NEW! 2002年 2月17日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)

キリストの弟子の祈りF
私たちを試みに会わせないでください

聖書個所:ルカ11章1−4節

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。
   「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
   『父よ。
   御名があがめられますように。
   御国が来ますように。
11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
   私たちを試みに会わせないでください。』」

主題:「私たちを試みに会わせないでください」と祈ることは、誘惑に勝利する最大の方法である

導入:主イエスが教えて下さったキリストの弟子の祈り

 これまで6回に分けて、主イエス様が弟子たちに教えて下さった主の祈りをご一緒に味わってきました。今日は、7回目ですが、キリストの弟子の祈りFということで「私たちを試みに合わせないでください。」という祈りを共に味わい、このキリストの弟子の祈りを、いよいよ私たちの祈りとしていきたいと思っています。

 改めて見てみますと、この主の祈り、キリストの弟子の祈りは、それ自体、一つ一つの祈りが、すべての試み、誘惑に勝利するための祈りになっています。どうすれば誘惑に打ち勝ち、福音によって人生の勝利者となることが出来るのか、その秘訣がすべて、この祈りにには込められているのです。

 早速ですが、この主の祈り、キリストの弟子の祈りに沿って、様々な誘惑に打ち勝つ秘訣を学びたいと思います。

@父よ!

 まず「父よ!」という呼びかけです。時に私たちは、「父よ!」と呼びかけることをためらってしまうことがあります。特に信仰を持った後に、何か罪を犯してしまった時、私たちは「父よ!」と呼びかけることをためらってしまうのではないでしょうか。罪を犯してしまった後で、もう私は神を父と呼ぶ資格のない者だ。そんなふうに思ってしまったことはないでしょうか?私はしょっちゅうあります。そしてそのような罪責感に追い討ちをかけるように、「おまえのような者が父よと呼ぶ資格があるのか!」というような試みる者の声を聞くかもしれません。

 しかしそんな時こそ、私たちのために十字架で死なれ、よみがえられた主イエス様が、「祈る時には、こう言いなさい。まず父よと呼びかけなさい。」と教えて下さったこの主の祈りを思い出すべきです。ただイエス様が命じて下さっている故に、私たちは神に向かって「父よ!」と呼びかけることができるのです。

 また、そんな時こそ、ヨハネの福音書1章12節「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」を心に思い浮かべるべきです。イエス様を心に受け入れた人、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権が与えられていることを心に刻むべきです。

 また、ルカ11章13節「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」のみことばを信じて、聖霊なる神を願い求めるべきです。なぜなら、私たちの内に住んで下さる聖霊なる神によってこそ、私たちは「アバ、父!」と呼ぶことができるからです。そして私たちが神の子どもであることをあかししてくださるのも聖霊なる神なのです。(ローマ8:14−16参照)

A御名があがめられますように。

 次に「御名があがめられますように。神ご自身がほめたたえられますように。」という祈りです。

 私たち人間にとって、最も強い誘惑。それは、自分が他の誰よりもあがめられたい、自分が神様のようにほめたたえられたいという思いです。一言で言えば、自分が神のようになりたい、他の人に「あの人はすごいですね!〜さんは素晴らしいですね。」という言葉を言わせたいのです。そして、あの善悪の木の実を食べることによって選び取った生き方こそ、試みに負けて自らを神の座に置き、自分の名前があがめられますようにと願いつつ生きる道だったのです。

 しかし私たちが、「御名があがめられますように。」と祈るならば、自分の名前があがめられること、自分が神のようにほめたたえられることを願う強い誘惑に打ち勝つことができます。御名があがめられますように。と祈るならば、私たちは自分を指し示す生き方ではなくて、神を指し示す生き方をすることができるからです。

 金曜日の夕方、私は豊橋技術科学大学の図書館で持たれている聖書研究会にたいてい出席しています。先週はヨハネの福音書の3章22節から36節までのみことばに共に耳を傾けました。そこにはイエス様の道備えをしたバプテスマのヨハネのことが記されています。バプテスマのヨハネは、「イエス様の方にたくさんの人々が集まっていますよ」という声を弟子たちから聞かされた時、「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。…あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」と明言しました。

 あのグリューネバルトが、祭壇画として十字架につけられたキリストを力強く指差しているバプテスマのヨハネを描いたように、バプテスマのヨハネは、主の祈りが指し示している生き方、つまり「御名があがめられますように」と祈りながら、自分ではなく、主イエスをはっきりと指差し、すべての栄光を主イエスに帰する生き方をした素晴らしい証し人だったのです。

