NEW! 2002年 10月6日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)

キリストの弟子の自由B
「あなたは、自分のために、
偶像を造ってはならない 」

聖書個所:出エジプト記20章1−6節

20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
   上の天にあるものでも、 下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、
   どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
   あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、
   わたしを憎む者には、 父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、 恵みを千代にまで施すからである。

主題:欲望や自分を神として自己実現を求めるならすべては偶像崇拝となる。
    しかし真の自己実現はイエスを主として信じ、キリストに従う道にある。

導入:キリストの弟子が目指すべき目標

 昨年の6月から約一年かけて、「キリストの弟子の祈り」という題で、主の祈りをご一緒に学びました。そして今年の7月からは、「キリストの弟子の自由」という題で、出エジプト記に記された十戒を共に味わっています。

 聖書は、すべてのキリストの弟子が目指すべき目標・ゴールは、主イエス・キリストのように変えられることだと教えています。キリストにある成人として、キリストの満ち満ちた身たけにまで達すること、それがキリストの弟子たちが共に目指すべきゴールです。洗礼・バプテスマを受けることがゴールだと考えている方がおられますが、そうではありません。バプテスマはスタートラインに立つことであって、そこから新しくキリストのように変えられるというゴールを目指して、どんな時も共に歩んで下さるイエス・キリストと共に歩み始める出発点です。そして私たちキリストの弟子が、将来必ずキリストのように変えられるということは、うそいつわりのない神、アーメンなる神の確かな約束です。

 例えば、コリント人への手紙第2の3章17−18節に、「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とあるとおりです。

 また、ローマ人への手紙8章28節に、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」という有名な神の約束があります。前後の文脈を大切にして読むなら、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」という言葉がありますので、ここで「益としてくださる」ということは具体的には、「キリストのように変えられる」ということを意味しています。ですからローマ8章28節は、「神がすべてのことを働かせて益、すなわち私たちをキリストに似た者に変えてくださることを、私たちは知っています」という意味であり、ここにも私たちが将来キリストのように変えられるという約束があるわけです。

 そういうわけで、キリストの弟子たちは、聖書に書き記された主イエス・キリストの姿、将来の自分たちの姿に目を向けることを通して、キリストのように変えられるという栄光のゴールを目指して、共に生きるのです。そしてイエス・キリストが、命をかけ、その生き様をもって、こう生きるんだよと教えて下さった道は、昔からキリスト教会が大切に学び続けている主の祈り、十戒、そして使徒信条に、シンプルですが最も素晴らしい形でまとめられています。

 十戒は、主の教えのまとめ、要約です。詩篇1篇に歌われているように、十戒にまとめられている主の教えを喜びとして、昼も夜もそのおしえを口ずさむならば、水路の傍に植わった木のように、豊かな実りある、幸いな人生をもたらすことでしょう。そして、罪と死の恐怖の奴隷から解放された私たちキリストの弟子が、自由を得させて下さったキリストの命令に聴き従うならば、世の光、地の塩、祝福の基として、永遠に価値のある人生を生き抜くことができる。そう聖書は約束しています。

 今日は、十戒の十戒の2番目の御言葉、あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。に、ご一緒に耳を傾けていきたいと思っています。

本論1:あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない
     −偶像とは自分のための神・自己実現のための神である

 出エジプト記20章4節をもう一度注意して見てください。「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」。ここに、「自分のために」という注目すべき言葉があります。この、「自分のために」という言葉は、見過ごされやすい短い言葉ですが、実は偶像とは何かということを明らかにしている、とても大切な言葉です。

 「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」。つまりここで神様が造ってはならないと命じておられる偶像とは、自分のための神様です。人間が自分のために造ったり祭り上げたりした自分のための神様、それを聖書は偶像と呼んでいます。

イスラエルの民が偶像を造った理由

 この十戒を主なる神から授かったのは、イスラエルの民の指導者であったモーセという人物です。モーセは、シナイ山という山の上で、この十戒を授かりました。モーセが一人山に登って行って、主なる神から十戒を中心とする律法を授かっている間、イスラエルの民は山の下で、モーセの帰りをずっと待っていたわけです。ところがモーセは、シナイ山からなかなか降りて来ませんでした。聖書には「モーセは40日40夜、山にいた。」と記されています(出エジプト24:18)。

 1週間たち、2週間たち、1ヶ月経ちました。でもまだモーセは帰って来ませんでした。そして残されたイスラエルの民たちは、「自分たちの指導者としてここまで私たちを導いて来たモーセはどうなったのだろうか。もしかしたら死んでしまったのかもしれない。こんな荒野で、これから先いったいどうしたらいいのだろう。」というような不安に襲われ、怖じ惑ったのです。

