NEW! 2001年 10月28日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)

キリストの弟子の祈りC
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」

聖書個所:ルカ11章1−4節

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。
   「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
   『父よ。
   御名があがめられますように。
   御国が来ますように。
11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
   私たちを試みに会わせないでください。』」

主題:

導入:ルカの福音書には、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがないが…

 少し前から私は、「キリストの弟子の祈り」というシリーズタイトルで、主イエス・キリストが弟子たちに教えて下さった「主の祈り」について語らせて頂いてます。今日もルカの福音書の11章から、続けて主の祈りを味わっていけたらと思っています。

 皆さん、ちょっと週報の裏を見て頂けますでしょうか。この豊橋ホサナキリスト教会の週報の裏には、礼拝式の心得、使徒信条、そして主の祈りが印刷されています(小坂井チャペルの週報にはそれらに加えて、さらに十戒も印刷されている)。
  おそらくほとんどのキリスト者、つまりキリストの愛に捕らえられ、キリストの弟子とされた者は、この週報の裏に印刷されている文語の主の祈りを覚え、祈っておられるのではないでしょうか。教会学校でも、この教会付属の愛児舎でも、少し難しいですが、文語の主の祈りを覚えて、一緒に祈っています。(第二礼拝式では、文語の主の祈りがOHPでスクリーンに映し出される)文語の主の祈りを読みますので、聞いていて下さい。

「天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」

 さて、次に先ほど司会者の方に読んで頂いた、ルカの福音書11章に記されている主の祈りに、もう一度耳を傾けてみましょう。お読みしますので、聞いていて下さい。

 既にご存知の方もおられると思いますし、また今日お気付きになった方もあるかと思いますが、ここで改めて心に留めて頂きたいことがあります。それは、ルカの福音書に記された主の祈りの中には、今日私がメッセージの題にした「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがない!ということです。

 主の祈りは、マタイの福音書6章にも記されてあります。マタイ福音書の方の主の祈りを見てみましょう。(マタイ6:8−13)

 マタイの福音書の方には、「みこころが天で行なわれているように地でも行なわれますように」という祈り、つまり「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがちゃんとあります。けれども、ルカの福音書には、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがないのです!

 この前、「御国が来ますように」という祈りについてのメッセージを終えた後から、実は私はこのことをずっと考えていました。そして、次のメッセージはどうしょうかと、悩んでいました。ルカの福音書には書かれていないので、初めは「御国が来ますように」という祈りに続いて、そのまま「私たちの日ごとの糧を毎日お与え下さい。」という祈りに移ろうかと思っていました。けれどもおそらく皆さんが、日々の生活の中で、この主の祈りを文語で祈っておられることを考えると、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りをとばすわけにはいかない。少なくても、どうしてルカの福音書には「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがないのか、という説明をしなければいけない。そんなふうに思わされたのです。

 また、先の見えない不安と恐れに覆われている今日の世界情勢、テロに対する報復攻撃とそれに対する化学テロ、経済的に豊かな国の影にあって、飢餓や貧困にあえいで死の影の谷を歩んでいる多くの国の人たちを覚えますと、前回語らせて頂いたあの「御国が来ますように」という祈りと共に、今日ほどこの、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りを、真剣に祈らなければならない時はないのではないか。そんなふうに私は強く思わされているのです。

 ですから今日は、キリストの弟子の祈りCとして、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りについて、主なる神様が今を生きる私たちにお語りになりたいことを祈り求めつつ、御言葉に耳を傾け、このメッセージを準備させて頂きました。

本論:みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ

1、みこころとは、天の父なる神様が願っておられることである

 「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。「みこころが天で行なわれているように地でも行なわれますように」。初めて教会に来られた方や、教会に来て間もない方々にとって、「みこころ」ということばは、あまり聞き慣れないことばだと思います。簡単に言いますと、みこころとは「天の父なる神様が願っておられること」です。 神様からのラブレターと呼ばれ、全世界でベストセラーを続けているこの聖書は、「初めに、神が天と地を創造した」と語り始めます。つまり聖書が語っている神とは、天地万物を創造された私たちの造り主なる神なのです。

 つまり「みこころ」とは、天地万物を創造され、私たちを愛するために造って下さった神様が、私たちのために願っておられることなのです。実はこの主の祈りを教えて下さった主イエス様は、すべてのものを造られた神様ご自身でした。けれどもイエス様は、世界で最初のクリスマスにこの地上に天から降りて来て下さり、私たちと同じ肉体を持った人間として私たちの間に住んでくださったお方です。造り主が肉体を身にまとわれ、私たちの住んでいるこの地に来て下さった。それが最初のクリスマスに起こった、驚くべき出来事だったのです。そうすることによってイエス様は、私たちに一番わかりやすい形で、みこころを教えて下さったのです。

