NEW! 2002年 7月7日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)

キリストの弟子の自由@
「自由への解放者イエス・キリスト」

聖書個所:出エジプト記20章1−17節、ガラテヤ5章1節

20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。「「あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。「「
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。
20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト記20:1−17)

5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)

主題:主イエスは、罪と欲望の奴隷であった私たちを自由へと解放し、自由の中に生かすキリスト(救い主・解放者)である。

導入:十戒はキリストの弟子の自由である

 前回まで、「キリストの弟子の祈り」という題で、主イエス様が教えて下さった主の祈りについて、その素晴らしさを味わってきました。今日からしばらくの間は、十戒を、「キリストの弟子の自由」というテーマで、共に学んでいきたいと思っています。今日は「キリストの弟子の自由@自由への解放者イエス・キリスト」ということで、十戒の土台となる御言葉を、ご一緒に味わっていきたいと思っています。

 かつて森川先生が、この豊橋の教会に赴任された時、次のようなことを語られたということを、聞いたことがあります。「牧師・伝道者というのは、皆さんに支えられたはしごを、上に登っていくような者であって、皆さんがはしごを支えることをやめてしまえば、たちまち下に落ちてしまいます。はしごを支えるということは、祈るということです。ですから皆さん、ぜひ私のために祈って下さい!」と。そのような内容のことを、森川先生が語られたとするならば、まさに駆け出しの伝道者である私などは、皆さんに祈って頂かなければ、福音をほんとうに福音、つまり喜びの知らせとして語ることが出来ないということを、強く覚えさせられているのです。

 これから何回になるかわかりませんが、皆さんと一緒に十戒を味わっていく中で、「十戒はキリストの弟子の自由である」ということを共に体験していけるように、私も祈りつつメッセージを用意し、そして祈りつつ福音を語っていくつもりですので、皆さんも、ぜひ祈りつつ礼拝に集って頂けたらと思っています。

 十戒に対して多くの人が持っているイメージは、「不自由」ということではないでしょうか?けれども、実は十戒こそ、私たちを本当の自由へと解放する神の御言葉だということを、私は改めて教えられています。ですから今回、「キリストの弟子の自由」という一貫したテーマをもって、十戒を語らせて頂くことにしました。

レールとルールの上にこそ本当の自由がある

 まず、自由ということを、改めて考えてみたいと思います。そのために、一つのたとえをお話したいと思います。私は、教会の皆さんに祈って頂き、経済的にもサポートを受けながら、名古屋の金山という所にあります、東海聖書神学塾という神学校で、4年間学ばせて頂きました。週に三日間授業がありましたので、週三回、市電(市内の路面電車)と名鉄(名古屋鉄道)を乗り継いで、豊橋から金山まで通学していました。

 名鉄ですと、車内に電光掲示板がありまして、今時速何キロで走っていますというスピードメータが表示されたりします。早いときには、時速120キロぐらいで走っています。当たり前のことですが、市電や名鉄といった電車は、線路、レールの上を自由に走っています。ところがですね、普通はありえないことですが、もし電車が、レールの上から外れた所に移動してしまったらどうでしょうか?たちまち、ほとんど身動きがとれない、不自由な状態になってしまうのではないでしょうか?

 つまり、名鉄であろうがJRであろうが、あるいは市電であろうが、電車というのは、レールの上に置かれている時にだけ、自由に走ることができますが、もしレールから外れてしまえば、たちまち不自由な状態になって、走ることが出来なくなるわけです。

 私たち人間は、電車とは違います。けれども、これと似たようなことが言えるのではないでしょうか?レールではないですが、ルール。つまり私たちに本当の自由を与えるために、まことの神が与えて下さったルールから外れてしまうならば、そこには本当の自由はないのではないでしょうか?ルールを無視して、勝手気ままに生きるのが自由だと考えている人が多いかもしれません。けれども、よく考えてみるならば、ルールを無視したところに、本当の自由はないのです。