 そのような恐れとおののきの中で、イスラエルの民は、自分たちの心を安心させてくれる目に見える神、先立って自分たちを導いてくれる神を切に求めました。そして彼らは、金の耳輪・イヤリングを集めて鋳物の子牛を造り、「これがわれわれをエジプトの地から連れ上った神だ!」と言って金の子牛を拝んでしまいました。モーセが十戒を携えて戻って来る前に、イスラエルの民は自分たちのために偶像を造り、それを拝んでしまったのです。(出エジプト32章参照)

 この時のイスラエルの民は、主の大いなる救いの御業を身をもって体験した民でした。力強い神の御手によって海が分かれ、海の底のかわいた地を歩いてエジプトから脱出した民でした。また、荒野ではマナや湧き出る水によって、日々生ける神様の確かな養いを体験していたはずでした。信じて祈り求めれば、必ず神様が祈りに応えてくださることを味わっていた人々でした。

 それなのに、イスラエルの人たちは、神を自分たちを満足させてくれる旅行ガイドか召使のように考えていたようです。ですから、自分の思い通りにならないこと、どえらいこと(三河弁で「とても大変なこと」の意)が起こると、たちまち不平不満のかたまりになって、「こんなはずじゃなかった!エジプトにいたほうがまだ良かった!」とつぶやいたり、怒ったりして、指導者や神様を裁いたのです。そして指導者モーセがいなくなった時に、イスラエルの人たちは自分の願いをかなえてくれる偶像を造って、それを拝み始めたのです。

 まことの神様を神様としない人間はどこまでも自己中心ですから、自分の願いをかなえるためにまわりの人や状況を動かそうとします。ですから召使のような、自分のための神様を必要とするのです。

 十戒の2番目で、主なる神様が造ってはならないと命じておられるのは、そのような自分のための神様です。そして偶像を拝むことや偶像に仕えることは、自分の願いをかなえるための手段だと言えます。

真の自己実現に至るイエスを主とする道 OR 自らの欲望を神とする滅びの道

 少し前から、自己実現ということがよく言われています。もともと自己実現という言葉は、アメリカ生まれのユダヤ人、アブラハム・マズローという心理学者が使い始めた言葉です。自己実現とは、その名のとおり、自分の願いを実現すること、こうなりたいという自分になることを意味します。昔ながらの言葉で言うならば、心願成就、今風の言葉で言えば、自分らしく生きることです。人生の最期に「私の人生大成功だった!」と締めくくれるような人生を目指す。そのような意味でも使われています。

 今、かつて仕事人間であった方々、自営業の方々やサラリーマンの方々、あるいは何のために勉強するのかわからない学生、アルバイトに明け暮れる若者といった多くの方が、疲れや弱さを抱えて立ち止まり、自分の人生の意味を改めて考える時間を持っています。今はそういう時代なのだと私は感じています。ですから自己実現を、今多くの人々が求めているのではないでしょうか?そして自己実現を目指す人生こそ最高の人生だと言われています。

 私もかつてそうでしたが、自己実現のために教会に来られる方も少なくありません。そしてキリスト教会には、本当の意味での自己実現に至る道があるのです。キリスト教会には、一度しかない人生をあなたらしく生きて、人生の最期に「私の人生大成功だった!」と締めくくれるような生き方があるのです。そしてそれだけではありません。死が終わりではない、永遠のいのちに生きる人生が、キリスト教会にはあるのです。

 けれども、自己実現のために教会に来られている方は、自らの罪深さを知って神に心砕かれることがなければ、いつか教会を去る可能性が非常に高いと言わざるを得ません。

 なぜならそういう人が持っている信仰というのは、いわゆるご利益信仰だからです。祈っても自分の思い通りにならないと、怒ったり失望したりしながら、「この神様にはご利益がない」とか「この神様はたいしたことない」などと言って、自分の願いをかなえてくれそうな他の神様を求め始めるからです。(実はそういう時には、願ったことが実現することは、その人にとって最善ではなかったから神様がそうされなかったということ:その人にとって最善のものと最善のものを渡す最善のタイミングをよくご存知である神様の、愛の配慮による)

 そういう人は、結局何を拝んでも、その拝む対象を本当に敬って拝んでいるわけではないでしょう。はっきり言えば、そういう人は自分の願いをかなえるために、神様のご機嫌取りをしているだけです。そういう人が拝んでいる神様というのはその人の召使でしかなく、その人の本当の神様は、自分自身、あるいは自分の欲望なのです。

