NEW! 2001年 12月30日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)

キリストの弟子の祈りD
「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」

聖書個所:ルカ11章1−13節

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。
   「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
   『父よ。
   御名があがめられますように。
   御国が来ますように。
11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
   私たちを試みに会わせないでください。』」
11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、
    『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。
    『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、
    あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。
    たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、
   天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

主題:私たちが祝福の基として生きるためには、日ごとに父に祈り求めることが必要である

導入: 祈りの原点は、友人の期待に応えることができない自分の無力さである

 イエス様は弟子たちに、「祈るときには、こう言いなさい。」とおっしゃって、主の祈りを教えてくださいました。その主の祈りを教えて下さったそのすぐ後で、イエス様は弟子たちに、一つの意味深なたとえ話を語られました。11章5節以下に、そのたとえが記されています。

11:5 また、イエスはこう言われた。
   「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、
    『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。

 ちょっと想像してみてください。家に帰って今日の夜になりました。ねむくなったので明かりを消し、布団に入って眠りにつきます。ところが寝静まった真夜中、ピンポーン、とドアチャイムが鳴ったかと思うと、ドンドンドンドンと玄関の扉を叩く音で叩き起こされました。眠たい目をこすりながら時計をみると、なんと夜中の3時!誰だこんな夜中に。うるさいぞ!とぶつぶつ言いながら玄関に行き、扉を開けてみると、なんと、あなたの友だちが立っています。そしてその友だちが、「君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。」と言ったとします。…

 さあ、その時あなたは、どんな気持ちになるでしょうか?続く17節を見てください。きっとあなたも、この気持ちがわかるはずです。

11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。
    『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。
    起きて、何かをやることはできない。』

 そんなことで真夜中に叩き起こされたら、まさに「めんどうをかけないでくれ。」という一言に尽きるでしょう。そしてあなたはドアをバタンと閉めて、再び布団に潜り込みます。でももしその友だちが帰ろうともせず、あくまでもピンポーン、ドンドンドンドンと頼み続けたとしたら、あなたはどうなさるでしょうか。続く8節から10節を見てください。イエス様は、続けてこんなふうにたとえ話をまとめられました。

11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、
    あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。
    たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

 最初このたとえ話を聞いた時、夜中に寝てる人を叩き起こすなんて、なんて非常識な人だろうかと、私は思いました。けれども、このメッセージを準備しながら、何が彼をそこまで駆り立てたのかと、改めて考えてみました。

 こんどは真夜中に、「君。パンを三つ貸してくれ」と頼みに行った人の立場に立って、どんな状況だったのかを考えてみたいと思います。しばらくぶりの友人が、旅の途中で私の家に寄ってくれた。長旅で疲れているようだし、とてもお腹がすいているようだ。でも、私には、何も出してあげるものがない。どうしようこんな夜遅くに…。

 この 『君。パンを三つ貸してくれ。」と真夜中に友人の家を訪ねた人は、今日の私たちクリスチャンの姿でもあると私は感じています。いつの時代でも私たちクリスチャン、キリストの弟子は、友人やまわりの人たちから大いに期待されているからです。

 なぜなら、この世の中はクリスチャンでしか答えることの出来ない真剣な疑問で満ち溢れているからです。わたしを本当に愛し、大切にしてくれる存在はどこにいるの?どうすればショッピングでは満たされない心が満たされるの?どうすれば孤独から救われるの?。どうすれば罪が赦され、心からの平安を持つことができるの?どうすれば一度しかない人生を無駄にすることがないの?すべてが相対的で頼りにならないこの世の中で、何を信じて、何を基準にして生きていけばいいの?どうすれば死の向こうにも確かな希望を、永遠のいのちを持つ事ができるの?それらすべての答えが、クリスチャン、キリストの弟子には与えられているからです。

 しかし私たちは、本当の自分を見るときに、やはり相手の期待に応えることが出来ない自分の無力さを思い知らされます。私たちクリスチャンは、自分の力では、相手の期待に応えることができない、無力で何も持たない存在なのです。

 しかしここにこそ、祈りの原点があります。祈りの原点は、友人の期待に応えることができない私たちの無力さにあるのです。自分の限界を覚えさせられたとき、自分の無力さや愛のなさをいやというほど覚えさせられたとき、私たちはその時初めて、祈らずに自分の知恵や能力に頼ってことを進めることを止め、まず神の前に跪いて御声に耳を傾け、必要を具体的に祈り求めることができるのです。

 実は私たちクリスチャン、キリストの弟子は、他の誰よりも、神様に大いに期待されている存在です。旧約聖書の時代、神の民イスラエルに大いなる期待を持って、主なる神様は養い育てて下さいました。それは神の民が、全世界の祝福の基として生きるというものでした。そして新約聖書の時代から今日に至るまで、クリスチャンが世界の光、地の塩として生き、私たちを通して、福音が全世界、地の果てにまで宣べ伝えられるという大きな期待を持って、今も神様は導いて下さっているのです。そして主なる神様は、私たちがその期待に応えていくことができるように、私たちが本気になって天の父に祈り求めることを切に願っていてくださるのです。そのために、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 という確かな約束も与えられています。

本論:私たちを今日も祝福の基として生かしてください!

