NEW! 2002年 1月13日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)

キリストの弟子の祈りE
私たちの罪をお赦しください

聖書個所:ルカ11章1−4節

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。
   「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
   『父よ。
   御名があがめられますように。
   御国が来ますように。
11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
   私たちを試みに会わせないでください。』」

主題:キリスト者に人を赦すことが命じられている理由は、
    神の恵みの赦しの中で、相手のためにとりなすことを通して、
    不恵みの鎖を断ち切り、憎しみに勝利して生きるためである。

導入:主の祈りは不自然な祈りである。

 主イエス様が弟子たちに対して、祈るときにはこう祈りなさいと教えて下さった主の祈り。少し前から、この主の祈りを、礼拝式において味わってきました。

 今までこの主の祈りを味わってきたことで、改めて教えられたことが、私にはたくさんあります。その中で一番考えさせられていることは、主イエス様が教えて下さった祈りは、私たちが神様に対して、自然に願い求める祈りとはまったく違っているなー。ということです。イエス様に教えて頂かない限りは、自然には祈れない不自然な祈り。それがこの主の祈りではないか。そんなことを考えさせられているわけです。

 祈る時にはまず、「父よ!お父さん!」という親しい呼びかけをもって、あなたの造り主なる神様、天地万物の創造者なる唯一の神様に呼びかけなさい。そうイエス様は教えてくださいました。しかし神様ご自身が恵みによって、「父よ!」と呼びかけて祈りなさいと命じてくださらなければ、誰が「父よ!」と祈れるでしょうか。神様ご自身が、恵みによって私たちを神の子どもとして受け入れてくださっていなければ、誰が「父よ!」と祈れるでしょうか。

 「御名があがめられますように」と祈りなさい。そうイエス様は教えてくださいました。けれども、私たちが自然に願ってしまうことは、「私の名前があがめられ、私自身がほめたたえられますように」という正反対の祈りではないでしょうか。

 「御国が来ますように」 と祈りなさい。そうイエス様は教えてくださいました。けれども私たちは、すぐに神様を押しのけて自分が心の王座に座ってしまい、「自分の思いどうりになる、自分を中心とした世界が来ますように」と祈ってしまうのではないでしょうか。

 「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りなさい。そうイエス様は教えてくださいました。しかし私たちは、「口ではイエス様が主ですと言いながら、やっぱり人生のハンドルをしっかりと自分で握り締め、神様、私の願いがかなえられますように。私の願っている道、これこそがみこころだと確信していますから。」と自分勝手に祈っているのではないでしょうか。そうして自己実現のために、神様でさえも利用してしまうのではないでしょうか。

 「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りなさい。そうイエス様は教えてくださいました。しかし、経済的に貧しい時に「私の日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることが関の山で、満ち足りている時には、そう祈ることさえしない。飢餓などで苦しんでいる人たちのことは速やかに忘れ去り、あくまでも自分の必要だけを求めて生き続ける。それが私たちが流されやすい、自分にとって楽しいことだけを追い求め、自分さえよければという生き方ではないでしょうか。

 実はそんな私たちの弱さや貧しさ、そして愛のなさを、主イエス様は良く知って下さっています。けれどもイエス様が私たちのことを心にとめ、よく知っていてくださるのは、私たちを本当に愛してくださっているからです。そしてイエス様は、私たちを本当に愛してくださっている故に、「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」という祈りを、私たちに教えてくださいました。
 今日はこの、「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」という祈りから、主イエスの豊かな恵みを、ご一緒に味わっていきたいと考えています。

本論:私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
    −キリスト者に人を赦すことが命じられている理由は、神の恵みの赦しの中で、
      相手のためにとりなすことを通して、不恵みの鎖を断ち切り、憎しみに打ち勝つためである。

 まず、もういちどルカの福音書に記された主の祈りを確認したいと思います。11章4節を見てください。

11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。

 私たちが主の祈りを祈る時、文語で「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」と祈る方が多いのではないでしょうか。私たちが使っている新改訳聖書では、まず「我らの罪をもゆるしたまえ。」という祈りがあって、それから次に「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」という祈りがあります。文語の主の祈りと比べると、順番が逆になっています。

 もともと新約聖書は、当時の世界の共通語、多くの人たちがしゃべっていた言葉がギリシア語だったので、ギリシア語で書き記されました。聖書のために使われたギリシア語は、民衆の使っていたギリシア語だということなので、少し親しみが湧きます。けれどもギリシア語の聖書を読むのは難しいです。けれども苦労しながらギリシア語の新約聖書で、この主の祈りを見てみますと、ちょうど新改訳聖書のように、まず「私たちの罪をお赦しください。」という祈りがあって、それから次に、「私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」という祈りが来ています。

 私はこの順番が、とても大切だと考えてます。普通に文語で、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」と祈るならば、まず私たちが人を赦すこといが大切だ。というふうに受け止めてしまいやすいと思います。けれども新改訳のように、「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」という順番で祈るならば、まず神様の恵みによる私たちの罪の赦しがある、まず先行する神様の恵み、無条件の赦しがあると受け止めて祈れる。私はそう考えるのです。
 ですからまず、「私たちの罪をお赦しください。」という祈りについて、考えていきたいと思います。

