Barmen Declaration

バルメン宣言(ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言) 1934年5月


 ドイツがヒットラーによってナショナリズム、アウシュビッツに代表されるホロコースト、世界大戦へと行進していったただ中に、カール・バルトは生きた。ヒットラーは政権掌握(1933年)した後、急速にその正体をむき出しにしていった。その際、過半数のプロテスタントはいわゆる「ドイツ的キリスト者」を名乗ってナチスに追随した。この事態を黙視できなくなった人々が、これに抵抗する「告白教会」を形成した。そしてこの「告白教会」によって信仰告白の形をとったバルメン宣言がなされた(1934年)。このバルメン宣言の起草者の一人がバルトである。これによって自らの戦責をも告白しつつ、ナショナリズムに対して「否(ナイン)!」を叫び、抵抗がなされていったのである。 戦後の「ドイツ福音主義教会」は、その綱領の中で、傘下のすべての教会がこのバルメン宣言を信仰と神学の尺度とすべきことを明記している。バルメン宣言とは、それほど重要な宣言である。カール・バルトはバルメン宣言の起草者の一人である。バルトはその5ヶ月前に出された改革派教会の声明でも指導的な役割を果たした

ドイツ福音主義教会は、その1933年7月11日の憲法前文に従えば、…

第1項

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ14:6
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」ヨハネ10:1,9

 聖書においてわれわれに証しせられているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。

 教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉の他に、またそれと並んで、更に他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは斥ける。

第2項

「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」Tコリント1:30

 イエス・キリストは、われわれの一切の罪の赦しについての神の呼びかけであるのと同様に、またそれと同じ厳粛さをもって、彼はわれわれの全生活に対する神の力ある要求でもある。彼によってわれわれは、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝に充ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放が興えられる。

 われわれがイエス・キリストのものではなく他の主のものであるような、われわれの生の領域があるとか、われわれがイエス・キリストによる義認と聖化を必要としないような領域があるとかいう誤った教えを、われわれは斥ける。

第3項

「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」エペソ4:15、16

 キリスト教会は、イエス・キリストが言葉とサクラメントにおいて、聖霊によって、主として、今日働き給う兄弟たちの共同体である。教会は、その服従によっても、またその信仰によっても、その秩序によっても、またその使信によっても、罪のこの世にあって、恩寵を受けた罪人の教会として、自分がただイエス・キリストの所有であり、ただ彼の慰めと指示によってだけ彼が現れ給うことを期待しつつ生きているということ、生きたいと願っているということを、証ししなければならない。

 教会が、その使信やその秩序の形を、教会自身の好むところに任せてよいとか、その時々に支配的な世界観的確信や政治的確信の変化に任せてよいとかいうような誤った教えを、われわれは斥ける。

第4項

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」マタイ20:25、26

 教会に様々の職位があるということは、或る人々が他の人々の支配する根拠とはならない。それは教会全体に委ねられ命ぜられた奉仕を行うための根拠である。

 教会が、このような奉仕を離れて、支配権を賦与された特別の指導者を持ったり与えられたりすることが出来るとか、そのようなことを為してもよろしいとかいうような誤った教えを、われわれは斥ける。

第5項

「神を恐れ、王を尊びなさい。」Tペテロ2:17

 国家は、教会もその中にあるいまだ救われぬこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量に従って、権力の威嚇と行使を為しつつ、正義と平和のために配慮するという課題を、神の定めによって与えられているということを、聖書はわれわれに語る。教会はこのような神の定めの恩恵を、神に対する感謝と畏敬の中に承認する。教会は、神の国を、また神の誡命と義を想起せしめ、そのことによって統治者の責任を想起せしめる。教会は、神がそれによって一切のものを支え給う御言葉の力に信頼し、服従する。

 国家がその特別な委託を超えて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、従って教会の使命をも果すべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは斥ける。

 教会がその特別な委託を超えて、国家的性格・国家的課題・国家的価値を獲得し、そのことによって自ら国家の一機関と成るべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えをわれわれは斥ける。

第6項

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:20

 「神のことばは、つながれてはいません。」Uテモテ2:9

 その中にこそ教会の自由の基礎があるところの教会に対する委託は、キリストに代って、従ってキリスト御自身の御言葉と御業に説教とサクラメントによって奉仕しつつ、神の自由な恩寵の使信を、すべての人に伝えるということである。

 教会が、人間的な自主性において、主の御言葉と御業を、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に、奉仕せしめることが出来るというような誤った教えを、われわれは斥ける。 …「神の御言葉は永遠に保つなり」


オープンソースによる神学のホームページ