十戒こそ、私たち人間に本当の自由をもたらす神のルール

 そして、全世界でベストセラーを続けている聖書、本の中の本、バイブルと呼ばれているこの聖書は、実は私たちがこれから味わおうとしている十戒こそが、私たち人間に真の自由、本当の自由をもたらすルールの中のルールなんです、と語っているのです。そして聖書は、もし私たちが、私たちに本当の自由をもたらす神のルール、十戒を無視するならば、罪と欲望の奴隷として、滅びる以外に道はないことを警告しているのです。

十戒の要、土台のことば

 今日私は、小坂井チャペルの週報を持って来ました。住吉チャペルの週報の裏にも、使徒信条と主の祈りが記されていますが、この小坂井チャペルの週報の裏には、主の祈り、使徒信条とともに、十戒も印刷されています。ちょっとお読みしますが、ここには、1から10という数字とともに、簡潔な形で十戒が記されています。

 1、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」。
 2、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」。
 3、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」。
 4、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」。
 5、「あなたの父と母を敬え」。
 6、「殺してはならない」。
 7、「姦淫してはならない」。
 8、「盗んではならない」。
 9、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」。
10、「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」。

 けれども、今日皆さんと味わいたいと思っている御言葉は、第一戒ではなくて、この十戒が語られる大前提、あるいは十戒すべての土台とも言える、出エジプト記20章2節の御言葉です。よくこのところは、十戒の序文だと言われますが、実は単なる序文ではなくて、十戒の要といってもいいほどに大切な御言葉です。

 出エジプト記の20章2節を見て下さい。皆さんとご一緒に、2節の御言葉を、声に出して読みたいと思います。

20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

 これが、十戒をお語りになる前に、主なる神様が語って下さったメッセージです。この素晴らしい20章2節のメッセージを、「わたしは、あなたの神、主である。」という部分と、「わたしがあなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した。」という部分に分けて、味わっていきたいと思います。

本論1:わたしは、あなたの神、主である。(出エジプト記20:2)

●かつての出エジプト体験をしたイスラエルの民に対して

●現代に生きる私たちに対して

 「わたしは、あなたの神、主である。」これは、愛に満ちた本当の神様の、私たちに対する自己紹介のことばです。ここでは、わたしとあなたという二人称で、まことの神様と私たちとの親しい関係が語られています。

 世の中には数え切れないほどの、たくさんの神々があります。けれども、それらの神々は、大きく分けると2つに分けることができるのです。それは、人間が造った神様と、人間を造られた神様です。日本語ですと、「を」と「が」の1字違いですが、実は人間が造った神様と、人間を造られた神様との間には、とても大きな違いがあります。

私たちを背負って下さるのが本当の神・人間が背負わなければ焼けてしまうような神はにせもの!

 人間が造った神様と、人間を造られた神様。その違いを一言で言うならば、私たちが背負わなければならない神か、私たちを背負って下さっている神かという違いです。時々家やお寺が火事になることがあります。ある時私は、火事になった時、必死になって神様を背負って救出している人の姿を見たことがあります。そこで私は、考えました。「人間が救い出さなければ燃えてしまうような神様に、人間を本当に救う力があるのだろうか?」と。

 聖書は語ります、人間が背負わなければならないような神は偽者の神様だと。人間が造ったにせものの神様は、火事になれば、人間が背負って助け出さなければ、燃えてしまうような神様でしかありません。

FOOT PRINTS(あしあと)という詩

 今日ここに、私の部屋にかけてある写真を持ってきました。このきれいな波打ち際の写真には、フットプリンツ、足跡という詩が書かれてあります。私の好きな詩の一つですが、皆さんご存知でしょうか?(マーガレット・パワーズさんという方が書いた)。こんな感じの内容の詩です。

 ある夜に、その人は夢をみたんです。そして、夢の中で、今まで自分の歩んできた道、自分の人生を振り返ってみました。すると、ちょうど砂浜に足跡が残るように、ずーっと自分の歩んできた道に足跡がありました。その人は神様を信じてきたので、その足跡が二人分ついていたのです。自分のあしあとと、共に歩んでくださる神様の足跡です。