 森川牧師もべテル聖書学校などで証しをしてくださっていますが、私たちは用いられれば用いられるほど、高慢になってすべての栄光を神に帰すことが困難になります。自分の名前があがめられること、自分が神のようにほめたたえられることを願う誘惑は非常に強いからです。しかし「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」ということを覚えながら、「御名があがめられますように」と祈るならば、この試みにも勝利することができるのです。

B御国が来ますように。(Cみこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。)

 次に「御国が来ますように。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という祈りです。キリスト者が「御国が来ますように」と祈る時、それはまず第一に、自らの心の王座を主イエスに明け渡し、主イエスを心の王座に主として迎える祈りです。キリスト者であっても、誘惑に負けて自らが主になってしまったり、イエス様以外のものを主としてしまうことがいくらもあります。

 この祈りを自分の祈りとして祈るならば、たとえこの世界がどんな状況になったとしても、私たちがこの聖書のことばに落ち着いて耳を傾けるならば、揺れ動く地にあっても信仰が支えられ、堅く信仰に立って信仰の勝利者になることができるのです。なぜなら、すでに世に勝って下さった主イエスと共に歩むなら、悲しみが尽きないこの世にあっても、日々神の国を味わいながら、生きていくことが出来るからです。

 この祈りを自分の祈りとするなら、自己中心で自分勝手な思いを押し通し、自分の願いどおりに生きたいという恐ろしく危険な誘惑から解放されて、喜びと平安に満たされた幸いな人生を生きることができるのです。自分で人生のハンドルをしっかり握って、自分の行きたい方にハンドルを切りつづけたとしても、車は道なりにしか、進めません。みこころ(最善)でない時はその道を進みたくても主なる神様が通行止めにしてくださいます。そして、最善のみこころの道を備え、それを実現に至らしめて下さるのは主ご自身なのです。

D私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。

 次に「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」という祈りです。毎日祈ることが命じられているのは、私たちが天の父から離れやすいからです。天の神様に祈ることを止めると、時間が経つにつれてどんどんずれていってしまう弱い者でしかありません。私達は、放っておくと必ずずれる方向に向かってしまう存在なのです。そして、最初は微妙なずれだけれども、時が経つとどんどんとんでもない方向にずれていってしまいます。そんな私たちに対して、日ごとに、毎日祈るように命じてくださっている主の深いご配慮を覚えます(デボ1くんのように)。

 また、この世界に食べ物がなくて死んでいるたくさんの人がいることを知らされます。けれども私たちは速やかに、そのような人たちのことを心の中から忘れ去るという誘惑があります。

 けれどもこの祈りは、すべてのものを神からの恵み、神からの贈り物として受け止め、感謝するための祈りです。そうすることを通して、神を神ともせず、感謝もしない自己中心な罪人の生き方から、感謝と喜びに溢れた神様中心の生き方へと変えられる祈りなのです。無力で愛のない私たちが祝福の基として生きるためには、日ごとに父に祈り求めることが必要なのです。

E私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。

  私たちの罪(ハマルティア:的外れ)をお赦しください。私たちは的外れなことばかりをしている罪人です。けれども、恵み深いイエス様が、十字架で私たちのすべての罪を赦した後復活なさり、今もとりなしていてくださる故に、罪人に救いがあるのです。

 そして、恵みによって赦された者は、負いめのあるものを赦しますと祈りながら、 相手のためにとりなすことを通して、不恵みの鎖を断ち切ることが出来るのです。

F私たちを試みに会わせないでください。

 さて、いよいよ「私たちを試みに会わせないでください。」という祈りです。一箇所、聖書を開いて頂けますでしょうか。新約聖書ヘブル人への手紙4章15ー16節という所を、ご一緒にお読みしたいと思います。

私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、
おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ヘブル人への手紙4章15−16節

 ここには、イエス様が大祭司なるお方として紹介されています。祭司というのは、人の側に立ってとりなすのが仕事です。イエス様はその祭司の長、大祭司として、私たちのためにとりなしの祈りを今もしていてくださいます。そのイエス様は、私たちと同じ肉体を持った生身の人間となってくださり、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試み・誘惑に会われたと聖書は語っています。ですからイエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではないのです。

 それゆえに聖書は勧めます。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 と。ここに「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 ということばがあります。私はこの御言葉を覚えつつ主の祈りを祈っていた時、次のようなことを覚えました。主の祈りの最初に、「父よ!お父さん!」と私たちが呼びかけることは、まさに大胆に恵みの御座に近づくことではないかと。「父よ!」という呼びかけは、私たちが父なる神のふところに飛び込む祈りです。また、「父よ!」という祈りは、私たちが御翼の影に飛び込む祈りでもあります。

 今もあると思いますが、かつて日本では、「駆け込み寺」というものがありました。なにか試練や問題に出会った時、自分の力ではどうしようもない困難にぶつかった時、お寺に駆け込んで行けば、そこに和尚さんがいて、相談に乗ってくれたのです。キリスト教会には、この駆け込み寺ならぬ、駆け込み祈りがあります。それがこの主の祈りではないでしょうか。私たちが「父よ!」と呼びかけるならば、天の父は24時間いつでも、どんなときでも、私たちの声に耳を傾けて下さって、相談に乗って下さるのです!