 そういうふうに考えて来ますと、たとえ拝む対象がまことの神様であっても、自分のために拝むならば、それは偶像を拝むことになるわけです。まことの神を拝んでいても、自分のために拝んでいるなら、結局は自分の欲望を神として拝んでいるだけだからです。

 そのような、神を神とせず、自らの欲望を神とする人の行き着く所は、永遠の滅びだと聖書は警告しています。

3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
   多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
   彼らの思いは地上のことだけです。
   ピリピ人への手紙3章18−19節

  私が皆さんからのサポートを受けながら、東海聖書神学塾で学びをしていた時、比較宗教学というクラスがありました。そのクラスでは、実際に神社やお寺などに出かけて行って、歴史や教えを調べてくるという宿題が出されました。それで私は、きつねが祭られている豊川稲荷にフィールドリサーチのために出かけたわけです。名鉄電車にも豊川稲荷線があるだけあって、豊川市は豊川稲荷への参拝者で栄えているという印象を受けました。広い敷地と大きな建物にもびっくりしました。けれども、参拝者の方たちの祈祷内容を見ると、家内安全、商売繁盛、交通安全、心願成就、事業繁栄、息災延命といった、まさにこの地上のことだけしか祈られてなかったのです。「彼らの思いは地上のことだけです。」と聖書が語っているとおりでした。

 しかし聖書は、そのような自己中心で地上のことしか考えない私たちの罪のために、イエス様が十字架で死なれ、罪の負債を全部返済してくださったことを語っています。そしてイエス・キリストが3日目に死人のうちからよみがえられて、私を罪と死の恐怖から解放してくださったこと。もし私たちがイエス様を主として信じるなら救われ、永遠のいのちが与えられ、天国に国籍を持つ者とされることを約束しているのです。

3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。
   そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、
   私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
   ピリピ人への手紙3章20−21節

 ここでも聖書は、私たちが将来キリストのように変えられるという約束を繰り返し語っています。なぜ聖書は、私たちがキリストのように変えられるという約束を繰り返し繰り返し語っているのでしょうか?それは、イエス・キリストのように変えられるということが、私たち人間にとって本当の自己実現であるからではないでしょうか?主イエス・キリストは、真の神であると同時に真の人間であられるからです。

 今日、自己実現のために、自分の願いをかなえるために教会に来られた方がいらっしゃるでしょうか?そのような方々が続けて教会に来られ、イエス・キリストを、主なる神として信じ、キリストのように変えられるという真の自己実現に至る、最高の人生へと導かれますように、私は祈っています。

本論2:あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神

A、偶像を造り、拝み、仕えるなら神のねたみ・怒りを買う

 さて、十戒の中で、なぜ神様は「偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」と命じられているのでしょうか?その理由は、続く5節から6節に記されています。

20:5 それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
   あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、
   わたしを憎む者には、 父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、 恵みを千代にまで施すからである。

 ここで神様はご自分のことを、「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神」だと自己紹介されています。「わたしはねたむ神である。」、この聖書の言葉を聞いて、キリスト教につまずかれる方がおられるようです。いや、つまずかなくても、神様に対してかなり否定的なイメージを持たれる方が多いのではないでしょうか。それで、「ねたむ」ということについて考えてみたいと思います。

B、本当に愛しているなら相手が浮気をしたら怒るはず

 ある時私は、結婚相手が浮気をしているのを知っても怒らない人がいるのを知って、とても驚きました。

 あなたはどうでしょうか?もしあなたがお付き合いしている彼氏や彼女が、あるいは既に結婚をしたあなたの伴侶が、あなた以外の人と親しくし、浮気をしていることを知ってしまったら、あなたはどんな気持ちになるでしょうか?

 もしあなたが本気になって怒られるとすれば、その反応こそが、あなたが相手の方を本気で愛しておられるという証拠ではないでしょうか?あるいは逆に、もしあなたが本気になって怒らないとすれば、あなたはもうその人を本気では愛しておられないということではないでしょうか。

 相手が浮気をしても怒らないということは、相手を愛していない証拠です。もし本当に相手を愛しているなら、相手が浮気をすれば当然ねたむはずですし怒るはずです。

 結婚ということも人と人との契約関係ですが、この十戒は神とわたしたちとの関係を結ぶ聖なる契約なのです。結婚式の時の誓約と同じように、十戒はとても大切な、主なる神様に対する永遠の誓いなのです。結婚式の時に、「相手が浮気をしてもいいです」なんていう誓いをお互いにする人は誰もいませんよね。結婚式の時には、変わらない愛をもって生涯その人だけを愛しますということをお互いが誓うわけです。

 そのような契約関係において、「あなたが浮気したら私ねたみます」ということは、決して悪いことではないということが、わかって頂けるでしょうか?

