NEW! 2001年 4月22日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)

「人生の中でどうしても必要なこと」

The river

聖書個所:ルカ10章38−42節

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、 マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。
「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。
私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。 「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42  しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

主題:人生の中でどうしても必要なことは、 主の足もとに座って聴く祈りである

導入:文脈から汲み取る主の恵みのみことば

 昨年の8月、私は、「いつくしみ深い神の献身」と題して、良きサマリア人のたとえと呼ばれている聖書の箇所からメッセージさせて頂きました。今日は、あの良きサマリア人のたとえのすぐ後に書かれているみことばに、ご一緒に耳を傾けたいと思っています。 今日、メッセージの題を「人生の中でどうしても必要なこと」とつけました。それは、今日の聖書の箇所が、人生の中でどうしても必要なことについて語っているからです。 先程司会者の方に読んで頂きましたが、もう一度ルカ10章38節を見てください。

本論1:マルタとマリヤの振る舞い

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、 マルタという女が喜んで家にお迎えした。…  

 イエス様は弟子を連れて、エルサレムに向かって、つまり十字架の死と復活に向かって旅をされていました。その旅の途中で、イエス様の一行はある村に入られました。登場人物の名前を見ると、この村はベタニヤと呼ばれる村であったと思われます。そのベタニヤ村にイエス様が入られると、マルタという女が、喜んで自分の家にイエス様をお迎えしました。そこから今日の場面は始まります。

 続く39節を見てください。とても簡潔な文章ですが、マルタがイエス様を喜んで家にお迎えした後の、その家の中での情景が、いきいきと描かれています。

10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

 マルタにはマリヤという名前の妹がいました。妹マリヤの姿を思い描きながら、もう一度39節を見てください。「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」 妹のマリヤは、主イエスの足もとにすわって、じっとみことば、つまりイエス様のことばに聞き入っていました。静かに、一心に耳を傾けて、マリヤはイエス様の声に聞き入っていたのです。

 一方、お姉さんであったマルタは、どのようにしていたのでしょうか?そのことは40節に記されています。

10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。 「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。 私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

 静かにイエス様のことばに聞き入る妹マリヤとはまったく対照的に、お姉さんであったマルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、忙しく動き回っていたようです。 マルタは、最初は喜んでイエス様をお迎えし、一生懸命におもてなしをしようとしました。けれども、何もしない妹を横目に見ながら、忙しく動いているうちに、だんだんといらいらとしてきたようです。そしてふつふつと湧き上がってきたその怒りを、マルタはついにイエス様に対してぶつけます。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

 おそらくマルタの心の中には、「なぜあの妹は私を手伝わないのかしら?じっと座っててなんとも思わないのかしら?しなきゃいけないことを私だけがしているわ。イエス様もイエス様だわ。何を考えておられるのかしら?」というつぶやきがブツブツとあったのではないでしょうか。 最初イエス様をお迎えした時に、マルタの心は喜びに満ちていました。しかし、だんだんと彼女の心は不平不満で満ちていったようです。自分は正しいとして妹とイエス様を裁く思いに支配されていました。

 これに対するイエス様の答えは、41節から42節に記されています。

本論2:どうしても必要なことは神のことばを聞く祈り

10:41 主は答えて言われた。 「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。 マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 イエス様はマルタもマリヤも愛しておられました。けれどもマルタは、じっと座ってイエス様の話に耳を傾けていたマリヤを、非難しました。ですからイエス様は明らかにマリヤをかばっています。イエス様は、「マリヤはどうしても必要な良いことの方を選びました。だから彼女からそれを取り上げてはいけません」と仰って、マリヤをかばっているのです。

 忙しく動き回ることと、静かに座って聞き入ること。おもてなしをすることと、じっと相手の話を聞くこと。この二つの振る舞いが、明らかにここで問題になっています。

 このベタニヤ村での出来事の前に、イエス様は良きサマリア人のたとえを話されました。強盗に襲われて倒れていた人の、良き隣人になったサマリア人の話です。そして、そのたとえの締め括りとしてイエス様が言われたことは、「あの良きサマリア人のように、あなたも行って同じようにしなさい。」というものでした。

 そのすぐ後に、今日読んだこのマルタとマリヤの話が記されてあるのです。そしてマルタは、イエス様のおもてなしをするために、言わば良き隣人となろうとして、忙しく動いたのです。ですからマルタは、「あなたも行って同じようにしなさい。」というイエス様の教えを、実践したといっても過言ではないと思います。

 ですから、イエス様は、「旅人のおもてなしをするために忙しく動くことは悪いことだ」などとおっしゃらないように思います。けれども、マルタの訴えに対するイエス様の答えは、「マリヤはあなたよりも正しい」と言っているようにしか聞こえません。 どうしてイエス様は、忙しく動くこととよりも、静かに座って聞き入ることの方がどうしても必要だと言われるのでしょうか?