 しばらく前のトラクト(教会案内のちらし)に、森川牧師の「心からの安らぎをあなたに」というメッセージが載っていました。その中には、ある国の王様が、「心からの安らぎ」というタイトルで、絵を書いてほしいと言った時の話が紹介されていました。二人の画家が、王様の声に応えて、それぞれ絵を書いて持って来ました。一人の画家が書いた絵は、波風一つ立ってない静かな湖の湖面に、月が丸く映っている絵でした。王様はその絵をご覧になって、とても気に入ったようでした。

 けれどもその時、もう一人の画家が、自分の書いた絵を王様に見せました。その絵には、ゴウゴウという爆音が聞こえてきそうな滝が描かれていました。とても安らぎの絵には見えませんでした。それで王様は、「どうしてこれが心からの安らぎなのか?」と画家に問いかけました。するとその画家は、こう答えたようです。「王様。私たちの人生の中で、波風立たない、何の問題も試練もないような日は、ほんの数えるほどしかありません。ですからそちらの絵は現実離れしています。けれども私の書いたこの絵をよくご覧下さい。滝の傍に木があって、そこに鳥の巣があります。その巣には親鳥の翼の下で、スヤスヤと寝ているひな鳥たちがいるのです。周りがどうゆう状況であろうと、親鳥の翼の下にいるならば、ひな鳥たちは心からの安らぎを持つことが出来るのです。」と。ここに試練の只中にあっても、心からの安らぎもって試みに打ち勝つ秘訣があります。

 かつてダビデもこのような詩を書いています。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。(詩篇23篇4節)」たとえ私たちが、死と隣り合わせのような試練の中を通されても、主が共にいて下さるなら、試練の只中でも、心からの安らぎを持って生きることができるのです。

 私たちも、様々な試練や試みの只中に生かされております。時に祈ることも出来ないほどの忙しさに忙殺されそうになります。聖書を見ると、イエス様もそのような中を生きてくださいました。たくさんの人々がイエス様の所に助けを求め、病人をつれて来ました。枕するところもないほどの忙しさの中で、あるときイエス様は、船の上でどろのように眠られた時もありました。

 イエス様が試練に勝利された秘訣も聖書に記されています。それは、忙しい時ほど、時間を作って静まり、そして祈られたということにあります。この主の祈りのすぐ前には、あのマルタとマリアの話も記されてありました。私たちはマルタのように、忙しさの中で、心が滅び、主に命令してしまい、隣人を裁いてしまうことがよくあります。しかし、もしマリアのように、主の足元にひれ伏し、主の御声に耳を傾けるならば、試みに打ち勝つことが出来るのです。

結論:誘惑に勝利する唯一の道は、キリストの弟子として「父よ!」と神を呼ぶことによって大胆に恵みの御座に近づき、父なる神のふところ、御翼の影で日毎にこの主の祈りを祈ること。

 「父よ!」という呼びかけをもって、父なる神のふところに飛び込む時、「父よ!」という呼びかけをもって、御翼の影に飛び込む時、私たちは試みの声を遠くに聞き、そして試みに勝利することができます。

 主イエス様はこうおっしゃっています。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
(ヨハネの福音書16:33)

 新しく始まった一週間も、このキリストの弟子として、「父よ!」と神を呼びながら、大胆に恵みの御座に近づき、そして福音によって勝利していきましょう!

祈り

天にいます私たちの父よ!
私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい!
父よ。 私たちは、あなたを父とおよびするにはまったくふさわしくない、資格のない罪人でした。
しかし私たちが、ありのままの姿で、汚れと罪にまみれた姿であなたの所に帰る時、
ちょうどあの放蕩息子の父が走りよって息子を抱き、最高のもてなしをしたように、
あなたはわたしたちを愛をもって受け止めてくださいますから感謝します。
どうか、試みに満ちたこの世の只中にあって、いつもあなたのふところに憩い、
そしてすべての試みに勝利させてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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