2003年9月27日 加筆修正
動機・目的:
「あなたは私を愛しますか?」(私たちのために十字架で命を捨て、復活された主イエスの言葉)
ただ主イエス・隣人を愛する故に、主のしもべとして、神と隣人、そして地域社会に共に仕える教会。
欠けある土の器であるが、自分ではなく、主イエスをキリストとして共に指し示す使徒的教会。
−グリューネバルトが描いたバプテスマのヨハネの指のように
−自分ではなく、ただ神があがめられるために
−自分の栄光のためではなく、ただ神の栄光のために
22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、
それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
マタイ22:36−40
25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、
わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、
わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、
わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、
わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、
渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、
裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、
おたずねしましたか。』
25:40 すると、王は彼らに答えて言います。
『まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、
しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
マタイ25:35−40
プロセス:御言葉に聞き従い、主の祈りと十戒に導かれて、信仰と希望と愛に生きる。
遣わされて出て行くために主の日ごとに集められる(種蒔きと刈入れ)。
福音宣教する者の日常−礼拝する生活(御言葉、祈り、賛美、交わり、献身)。
御霊に満たされ、御霊の実(愛)を結び、御霊の賜物を用いて仕え合う。
教育的福音宣教(聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ)
超教派的、全器官的な宣教協力。(同じキリストの体として)
主のしもべとして、神と隣人、そして地域社会に共に仕える教会
−緊急災害時には教会堂を地域社会に開放して支援活動の拠点とし、主の愛を証しする−
天の都を目指しての都上りの旅。
ゴール:全世界のすべての国民に福音を宣べ伝え、 聖書をあますところなく教えること。
ユダヤ人と異邦人が、すべての国民が、すべての教団・教派が一つとされること。
与えられた人生、使命を生き抜き、主イエス・キリストのように変えられること。
キリストの身丈にまで成長すること。
主が再びこの地に来られる再臨の時。
この天地が滅びうせた後に来る天の都・新しいエルサレム。
主イエス・キリストを中心とした天の御国。
主は「あなたは何が見たくて、何のために、そしてどんな教会を建てようとしているのか?」と問い続けて下さっている。「主よ。私が見たいのはあなたの栄光です。主よ、どうか私を整え、あなたの道具として用いて、ただあなたを愛する思いから、あなたの教会を建てさせて下さい。」という祈りを私は続けている。
どんな地方・片田舎での開拓伝道であったとしても、逆にどんな大都市の教会であったとしても、時代を超えて、教団・教派を越えて、国境を越えて、書き記された神の言葉である聖書に聴き従って教会形成をしていかなければならない。もし聖書に聴き従わずに自分勝手に教会形成を試みていくなら、必ずキリストの教会とは呼べないものになってしまうから。
御言葉を通して、神はまず私たちの心の内側を深く探り、動機が何であるかを問われる。牧会伝道、教会形成、福音宣教のあらゆる動機は、偽りのない真実な愛でなければならない。
書き記された神のことばである聖書にこそ、まさしくキリスト教会の青写真のオリジナルがある。旧約39巻、新約27巻、計66巻の聖書の中にこそ、私の目指す教会の青写真がある。
聖書の中にこそキリスト教会のルーツが存在する。地上を旅する神の民としてのキリスト教会の姿を旧約聖書の中にも見ることが出来る。神の民はアブラハム、イサク、ヤコブの神、海を分けてイスラエルを奴隷の家・エジプトから解放した主なる神、唯一まことの創造主、全能の主を信じていた。
聖書の中にこそ、「なぜ主が再び来られるまでの間、地上を旅する神の民としての教会が存在しているのか?」という問いに対する答えがある。聖書の中にこそ、教会とは何か?教会の使命、存在目的は何か?教会の土台は何か?教会に与えられ、保たれ、伝えられてきたものは何か?といった問いに対する答えがある。
その後、主はアブラムに仰せられた。
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。
あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
創世記12:1−3
かつて主は、アブラハムにこのようにグローバルなヴィジョンを与えられた。そしてこのヴィジョンの中に、教会の本質がある。それは、他者のための存在として生きるということ。口語訳の聖書では、「祝福の基」という言葉をもってそのことが語られている。
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。
もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。
そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、
人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイ5:13−16
新約聖書の時代、イエス・キリストはこのように語られた。地の塩、そして世の光。これらの言葉も、教会の本質をよく表わしている。祝福の基、地の塩、世の光。実に教会は、他者のための存在。地域と世界の祝福の基としての教会。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
マタイ28:18−20
一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
ローマ12:4−5
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、
からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、
頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、
かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。
こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。
しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、
からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、
もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
1コリント12:18−27
9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、
大祭司のところに行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。
それは、この道の者であれば男でも女でも、
見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、
突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町にはいりなさい。
そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
22:7 私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞きました。
22:8 そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、その方は、
『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。』と言われました。
26:14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、
ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。
『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。
とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』
26:15 私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。
『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
使徒9:1−6、22:7−8、26:14−15
2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。
敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。
このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、
平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。
敵意は十字架によって葬り去られました。
2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、
近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、
父のみもとに近づくことができるのです。
2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、
今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。
エペソ2:14−19
3:9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
3:10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。
そして、ほかの人がその上に家を建てています。
しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、
ほかの物を据えることはできないからです。
その土台とはイエス・キリストです。
3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。
というのは、その日は火とともに現われ、
この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、
自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
3:16 あなたがたは神の神殿であり、
神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
3:17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。
神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。
1コリント3:9−17
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。
そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。
それは、あなたがたを、やみの中から、
ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、
あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、
以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。
1ペテロ2:5、9−10
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、
あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、
教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、
聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。
自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
5:29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。
それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
エペソ5:25−30
15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、
実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。
枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。
同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、
そういう人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。
人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、
何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。
そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、
わたしの父は栄光をお受けになるのです。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。
わたしの愛の中にとどまりなさい。
ヨハネ15:1−9
世界標準の聖書的、福音的、歴史的、超教派的宣教協力に加わる使徒的教会
主の祈り(世界を包む祈り)、十戒、使徒信条
説教
聖礼典−バプテスマ・洗礼、聖餐
戒規:教会のきよさを保つために。本当に愛する思いから。
牧会者のアイデンティティ(祈り、聖書理解、霊的導き)
ソリ・デオ・グロリア(神にのみ栄光あれ)
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野町 真理