C、あなたはねたむほど真実に、まことの神によって愛されている!

 神様が、ご自分のことを「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神」と紹介して下さっているということは、「あなたは本当の神様に、ねたむほどの真実な愛をもって愛されている!」ということの証拠なのです。

本論3:二つの道−神を憎む道と神を愛する道

 さて、ねたむ神という言葉の後に、神様は、二つの道を示して下さっています。1つ目の道は、神を憎む道、そして2つ目の道は、神を愛する道です。順番にこの二つの道について考えてみましょう。

A、神を憎む道:偶像を拝むことは神を憎むことであり、その咎の報いは三代、四代に至る。

●わたしを憎む者には、…

 ここで突然、「わたしを憎む者には」と語られています。偶像を拝むことが語られている文脈ですから、偶像を拝むということは、実はまことの神様を憎むことになるということです。

 私は浮気をしたことがないのですが、一生懸命想像しますと、浮気をしたいと思う時には、まず結婚相手に対して憎しみを持っているということではないでしょうか。もうその人と一緒にいたくない。その人の存在も憎い。そんなふうに相手を憎んでいるからこそ、相手以外の別の方を求めるのではないでしょうか。

 神様に対しても、同じです。まことの神様以外に、ほかの神々、偶像を造ったり拝んだりするということは、まず、まことの神様を憎んでいるのです。もうこの神様はいやだ、存在そのものが憎いと。(そのようなまことの神様に対する憎しみが、キリストを十字架に磔にして殺す動機にもなった:殺神の動機)

● 父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし…

 この言葉を聞いて、神様はとても厳しい方だと思われるでしょうか?けれども、当時のイスラエルの家庭環境を考えると、これは神様の厳しい裁きではなく、むしろ当然のことです。当時のイスラエルは、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に、孫やひ孫と一緒に生活していました。親や祖父母たちが、「おまえこれを拝みなさい」と子どもたちに自らの拝んでいるものを拝ませるように教えるのは当然です。そして子どもが、自ら祝福の道を選ぶことはとても困難だからです。

B、神を愛する道:神の命令を守ることは神を愛することであり、恵みは千代に至る。

 三代、四代と千代。まったく桁が違いますよね。神様は私たちを祝福したくておれないお方だということではないでしょうか?主なる神様は、私たちを罰したいお方ではなく、私たちを千代に至る溢れるばかりの祝福の基として、生かしたくておれないお方なのです。

結論:あなたはどちらを選ぶのか?
   −「千代に至る恵み」か「子ども、三代、四代に至る咎の報い」か?
   −キリストの弟子の自由と真の自己実現に至る道は、
     主を拝み、主にだけ仕える生活にある

 今日主なる神様は、あなたに選択を迫っておられます。「あなたはどちらを選ぶのか?」と。キリストの弟子の自由は、主を拝み、主にだけ仕える生活にあります。そして真の自己実現に至る道は、主を拝み、主にだけ仕える道、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの主なる神を愛する道なのです。お祈りをしたいと思います。

祈り

あわれみ深い、主イエス・キリストの父なる神様!

私たちは、あなたでさえも、自分のために、自己実現のために利用するような罪人のかしらです。

お赦し下さい。

また私たちは、あなたの助けがなければ、地上のことだけしか、自分のことしか考えることの出来ない貧しい者です。

けれどもあなたは、そのような私たちを、ねたむほどの真実な愛をもって、命をかけて愛して下さいました。

そしてあなたは、十字架で流された血潮によって、罪と欲望と死の恐れの奴隷であった私たちを解放し、私たちに、永遠のいのちに生きる自由を与えて下さったことを覚えて、心から感謝します。

そしてあなたが、将来必ず、私たちをキリストに似た者に変えて下さることを信じ、心から感謝します。

キリストのように変えられることこそ、私たちが願ってやまない本当の自己実現であることを教えて下さって感謝します。

どうか新しく始まった一週間、あなただけを愛して、自分のために偶像を造ることがないように助けて下さい。

そうすることによって私たちが、三代、四代に至る咎ではなくて、千代に至る祝福に至る道、真の自己実現に至る道を選ぶことができますように助けて下さい。

どうか私たちの心を新しくして下さい。

そして私たちを、祝福の基として、それぞれの家庭、職場、学校、地域に遣わして下さい。

主イエス・キリストの御名によって、祈ります。

アーメン。


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