には、みこころにかなった形で御名を呼び求めている祈りが収められています。詩篇105篇というところを見てください。
105:1 主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。
105:2 主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。
105:3 主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。
ここには感謝という言葉が出てきますが、主に感謝して、感謝をもって御名を呼び求める。そして、主の聖なる名を誇りとして御名を呼び求める。それが御名をみだりに唱えない秘訣ではないでしょうか。
われらが主キリストはかく宣(のたま)う
(ドイツはリュ−ベックの聖堂にある古びし石版に刻まれたるもの)
ドイツの港町に、リュ−ベックという古い町があります。デンマークに近い所だそうですが、そのリュ−ベックという町のある教会堂に、古びた石版があって、こんな言葉が刻まれているそうです。「われらが主キリストはかく宣(のたま)う」という題で刻まれた言葉です。
なんじら われを主と呼べど われに従わず、
なんじら われを光と呼べど われを仰がず、
なんじら われを道と呼べど われに倣わず、
なんじら われを命と呼べど われを望まず、
なんじら われを智者と呼べど われに学ばず、
なんじら われを無垢と呼べど われを愛せず、
なんじら われを富者と呼べど われを求めず、
なんじら われを永遠と呼べど われを尋ねず、
なんじら われを仁者(じんしゃ:おもいやり、いつくしみの人)と呼べど われに来らず、
なんじら われを貴人と呼べど われに仕えず、
なんじら われを強者(きょうしゃ)と呼べど われを崇めず、
なんじら われを義人と呼べど われを懼(おそ)れず。
かるがゆえに
われ、なんじらを責むとも われを咎むな
呼んでいる御名にふさわしい生活をすること、神の言葉に聞き従うことを、主は求めておられます。そうするなら、私たちの存在を通して、主の御名があがめられるのです。その時私たちは、祝福の基として生活の場に遣わされ、そこで素晴らしい主の業を見ることが出来るのです。
主イエス・キリストの父なる神様。私たちは自分のために御名を唱えたり、また、呼んでいる御名にふさわしい生活をしないことによって、なんとあなたの御名をみだりに唱えてしまうものでしょうか。お赦し下さい。どうかあなたの御名があがめられるために、あなたの御名を切に呼び求めつつ、御名にふさわしい生活をすることができるように助けてください。私たちの主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。
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野町 真理