 ところが、よくみて見ると、ところどころに、足跡が一人分しかないところがあることに気付きました。しかもその時は、自分が一番苦しかったり、悲しかった時、もう自分の力では歩くことが出来ず、うずくまること、うめくことしか出来なかった時だったのです。ですからその人は、神様に文句の祈りをしたのです。「神さま。あなたはいつも一緒にいてくださると約束してくださったではありませんか!私はあなたを離れず、あなたを捨てないと約束して下さったではありませんか。それなのに、どうしてあなたは、私が一番あなたの助けを必要とした時に、私を見捨てて、私から去っていかれたのですか!」と。

 そうしたら、神様がこう答えて下さったそうです。「わが子よ、わが愛する子よ。私はあなたを愛している。あなたが自分の力では歩けなかった時には、わたしがあなたを背負って歩いたのだから、足跡は一つしかないんだよ。」と。

 おわかりでしょうか?私たちを愛するために造ってくださり、愛するためにこの世に生まれさせて下さった本物の神様は、私たちが自分の力で歩けない時、私たちを背負って歩んで下さる、力強い神様なんです。
 

聖書に記された私たちを背負って歩んでくださっている本物の神様の姿

イザヤ46:1−13(ベルとネボ=バビロンの神々、偶像の神々の名前)

46:1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。
46:2 彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。
46:3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
46:5 わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。
46:6 袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。
46:7 彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。
46:8 このことを思い出し、しっかりせよ。そむく者らよ。心に思い返せ。
46:9 遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。
46:10 わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。
46:11 わたしは、東から猛禽を、遠い地から、わたしのはかりごとを行なう者を呼ぶ。わたしが語ると、すぐそれを行ない、わたしが計ると、すぐそれをする。
46:12 わたしに聞け。強情な者、正義から遠ざかっている者たちよ。
46:13 わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」

 人間が造って祭り上げた偽者の神様はたくさんいます。けれども、天地万物、すべてのものを、そして皆さん、あなたを愛するために造られ、あなたを生まれる前から背負って下さっている本物の神様は、ただ一人しかいないのです。

本論2:わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した。(出エジプト記20:2)

●かつての出エジプト体験をしたイスラエルの民に対して

エジプトの国・奴隷の家とは?

奴隷は自由ではない。人間の尊厳など一切ない。人格を持った人間としてではなく、道具、モノとして扱われる。

不自由。自分の時間など一切持てない。過酷な強制労働。そこにあるのは苦しみ、痛み、泣き叫び。
そして奴隷を待っているのは死。

●現代に生きる私たちに対して

奴隷は使い捨て。病気になったり、大怪我をして使いものにならなくなった者は生きる価値がないと見なされ、捨てられる。
(有事法・戦争法のもたらす医療介護の方針、いのちの選別・トリアージもこれと非常によく似ている)

お金の奴隷、物欲の奴隷、快楽の奴隷、人の目・他人の奴隷、仕事の奴隷、死の恐怖の奴隷−罪と欲望の奴隷。

結論:主イエスは、罪と欲望の奴隷であった私たちを自由へと解放し、自由の中に生かすキリスト(救い主・解放者)である。

出エジプトの神、十戒を与えて下さった神、アブラハム・イサク・ヤコブの神、「私はある」という主なる神は、イエス様である。

どうやって?−受肉⇒十字架⇒復活⇒昇天⇒聖霊降臨によって
(クリスマス⇒グットフライデー⇒イースター⇒ペンテコステ)

The Cross is "Like a bridge over troubled water"! 十字架は自由の橋

あの紅海を分けて救いの道を備えて下さった主なる神は、十字架によって救いの道を完成して下さったイエス・キリスト!

十字架は荒れ狂う水の上に架けられた、神様とわたしたちを遠く引き離していた罪の溝の上に架けられた、永遠のいのちに至る唯一の橋。本当の自由の橋。

どうすれば−ただ十字架と復活の主イエスを信じる信仰によって

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。
ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
(ガラテヤ5:1)

祈り

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