1、父に祈り求めるように命じられているのは、私たちキリストの弟子たちが全世界の祝福の基として生きるため

 「世界がもし100人の村だったら」という本の紹介(インターネットを駆け巡ったEメールについて)

「世界には63億人の人がいますが、もしもそれを100人の村に縮めるとどうなるでしょう。52人が女性で48人が男性です。30人が子どもで、70人が大人です。そのうち7人がお年寄りです。… 20人は栄養が十分ではなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです。75人は食べ物の蓄えがあり、雨露をしのぐところがあります。でも、あとの25人はそうではありません。17人は、きれいで安全な水を飲めません。もしあなたが、銀行にお金を預けており、財布にもお金が入っており、家の中に小銭があるなら、 あなたはこの村で最もリッチな人ベスト8に入っています。 もしあなたが車を一台持っているなら、あなたは最もリッチな人ベスト7に入っています。村人のうち、1人が大学の教育を受け、2人がコンピュータを持っています。けれども、村人のうち14人は、文字も読めません。…」

 私は車も持っていますし、コンピュータも持っています。そう考えていくと、いかに私は恵まれているのかということを思い知らされるわけです。これは物質的なことだけですが、皆さんは、永遠のいのちを持っておられるでしょうか?イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかって死んでくださり、3日目によみがえってくださったということを信じ、「イエス様、私の心に入って下さい」と祈った人は誰でも、永遠のいのちが与えられていることを聖書ははっきりと約束しています。永遠のいのち、それはどんなにお金を積んでも買うことができないほど高価なものです。どんなに修行をしてもそういう方法では手に入れることができません。罪からくる報酬は死でした。しかしイエス様が、私のそして皆さんの罪を身代わりに背負って十字架で死んで下さったゆえに、イエス様を信じるなら、永遠のいのちを無代価の贈り物、プレゼントとして受け取ることができるのです。もし私達が永遠のいのちを持っているなら、私達は世界で一番恵まれている存在なのではないでしょうか。私は本当にそう思っています。

 実はこの「私たちの日ごとの糧を毎日お与えてください。」という祈りについてのメッセージは、11月に語らせていただく予定でした。けれども私の担当の週に、国際飢餓対策機構のスタッフになられた村松勝三先生が来られることになったので、今日、この祈りについて語ることになりました。けれどもそのことを私はとても感謝しています。なぜなら、「私の日ごとの糧を毎日お与えてください。」とは祈れても、「私たちの日ごとの糧を毎日お与えてください。」とはなかなか祈れない自分自身に葛藤を覚えていたからです。自分が出来ていないことを語れない。少なくとも自分がその御言葉に生きようとして努力していないことは、メッセージ出来ないと悩んでいたからです。そんなところに2週続けて、国際飢餓対策機構の先生が来られたので、私はとても助けられました。

 辻本先生が来られた時、私は個人的に次のようなことを質問しました。「この世界に食べ物がなくて死んでいるたくさんの人がいることを知らされます。けれども速やかに、そのような人たちのことを心の中から忘れ去り、自分さえよければという生活をしてしまいやすいのです。どうしたらいいのでしょうか?」と。

 すると辻本先生はこんなふうに答えてくださいました。「豊かさは神様の祝福です。豊かさそのものは、神様からの恵みであって罪ではないですよ。 でも、もし豊かさを神様からの恵みとして受け止めることが出来ず、感謝もなく自己中心に、自分さえよければと生きているならば、それは罪です!」と。

 そういうアドバイスを受けながら、改めてこの主の祈りを祈っていますと、この主の祈りは、まさにすべてのものを神からの恵み、神からの贈り物として受け止めるための祈りだということに気づきました。 そしてこの祈りは、「父なる神様、今日も私たちを生かしてください!」という切なる祈りでもあると感じています。 この祈りは、神を神ともせず、感謝もしない自己中心な罪人の生き方から、感謝と喜びに溢れた神様中心の生き方へと変えられる祈りです。 そして、この祈りは、私たち自身が、祝福の基、世界の光、地の塩として、他者のために生きるためにどうしても必要な祈りでもあります。

2、毎日祈ることが命じられていのは、私たちが天の父から離れやすいから

 1時間ごとにデボーションする時計・デボ1くんの話
 −絶対狂わない時計の秘密(金曜日の午前中に持たれている有志による祈祷会での小川さんのメッセージから)

 1時間毎に正しい時刻を電波でキャッチして、自らの時刻を修正する。1時間以内の誤差はほとんどないので、いつも正確な時を指し示すことが出来る。自分は完全ではないということをいつもわきまえていて、完全なものからのメッセージにいつも耳を傾け、時刻修正をする謙虚さ。一時間ごとにデボーションしているということでデボ1くんというニックネーム。

 私たちはどうか?やはり完全ではない。天の神様から離れると、時間が経つにつれてどんどんずれていってしまう。私達は、放っておくと必ずずれる方向に向かってしまう存在。そして、最初は微妙なずれだけれども、時が経つとどんどんとんでもない方向にずれていってしまう。そんな私たちに対して、日ごとに、毎日祈るように命じてくださっている主の深いご配慮を覚えることができる。毎日祈ることが命じられているのは、私たちが天の父から離れやすいから。

結論:私たちの日ごとの糧を毎日お与えくださいという祈りは、
    私たちを今日も祝福の基として生かしてくださいという祈りである

祈り

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野町 真理