NEW! 2002年 3月17日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)

キリストの弟子の祈りG
「国と力と栄えは主のものです」

聖書個所:ルカ11章1−4節、マタイ6章13節

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。
   「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
   『父よ。
   御名があがめられますように。
   御国が来ますように。
11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
   私たちを試みに会わせないでください。』」
ルカ11:1−4

〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
マタイ6:13

主題:栄光を神に帰す賛美(頌栄)が加えられたのは、主の恵みをキリストの弟子が深く味わったことによる

導入:

 これまで皆さんと一緒に、主イエス様が教えて下さったキリストの弟子の祈り、主の祈りを学んできました。今日は、キリストの弟子の祈りGということで、「国とちからと栄えとは限りなくなんじのものなればなり」という祈りを、味わっていきたいと思っています。そして4月21日には、一番最後の、アーメンという言葉についてのメッセージをさせて頂く予定です。

本論1:主イエス様が教えて下さったキリストの弟子の祈りは、全部お願いであった!

 皆さんお気付きになられたと思いますが、この「国とちからと栄えとは限りなくなんじのものなればなり」という祈りは、ルカの福音書の中に記された主の祈りにはありません。新改訳聖書ですと、マタイの福音書6章に記された主の祈りの中に、括弧付きで記されています。けれども口語訳の聖書や、新共同訳の聖書には、この祈りはどこを探しても見つけることができません。

 マタイの福音書6章13節を見て下さい。

〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
マタイ6:13

 新改訳聖書ですと、括弧の中に収められたこの祈りの横に、星印が2つあります。星印は、下の欄外にコメントがありますよという印です。下の欄外の13節の所、星印が2つある所を見ますと、「最古の写本ではこの句は欠けている」と書かれています。

 ここで写本ということばが出てきましたので少し説明します。ご存知の方もおられるとおもいますが、この新約聖書が書かれたのは、今から2000年近くも昔の時代です。2000年も前には、コピー機や印刷機などはもちろんありませんでした。ですから聖書をコピー(複写)するのは全部手作業でした。一字一句丁寧に書き写すしか、方法がなかったんですね。ここで写本という言葉が使われているのは、そのように手で書き写した聖書のことです。羊皮紙(羊や山羊の皮で作られ、とても丈夫)とかパピルスと呼ばれる植物で作った紙に、驚くほど正確に書き写された聖書の写本が、今ではたくさん発見されています。当時は今のような紙もなかったわけです。

 「最古の写本ではこの句は欠けている」ということは、最も古い写本には、「国とちからと栄えとは限りなくなんじのものなればなり」という祈りがなかった、ということです。つまりこの最後の部分は、イエス様が祈りを教えてくださった時にはなく、後からキリストの弟子たちが付け加えた部分だと考えられているのです。口語訳の聖書や新共同訳の聖書では、マタイの福音書の中にこの祈りがないのもそのためです。新改訳聖書のマタイの福音書の中に、括弧付きで記されているのもそのためなのです。

 さて、そう考えると、イエス様が弟子たちに、祈るときにはこう言いなさいと教えて下さった主の祈りは、最初から最後まで、すべてお願いであったということになります。もう一度主の祈りを注意して聞いてください。

「天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国をきたらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。」

 このように、イエス様が弟子に教えて下さった祈りの内容は、父よという呼びかけの後はすべてお願いなのです。つまりイエス様は、「祈る時にはお願いだけでいい!」そう教えて下さったんです。このことは私たちにとって、本当に慰めに満ちた、主の深いご配慮ではないでしょうか。

 実際私たちは、自分の罪深さや無力さ、また愛のなさに気づかされるならば、イエス様が教えて下さったように、ただ主にお願いすることしか出来ないのではないでしょうか。本当に苦しいとき、人間的なあらゆる方法に行き詰まった時、とてもではありませんが、「ハレルヤ!」などと言って神様を賛美することなど出来ません。ただ、ため息をつきつぶやくこと、うめき苦しむこと、あるいは「神様助けて下さい!憐れんでください!お赦しください!お救い下さい!」としか祈れないのではないでしょうか。「神様、私はあなたの助けなくしては、あなたの聖なる御名を汚すことしか出来ない愚かな者です。どうか憐れんで下さい!」と祈ることしかできないのが私たちなのではないでしょうか。そしてイエス様は、それでいいと教えてくださったのです。

 そのような慰めに満ちた教えは、ヤコブの手紙にもあります。ヤコブの手紙5章13節という所を開いて見てください。このようなみことばがあります。

「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」ヤコブの手紙5章13節

 あなたがもし悩んでいたり苦しんでいるならば、神に祈りなさい。けれどももしあなたが喜んでいるなら、神に賛美しなさい。これが、イエス様が、そして父なる神様が私たちに対して願っておられることなのです。聖霊なる神は、私たちを神の神殿として私たちの内に住んでいて下さり、私たちが苦しむときにはともに苦しみ、私たちがどのように祈ったらいいのかわからない時には、いいようもない深いうめきをもってとりなしの祈りをしてくださるお方です。また聖霊なる神こそ、私たちのこころを平安と喜びで満たし、賛美をさせてくださる助け手、人格を持った神ご自身なのです。

 キリスト教会には、牧会的配慮という言葉があります。牧会的配慮。それは魂への配慮です。私たちのまことの大牧者、良い羊飼いであられる主イエス様は、本当に深い牧会的な配慮、魂への配慮をもって私たちの魂の叫びを聞いてくださり、「祈るときにはこう祈るんだよ。」とこの素晴らしく慰めに満ちた祈りを、私たちに教えてくださったのです。

(牧会的配慮の多様性の例)

「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」 1テサ 5:14

本論2:主イエス様が教えて下さったキリストの弟子の祈りの基調音は、賛美の調べではなかった!