 この疑問は、マルタとマリヤが家にお迎えした旅人、つまりイエス様自身がどなたであるかを考えるときにだけ解決するように思います。旅人がただの人であれば、おもてなしをするために忙しく動く方が、静かに座って旅人の話に聞き入ることよりも優れている場合が、いくらもあるでしょう。

 けれども、マルタとマリヤが家にお迎えした旅人、つまりイエス様は、ただの人ではありませんでした。この方は天地万物をお造りになった造り主なる神、全宇宙を御手の中で治めておられる王の王、主の主なる神ご自身であられたからです。 つまり主なる神のみ前にあっては、忙しく動き回ることとよりも静かに座って聞き入ることの方が、おもてなしをすることよりもじっと耳を傾けて聴くことのほうが、どうしても必要な、選ぶべき一つの良いことなのです。

 マリヤが主なる神のみ前で選んだ良いこと、神のみ前でどうしても必要な一つのこと。それは、「人となられた主なる神ご自身であるイエス様の足もとにすわって、神のことばに耳を傾ける」ということでした。これは言い換えれば、「神のことばを聞く祈り」だとも言えます。よく祈りとは神と話すことだと言われます。私たちの方から願ったり叫んだりする祈りもありますが、主なる神様からの呼びかけや語りかけに耳を傾けて聴く祈りの方がどうしても必要なことだと言えます。

ガリラヤ湖と私たち人間

 ガリラヤ湖という湖をご存知でしょうか?聖書の中心舞台であるイスラエルには、いつも新鮮な水が満ち溢れているガリラヤ湖という湖があります。ガリラヤ湖は、山の方から流れてくる水の流れをいつも受けているので、溢れた水をヨルダン川に注ぎ出しています。 私たち人間が神のことばを聞くということは、ちょうどガリラヤ湖が、流れてくる川の流れをいつも受け続けているような状態だと思います。神のことばは、人の心を本当に潤し、安らぎを与え、喜びと生きる希望で満たすのです。

  けれども、神のことばを聞かないということは、ガリラヤ湖に例えると、流れてくる川の流れを受けないという状態になることです。しばらくは、たくわえた水を外に注ぎ出すことができるかもしれません。しかし、受けることを止めて流し続ければ、やがて枯れてしまいます。残った水はよどみ、濁り、そして腐っていくでしょう。

 受けることを止めて流し続ける。これがマルタの心の状態だったように思います。最初は喜んでイエス様をもてなしていましたが、イエス様のみことばに耳を傾けなかった故に、すぐにその心は枯れてしまいました。熱心そうに忙しく動き回っている姿とは裏腹に、その心には義務感だけがあり、なぜ私だけがこんなことをしなければならないのか?なぜ妹はのほほんと座って手伝わないのか?という不平と不満といらだちで一杯になって、疲れを覚えていたことでしょう。(青年伝道集会を続けられなくなった時の苦い私の証)

 そんな心の状態でもてなされ、さらに面と向かって、「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」なんて言われたイエス様は、心休めることなど、できなかったことでしょう。

 けれどももし、マルタが、おもてなしのために動いている時でも、時に手を止めて、主がお語りになっていることに耳を傾けたとしたら、たとえ忙しい中にあっても、不平不満で一杯になることはなかったことでしょう。そして、主イエスを喜ぶ思い、主を愛する思いからイエス様に喜んで頂けるおもてなしを、きっとすることができたでしょう。

結論:

 人生の中でどうしても必要なこと。それは主なる神の私たちに対する呼びかけ、語りかけに耳を傾けることです。今日ここに、疲れを覚えておられる方や、不平や不満、いらだち、また渇きを覚えておられる方がおられるでしょうか。 あなたのすべてをご存知であられる主イエス様は、あなたにも、こう語っておられます。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ 11:28

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、 その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7:37-38

「…あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。…」

祈り

あわれみ深い主なる神様。
私たちはあなたに聞くことを止めてしまえば、すぐに与えるものがなくなる貧しい者でしかありません。
しかし主よ。あなたは私たちの弱さをご存知で、
御声に耳を傾けることが、どうしても必要であることを覚えさせて下さったことを感謝します。
どうかあのガリラヤ湖のように、いつもあなたからのいのちのことばを受け続けることによって、
それぞれの遣わされる場所において、周りを潤す祝福の基として生かしてください。
その時に良き隣人となることができることを信じて感謝します。
感謝して、愛するイエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。


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