 聖霊なる神様に導かれて書かれたこの聖書には、イエス様が明らかにして下さった、「神様が最も願っておられるみこころ」がはっきりと書き記されてあります。それは、「究極のみこころ」と表現したらいいでしょうか。「究極のみこころ」、それは「私たち一人一人が、造り主なる神と共に歩むことを通して、全世界のすべての人のために祝福の基とされる」ということです。

 主イエス様は聖書全体を通して、私に、そしてあなたに、こう語りかけて下さっています。

「私があなたを愛するために、世界でただ一人しかいない特別な(スペシャルな)存在として造ったのだ。私があなたを母の胎の中で組み立て、目的をもってこの世に生まれさせた。だから私の瞳に映っているあなたは、私にとってとても高価で大切な存在だ。そう、おまえは私に愛されている特別な存在なのだ。

  けれどもあなたは私の愛から離れ、私に背を向けて自分勝手に歩み始めた。そしてあなたは、死と永遠の滅びに向かって歩み続ける失われた存在となってしまった。しかし、永遠の愛をもって、私はあなたを愛し、あなたに誠実を尽くし続けた。あなたまだ罪人であった時、私は十字架の上であなたのために死に、あなたへの愛を明らかにした。あなたのそむきの罪のために私は刺し通され、あなたの咎のために私は砕かれた。あなたは羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かって行った。しかし父なる神は、あなたのすべての罪を私に負わせた。私があなたのすべての罪のために十字架に釘づけられ、血を流した故に、今あなたと私の間を引き裂いていた罪はすべて取り去られた。罪の負債は私がすべて払い終わったから。

  もしあなたが、私を信じ受け入れるならば、あなたは私と共に生きることが出来、死から永遠のいのちに移される。私が三日目によみがえり、死人の中から復活したように、あなたも死の向こうに復活のいのちの希望を持つことが出来る。その時死は終わりではなく、新しい永遠のいのちのはじまりとなる。

 それだけではない。私はあなたがたのために計画を立てている。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたに将来と希望を与えるためのものだ。私はあなたを全世界の祝福の基、世の光、地の塩とした。渇き切った砂漠のようなこの地で、あなたはオアシスのような存在として生きるであろう。」

 主イエス様は、十字架に架かられる前に、 ゲツセマネというところで、血のしずくのような汗を流されながらこの祈りを祈られました…。

 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。 しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 これが、ゲツセマネで主イエスが祈られた祈りでした。 これは、わたしの願いとみこころとの葛藤の祈りでした。 わたしの願いをすべて主にゆだねる祈りでした。そして主イエスが私たちのために十字架の死という杯を受けることがみこころの中心だったのです。

2、みこころが行なわれる所は御国となる

 さて、このようなみこころ、つまり神様が望んでおられることが行なわれるならば、そこは御国、神の国になります。なぜなら、神様ご自身が来て下さり、愛によって統べ治めておられる神の国では、神様ご自身によってみこころが行なわれるからです。ですから、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りは、「御国を来たらせたまえ。」という祈りの中に含まれているのです。これが、ルカの福音書の中に「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがない理由ではないかと私は考えています。

 「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。「みこころが天で行なわれているように地でも行なわれますように」。

 この祈りでは、天と地が対比されています。「天と地の違いがある」などどよく言われますが、天と地という対比は、おそらく最もかけ離れた状態を言い表すのにピッタリな表現ではないでしょうか。

 聖書が天ということばを使うとき、それは、地上から見上げた大空のことを意味しています。朝には太陽が昇り、雲が浮かぶあの大空、太陽が沈んでやみに包まれると、月や星が輝き昇るあの大空のことを意味しています。でもそれだけではありません。聖書が語る天とは、天と地を創造された造り主なる神がおられる所という意味があります。そして聖書が地ということばを使うとき、それはこの地上のすべてを含んでいます。

 天。そこではいつでも、みこころが完全に行なわれています。しかし一方、私達が住んでいるこの地はどうでしょうか。毎日の新聞やテレビを見ると、本当に気持が暗くなります。同じ地球の上ですが、私達の住むこの地では、偶像礼拝、殺人、姦淫、盗み、偽証、むさぼりなどが行なわれています。それらはすべて、みこころとはまったく正反対のことです。そのため私達の心の中は、不安と恐れでいっぱいになっているのではないでしょうか。

 みこころの生き方とは、絶対的な神の物差し(神のことば)をもって、 何が善で何が悪なのかを判断していく生き方です。みこころでない生き方とは、自己中心で相対的な自分の物差しをもって、善悪の判断をしていく生き方です。

 人間が神に背を向ける前には、地においてもみこころが行なわれ、そこは神を中心とした喜び(エデン)の園、神の国でした。 けれども人間が神を神としなくなった地では、みこころよりも自己中心な意志、エゴを押し通そうとする私たちの欲望や願望が行われています。

 この地上ではみこころが行われていないかのように見えます。しかし決してそうではありません。

3、天で行なわれているみこころは必ず地でも出来事となる!