 さて、まず主イエス様が教えて下さったキリストの弟子の祈りは、全部お願いであったということを確認しました。これを言い換えると、主イエス様が教えて下さった祈りのテーマは、賛美ではなかったというふうにも言えるのではないでしょうか。

@天にまします我らの父よ。
Aねがわくは御名をあがめさせたまえ。

 「天にいます私たちの父よ。あなたの御名をあがめます。あなたの御名をほめたたえます。」と祈れば、それは賛美と言えますが、「願わくは御名をあがめさせたまえ。御名があがめられますように。」という祈りは、やはり賛美というよりは神への願いの祈りです。

もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。(ローマ 2:17-24)

 私たちは、有言不実行・言行不一致になることによって(行いのない信仰、悔い改めのない信仰)、そして十戒や山上の説教で明らかにされている罪を犯すことによって、御名を汚す者になる。(なぜイエス様のことばには力があったのか、それは弟子たちに教えられたとおりの生き方をイエス様ご自身がしていたから!言っていることとやっていることが見事に一致していて、裏表がなかったから!)

「私たちの天の父よ!私たちはあなたの助けなくしては、あなたの聖なる御名を汚すことしか、あなたの顔に泥を塗るようなことしか出来ない愚かな者です。どうか憐れんで私たちの生き様を通して、私たちの存在を通して、わたしの遣わされている所の人々が、あなたの御名をほめたたえる者へと変えられますように!」

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」詩篇115篇1節

 そんなふうに真剣になって祈る時、それは賛美というよりは、罪との戦い、自分自身との戦いにおいて必死になって神にすがる祈りだと言うことができるでしょう。

B御国をきたらせたまえ。
Cみこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

 「御国をきたらせたまえ」という祈り、そして「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という祈りも、やはり賛美というよりは切なる願いです。

D我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
E我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
F我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。

 後半の祈りは、さらに私たちに関する具体的な必要、日毎の糧、罪の赦し、そして誘惑からの救いのための切なる願いです。神への賛美や感謝の祈りではありません。

結論:栄光を神に帰す賛美が加えられたのは、主の祈りをキリストの弟子が深く味わったことによる

 かつてマルチン・ルターは「大胆に罪を犯せ!」ということを言いました。これは誤解されるかもしれませんが、とても意味のある言葉です。クリスチャンでまじめな人ほど、あるいは純粋な人ほど、人前で賛美したり、証しをしたりするのをためらうということがあります。ちょうど自分が十字架の影に隠れることだけを求め、人目に隠れて地の塩としてだけ生きようとするかのような生き方です。けれども、イエス様は「あなたがたは世界の光です!」とも宣言して下さいました。ルターが「大胆に罪を犯せ!」と言ったのは、「あなたは大胆に人前で光り輝き、あなたの存在と生き様を通して、神の栄光を表わしなさい!」ということだったと思われます。

 私は神学校を卒業した2年前から、ほとんど毎週木曜日、夜6時から30分ほど、豊橋駅前のデッキの上で、ギターを持って賛美し、路傍伝道、辻説法をしています。路傍伝道を続けている中で、自分を見せたいためにやっているのではないかとか、自分のような者がそんなことをするのはふさわしくないのではなどと思うこともあります。けれども祈りつつ駅前に出て行って神を賛美し、聖書のゴスペルメッセージを叫んでいると、とても喜びがあるのです。本当に楽しいのです。「皆さん!私を見て下さい!私のような者を愛し、命を捨ててくださったお方、そして皆さん、あなたを文字どうり命をかけても惜しくない存在として、かけがえのない大切な存在として愛してくださっているお方がおられるんです!そのお方の名前はイエス・キリストです!」そんなふうに大胆に、勇気を持って主とともに駅前に立つ時、私のような者を福音のために使って下さる神に感謝をせずにはおれなくなるのです。

 私たちは、神の助けなくしては、天の父の顔にどろを塗ること、御名をあがめるどころか御名を汚すことしか出来ません。 しかし、主の力強い助けがあれば、私たちは神によって、栄光と力に満ちた御国・神の国を映し出す鏡のような存在として生きることが出来るのです。

 他者のための存在として生かされる時、そこに本当に素晴らしい喜びがあります。おそらくキリストの弟子たちはこのお願いだけの主の祈りを祈り続ける中で、そんなふうに溢れる喜びに満たされ、神の恵みに対する応答として、この賛美を捧げずにおれなくなったのではないでしょうか。

 かつて私が自分のためだけに生きていた時、そこには空しさしかありませんでした。自分のためだけに時間と労力を使っていたからだと思います。けれども今は違います。生きる本当の喜びは、他者のために生きるときにあるのです。新しく始まった一週間、それぞれの所に主と共に遣わされ、お願いだけでいいと教えて下さったこの主の祈りを味わい、そして高らかに主を賛美していきましょう。

祈り

 天にいます私たちの父よ。私たちは、神の助けなくしては、天の父の顔にどろを塗ること、御名をあがめるどころか御名を汚すことしか出来ません。 しかし、あなたの力強い助けがあれば、私たちはあなたによって、あなたの栄光と力に満ちた御国・神の国を映し出す鏡のような存在として生きることが出来ますから感謝します。なぜなら、国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。


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