「現在自分が考えている教会学校とは」

日本同盟基督教団・豊橋ホサナキリスト教会伝道師 野町真理

 私は、書き記された神の言葉である聖書こそが、新しい人間を生み育てる真の教科書だと信じています。主イエス・キリスト、父、聖霊なる三位一体の神様が、実にこの聖書を通して、日毎に新しく、いのちのことばを私たち人間に語りかけておられるからです。そして教会学校とは、老いも若きもこのいのち溢れる教科書に共に耳を傾け、御言葉を心に蓄え、そして御言葉に生かされる学校だと私は考えています。

 私の名前は真理と書いてしんりと読みます。よくクリスチャンホームの子供か、それとも牧師の息子ではないかと間違われます。けれども私の家族はまだクリスチャンホームではなく、牧師の息子でもないのです。

 私が初めて教会(教会学校)に行ったのは、20歳の時でした。つまり私は、幼稚園の時から、小学校、中学校、工業高等専門学校(高専)と、いわゆる学校と名の付く所で様々な勉強をしていたわけですが、一度も聖書を読んだことがなくイエス・キリストの福音を聞く機会がなかったのです。 いわゆる学校で私が学んだのは、「この世の中で価値ある存在として生きていくためには能力がなければならない」ということでした。ですから必死になって自分を磨き、自分の力で自分は価値ある存在であるということを人々に証明しようとして生きていました。もしもそのまま聖書の御言葉を聞くことがなければ、疲れ果てて生きる力を無くし、自殺していたのではないかと思います。

 けれども憐れみ深い主イエス・キリストは、そんな私を十字架の愛によって捕え、神の子どもとして受け入れて下さったのです。神を神ともせず自己中心に生きていた罪人を、キリストと隣人とのために生きる新しい人間としてくださったのです。かつて私は、無力な自分を土台として、砂の上に生きていました。しかし今私は、永遠に揺るがない主イエス・キリストだけを土台として、岩の上に生かされています。

 信仰を持ってすぐに、私はギターのお兄さんとして教会学校の中高生科に参加するようになり、一年後には教会学校の教師となりました。その後、小学生科の担当にもなり、約10年の間、教会学校の教師として奉仕させて頂きました。 現在は、礼拝メッセージや求道者会・洗礼準備会などのために、教会学校専任の教師ではなくなりました。けれども教会付属愛児舎の園長代理として、引き続き子どもたちにも関わらせて頂いています。

 またHBC(浜名湖バイブルキャンプ)中高生キャンプでは、いままでカウンセラーやプログラムリーダーとして奉仕させて頂いていましたが、この夏初めて、キャンプリーダーをさせて頂きました。存在価値や生きる指針を失って危険な迷い方をしている中高生一人一人が、何とかして教会につながり、主にあって存在価値と使命を見い出して欲しいという願いから「さあ見つけようあなたのミッション」というテーマでキャンプを持たせて頂きました。

『こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』(エペソ4:11−13)

 教会学校の目指す目標は、上記の御言葉にあるように、イエス・キリストのように変えられること、キリストにある成人として、キリストの満ち満ちた身たけにまで達することだと私は考えています。ですから教会学校で老いも若きも共に学ぶことは、具体的なイエス・キリストのことばと生き様です。そしてそれは、古来キリスト教会が大切に学び続けている主の祈り・十戒・使徒信条に、シンプルですが最も素晴らしい形でまとめられていると私は考えています。

 主の祈り。これは主キリストご自身が弟子たちに対して、「祈る時にはこう祈りなさい」と教えて下さったキリストの弟子の祈りです。キリストはこの地上に来られた時、よく祈られたことが福音書には記されてあります。そしてキリストは今も、神の右の座において、私たちのために祈って下さっていると聖書は語っています。今も主イエスが、私たちのために祈り続けて下さっている祈りは、主の祈りに基づく祈りではないかと私は考えています。

 今ブームになっているヤベツの祈りもそうですし、詩篇をはじめ聖書に記されているすべての祈りは、主の祈りの中に含まれていると私は考えています。 「天にいます私たちの父よ!」と神を呼ぶことの出来る神の子どもとされた特権。御名の栄光(自分ではなく神がほめたたえられますように)と神の国(みこころがなされる所、神のご支配)をまず第一に求める使徒的祈り。「私たちの日毎の糧を今日もお与え下さい」という祈り。罪の赦しと人を赦す力を求める祈り、「私たちを試みにあわせないで、悪者から救い出して下さい」という祈り。国と力と栄え、すべての栄光を神にお返しする頌栄。アーメンなる神に信頼して閉じる祈り。

  実に主の祈りには、福音の豊かさのすべてが含まれています。主の祈りは、世界を包む祈り、終末の時代に主イエスの再臨を待ち望みつつ福音宣教に急ぐ祈りでもあります。ですから教会学校では、まず何よりも主の祈りを共に味わい、主の祈りを自分たちの祈りとしていくことを学び続ける必要があると私は考えています。

『だから、神の国と神の義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』(マタイ6:33)

 十戒。キリストは、神の民イスラエルを、奴隷の家から解放した後、神の民が自由に生き続けるために、十戒として律法を与え、律法を成就するためにこの世に来て下さいました。絶対的な善悪の基準を、まことの神ご自身を捨て去った現代社会は、倫理的、道徳的、性的にますます混迷を極めています。神を神としない人間は、自らが人間の創造主の立場に立って、「なぜ人を殺してはいけないのか?」「なぜ性を結婚関係以外で用いてはならないのか?」などと高慢にも考え、ますます造り主をあざ笑っています。

 今こそ、罪と欲望と死の恐怖の奴隷から、十字架と復活によって解放された私たちキリスト者は、自由を得させて下さったキリストの命令に聴き従うことによって、世の光、地の塩、祝福の基としての使命に生きなければならないと思わされています。教会学校で主の教え(十戒)を喜びとして昼も夜もそのおしえを口ずさむならば、水路の傍に植わった木のように、豊かな実りある幸いな人生をもたらすことでしょう。

『「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。』(マタイ22:37−39)

 使徒信条。これこそ教会学校で学ぶ信仰の簡潔な内容です。今離婚する夫婦はますます増え、家庭崩壊の中で、たくさんの子どもや親たちが深い傷を負って生きています。そして多くの人たちが、信じれるものを必死で探しながら生きています。そんな中にあってキリスト教会が告白し続けているのがこの使徒信条です。キリスト教会は、力強く「我は信ず」と言える方を知っているのです。

『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。』(マタイ28:19−20)


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2002年 10月3日

野町 真理