■みこころは必ず出来事になる!

雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、 それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、 食べる者にはパンを与える。 そのように、 わたしの口から出るわたしのことばも、 むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる。 イザヤ55章10−11節

 神のことば、神の意志、神の約束、神のみこころは必ず出来事となるのです! これがへブル語の「ことば」という単語が同時に「出来事」とも訳せる理由です。

 さらに、ヨハネの手紙第一の5章14−15節を見ますと、こんな約束があります。

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。1ヨハネ5:14−15

 みこころにかなう祈りは必ず聞かれる。だからすでにかなえられたと知って祈ることができる。これは、本当に素晴らしい約束ではないでしょうか!

 映画「親分はイエス様」の豊橋上映決定の知らせを聞く中で、覚えさせられていることがあります。それは、「神のみこころは時が来ると必ず出来事になる」ということです!私たちの不信仰をはるかに超えて、必ずみこころを成し遂げて下さる主の力強さを覚えます。このような神のことば、神の国の力強さは、あの種蒔きのたとえにおいても語られています。アスファルトを押しのけて生え出でてくる植物をご覧になったことがあるでしょうか。ちょうどそのように、私たちの心がどんなに不信仰な堅い地であっても、私たちの心がどんなにいばらで覆われていたとしても、そこに神のことばという力を秘めた種が落ち、芽を出すなら、必ず成長し、豊かな実を結ぶのです。

 私たちがすべきこと。それは、信仰を持って祈り続けることです。神のことば、神のご計画、神のみこころは必ず出来事になる。そのことを心に刻んで、信仰を持って祈り続けましょう。

もしあながた信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか(ヨハネ11:40)

■先が見えなくても、ゆだね切れなくても大丈夫!共におられる主が道を備え、導いて下さるから!

 昨日私は、名古屋に行って来ました。青年宣教会議が名古屋の一麦教会であったからです。そこでは、いろんな分野で活躍されているクリスチャンの方々をお招きして音楽、芸術、政治などの分科会が持たれました。私は政治の分科会の司会をさせて頂きましたが、この教会の教会員で国会議員をされている木俣佳丈さんと、東海市で市会議員をされている森田さんという二人の方をお招きして、いろいろな話を伺うことができました。お二人とも、それぞれの所で主にあって奮闘しておられる様子でした。祈って支えていきたいと思っています。

 さて、その森田さんとの対話において、とてもおもしろいことを伺うことができたので、すこしそのことを紹介したいと思います。私は、「クリスチャンになられてから、人生のハンドルをイエス様にお渡しして歩む中で、政治の方に導かれたのですか?」とお聞きしました。すると、「いや、自分は助手席に乗って、イエス様にハンドルを任せていたわけではなかった。」と仰るわけです。そして続けて、このようなことを話して下さいました。「私は洗礼を受けても、やっぱり自分で人生のハンドルをしっかり握って、自分の行きたい方にハンドルを切りつづけてきたんです。でも、車は道なりにしか、進めないわけです。ある時はその道を進みたくても通行止めってことがあるでしょう。そして、道を備えて下さったのは主でした。」と。

 私はこの話を聞いていて、「ああなるほど。私もそうだな。」と思ったわけです。私たちキリスト者は、イエスキリストを主と信じているわけなんですが、やっぱり自分の願いどおりに進みたいと思い、そしてみこころよりも自分の願いがかなえられることを切に願ってしまうのではないでしょうか?けれども、道を備えられるのは主なのです。主はすべてのことの背後に働いておられ、本当の主権者として私たちの歩みもみこころにかなった最善の道に導いてくださっているのです。

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、 わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
イザヤ55章9節

 とあるとおりです。

 先は見えません。恐れや不安があります。けれども大丈夫だと主は語って下さっています。なぜなら、すべてをご存知で、すべてを統べ収めておられる主イエス様が、私たちと共にいてくださり、私たちを最善の道へと導いてくださるからです。

 最後に、この祈りは、「主よ、あなたご自身が再び天から降りて、この地に来て下さい。そしてあなたが、この地を統べ納め、みこころが行なわれる神の国として下さい」という切なる祈りでもあります。

祈り

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野町 真理