ダルムシュタット宣言(1947年)


 ダルムシュタットは戦後まもなく、1947年に発表された。起草者はH・Jイヴァントとバルトである。バルトはシュトゥットガルトに対して、基本的には賛同しつつも、「もっと具体的に、もっと端的に」宣言されればよかったろうにという不満からこの宣言文の草稿を書いた。

 ダルムシュタットの第1項は、「われわれには、キリストにおいて世界が神と和解されたという言葉が語られている」という文章ではじまる。このことからもわかるが、和解がこの罪責告白の前提である。これは、律法が罪を暴露し、福音が罪の赦しを告げるという方向ではなく、罪認識は赦された罪の認識として、恵みの認識の中に含まれていることを示す。この宣言の4年後に開始された「和解論」の構造はこれと対応しており、はじめにイエス・キリストの認識が論じられ、その後に人間の罪の認識が人間の高慢、怠惰、虚偽として論じられている。

 第2項では、罪の具体的告白がなされている。ドイツの罪責は、ヒトラー一人のものではなく、ドイツ・ナショナリズムの成立と帰結にあるとされる。すなわち「政治的権力の無制限の使用」を認め、「国家を神の御座に置いた」という国民の罪である。そうしてこれは、「われわれは自分たちの国を内に対してはただ強い政府の上に、外に対してはただ軍事的な力の展開の上に基礎づけ始めた」と具体化されているが、この文章はバルトの草稿からそのまま採られている。…


第一項−罪責の認識はキリストによる和解に基づいてのみ存在する

 われわれには、イエス・キリストの十字架と復活において、世界が神と和解されたという福音が語られている。 この和解の福音をわれわれはまず聞き、それを本当に味わうことによってそれに生き、また伝えなければならない。もしわれわれが、自らのすべての罪責、つまり父祖たちとわれわれ自身の罪責から解き放たれておらず、われわれがドイツ人として、われわれの政治的意図・行動において過ちに踏み込んでしまったすべての誤った悪しき道から、良い羊飼いであるイエス・キリストによって呼び戻されていないとするならば、この和解の福音は聞かれておらず、受け入れられておらず、行われても伝えられてもいないことになるのである。

第二項−ナショナリズムとドイツ民族優越主義に対して

  われわれは、あたかも世界はドイツ的本質に触れることによって救われるかのように、特別にドイツには使命があるなどという夢を見始めた時、過ちに踏み込んでしまった。 また、われわれは、われわれが聞くべき王の王、主の主としてのイエス・キリストに聞くことをしなかった。そのことによってわれわれは、政治的権力の無制限の使用に対して道を備え、われわれの民族を神の御座の上に置いた。われわれは自分たちの国家を内に対してはただ強い政府の上に、外に対してはただ軍事的な力の展開の上に基礎づけ始めたが、これは致命的に誤っていた。そのことによってわれわれは、われわれドイツ人に与えられている贈物をもって、諸国民の共通の課題に仕えつつ協力するという召しを否定してしまったのである。

第三項−教会と保守勢力との同盟

 われわれは、人間の社会生活の中で必要となってきた新しい秩序に対して、「キリスト教的戦線」なるものを結成し始めた時、過ちに踏み込んでしまった。古い・在来のものを維持する保守勢力と教会の同盟は、われわれに対するきびしい報復となって帰ってきた。われわれは、人間の共同生活がそのような変革を求めているところで、生活の諸様式を変えることをわれわれに許しかつ命ずる、キリスト教的自由を売り渡してしまった。われわれは革命への権利は否定したのに、絶対的独裁制への発展は許容し、歓迎したのである。

第四項−悪しき者たちに対する善き者たちの戦線

 われわれは、政治的な生活の中で、政治的手段によって、悪しき者たちに対する善き者たちの、暗黒に対する光の、義しからざる者たちに対する義しき者たちの戦線なるものを結成しなければならないと考えた時、過ちに踏み込んでしまった。それと共にわれわれは、政治的、社会的、世界観的な統一戦線の結成によって、すべての人に対する神の恵みの自由な提供を変造し、世界をその自己義認にゆだねてしまったのである。

第五項−共産主義が提示している、忘れられた教会の使命

 われわれは、マルクス主義的教説の経済的な唯物主義が、この世における人間の生活と共同生活のために与えられている教会の委託や約束を果たすように、教会に注意を促さなければならなかったのだということを見過ごした時、過ちに踏み込んでしまった。われわれは、来たるべき神の国の福音にふさわしく、貧しい人々や権利を奪われた人々の事柄を、キリスト教会の事柄とすることをなおざりにしたのである。

第六項−キリスト者・教会に与えられている自由

 われわれが以上のことを認めて告白するとき、われわれは自分たちがイエス・キリストの教会として、神の栄光と人間の永遠的また時間的な救いのために、新しく、そしてより良く奉仕するべく自由にされていることを知るのである。キリスト教と西欧文化といったスローガンではなく、イエス・キリストの死と復活の力によって神のもとへ立ち戻り、隣り人のところへ赴くことこそが、われわれの民族、また民族の真只中で、とくにわれわれキリスト者に必要なことである。

第七項−正義と福祉と内なる平和と諸民族の和解に仕える新しいドイツ国

 われわれは、「イエス・キリストによって、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放がわれわれに与えられる」と告白した。そして、今日新しくそれを告白する。それゆえにわれわれは、切に訴える。絶望をあなたの主たらしめるな。なぜなら、キリストが主なのであるから。すべての不信仰な無関心に別れを告げよ。昔はもっと良かったといったたぐいの夢想や、来たるべき戦争の思わくなどに惑わされず、この自由において、また大いなる冷静さをもって、われわれのすべて、われわれの各自がより良きドイツの国の建設のために負っている責任を自覚せよ。新しいドイツ国は、正義と福祉と内なる平和と諸民族の和解に仕えるものなのです。

 参考文献
 ベルトールト・クラッパート 『和解と希望−告白教会の伝統と現在における神学』、新教出版社、1993年
 J.モルトマン 『二十世紀神学の展望』、新教出版社、1989年


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