1、私たちの罪(ハマルティア:的外れ)をお赦しください。

 A、私たちは的外れなことばかりをしている罪人である。

 「私たちの罪をお赦しください。」という祈りの中で使われている罪という言葉には、ハマルティアという言葉が使われています。これは「的外れ」という意味の言葉です。皆さんの中で弓道やアーチェリー(弓矢)をされた方がおられるでしょうか。離れた所から的を目掛けて矢をかまえ、的を射抜くあの競技です。見事に的に命中すると、「当たーりー!」という声が掛かりますが、見事に的を外れてどっかに矢が飛んでいってしまうと、「ハマルティア−(はずーれー!)」ということになるわけです。

 この、的はずれとか的を射るというようなことに例えて表現するならば、実はイエス様の教えて下さった主の祈りこそ、見事に的を射た祈りであると言えます。けれども、今日最初に述べたように、主の祈りからずれた自分勝手な祈りは、見事に的を外した罪人の祈りだと言えます。

 弓を射る時、手元におけるずれは本当に微妙なずれであったとしても、時が経つにつれて、そのずれは大きくなっていき、やがて大きく的を外すことになります。私たちの人生においても、同じようなことが言えます。

 旧約聖書の創世記3章というところを開いていただけますでしょうか。そこには、私たち人間が、どこから的を外したのかが記されています。(創世記3章1−6節を読む)

 あの最初に造られた人間アダムとエバも、最初は神を心から信頼し、お互いを愛する、的を射たとても幸いな歩みをしていました。二人は神を神として歩んでいたのです。けれども、試みる者である悪魔が巧みにエバを誘惑し、的外れな罪の歩みへと誘いました。最初サタンは、神の命令をほんの少し変えて、エバに対して、「本当に神はそんなふうに言われたのですか?」と質問を投げ掛けただけでした。しかしエバは、神のことばを正確に記憶していなかった故に、自分の思いで神のことばを微妙に変えてしまいます。サタンはその隙をついて神のことばとは正反対のことを堂々と主張し、そしてエバの、神様に対する素直な信頼を崩しにかかったのです。

 決定打になったのは、サタンの、「あなたがたがそれ(神が食べることを禁じられた善悪の知識の木の実)を食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを、神は知っているのです。」 という言葉でした。これは主の祈りの「御名があがめられますように。神がほめたたえられますように」という祈りからの決定的なずれでした。 最初の人アダムとエバ、そしてすべての人は、「自分の名前があがめられますように。自分が神のようにほめたたえられますように。」という野心を持って、神を神とすることを止めた的外れな歩みを続けているのです。

 弓の場合は、一度矢を放ったら、もう軌道修正が出来ません。けれども私たちの日々の生活においては、主の恵みとあわれみによって、何度でも軌道修正出来ます。何度でもやり直すことができるのです。日毎に毎日、この主の祈りを祈れることは、私たちにとって本当に大きな恵み、大切な軌道修正の時だと思います。

 B、恵み深いイエス様が、十字架で私たちのすべての罪を赦した後復活なさり、
   今もとりなしていてくださる故に、罪人に救いがある。

天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり−使徒信条より

●父なる神の右の座で、主イエス様は今何をなさっているのでしょう?

主イエス様は、私たちのために祈って下さっています。(とりなしの祈り、弁護士のよう)
  1ヨハネの手紙2:1−2、ヘブル人への手紙7章24−25節参照

●主イエス様は、どんな祈りをして下さっているのでしょう?

聖書には記されていません。けれども、聖書に記された主イエスの生き様と主イエスの御言葉をもとにして想像するなら、おそらくイエス様は、次のような祈りを今もなさっているのではないかと私は考えています。

「父よ!キリスト者を通して、 全地で御名があがめられ、御名が聖とされますように。

キリスト者を通して、 御国・神の国が、全地に来ますように。
そのために彼らが私を信頼し、 地に住み、誠実を養うことができますように。

キリスト者を通して、みこころが、天で行なわれているように、 全地でもことごとく行なわれますように。

父よ!私が彼らを愛したように、 そのように彼らも、互いに愛し合うことができますように。

キリスト者を通して、全世界の飢えている人々、貧しい人々に、 神の口から出た日ごとの糧が届けられますように。

父よ! どうか私が十字架の上で流した血潮の故に、打たれた打ち傷の故に、彼らを赦して下さい!
彼らは何をしているのか自分でわからないのですから。

キリスト者を通して、福音が全世界にくまなく宣べ伝えられ、
1人でも多くの者が永遠のいのちを得ることができますように。

父よ! 彼らを試みに会わせず、 すべての悪から救い出して下さい。

キリスト者が私に似た者になるように。
そして、家庭で、学校で、職場で、地域で、全世界で、 彼らが祝福の基となるように。」

2、私たちも私たちに負いめ(オフェイロー:借金・借し、義務、責任)のある者をみな赦します。
  −恵みによって赦された者は、負いめのあるものを赦しますと祈りながら、
    相手のためにとりなすことを通して、不恵みの鎖を断ち切ることが出来る。

マタイの福音書18章21節から35節に記されている、赦しに関するとても素晴らしいたとえ話の紹介
(⇒メッセージ「イエス様の顔は7度を70倍するまで」参照

 

結論:キリスト者に人を赦すことが命じられている理由は、
    神の恵みの赦しの中で、相手のためにとりなすことを通して、
    不恵みの鎖を断ち切り、憎しみに勝利して生きるためである。

祈り

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