2001年 3月25日 主日礼拝式メッセージ(第一礼拝式にて)
(野町 真理)
16:21 その時から、イエス・キリストは、 ご自分がエルサレムに行って、 長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、
殺され、 そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。 「主よ。神の御恵みがありますように。
そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。 あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、 自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25いのちを救おうと思う者はそれを失い、 わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、 まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。
そのいのちを買い戻すのには、 人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
今、私たちキリスト教会は、受難節と呼ばれる時を迎えています。一年の中でも特に、イエス様が、私たちのために苦しみを受けられたことを、深く覚える時です。 そのような時に、聖書を通してご一緒に主のみことばを聞き、わたしたちのために十字架へと進んで行かれたイエス様を仰ぐことができることを、本当に感謝しています。
早速ですが、先ほど読んで頂いたマタイの福音書16章21節を見てください。
16:21 その時から、イエス・キリストは、 ご自分がエルサレムに行って、 長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、 殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
「その時から」、と書かれてあります。16章の13節から20節までを見ますと、それがどういう時であったのかを知ることができます。ガリラヤ湖から北に50キロメートルほど行った所に、ピリポ・カイザリヤという地方があります。そこでイエス様は、こんなことを弟子たちに尋ねられました。「あなたがたはわたしを誰だと言いますか?」と。
その時、シモン・ペテロという弟子が、「あなたは生ける神の御子キリストです」と答えました。これは「イエス様、あなたはただの人間ではなく、神様であられ、キリスト、つまり救い主です。」という信仰の告白でした。
それを聞いたイエス様は、「シモンあなたは幸いです。そのことを明らかにしたのは人間ではなくて、天にいますわたしの父です。わたしはこの岩の上に、その信仰告白の上に、わたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」とおっしゃいました。
おそらくイエス様はペテロの答えを、とても喜ばれたのだと思います。 その時からです。その時からイエス様は、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められたのです。
みなさんだったら、そんなことをある日突然イエス様から聞かされたら、どう思われるでしょうか?おそらく心の中に不安や動揺を覚えられるのではないでしょうか。
弟子たちの反応はどうだったのでしょうか?続く22節、23節を見てください。
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。 「主よ。神の御恵みがありますように(*とんでもないことです)。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
ペテロはこの話を聞いた時、「イエス様。ちょっとちょっと。こっちに来てください。」と言ってイエス様を引き寄せ、こんなふうに言ったんでしょう。「主よ。とんでもないことです!あなたは神の御子キリストなんですから、絶対にそんなことが、あなたに起こることがありませんように!神様の恵みがあなたの上にありますように!」
そうしたらイエス様はくるっと振り向いて、ペテロに言われました。「下がれサタン!あなたはわたしの邪魔をするものだ!あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている!」 この前イエス様にほめられたペテロ。でも今度は、イエス様に「下がれサタン(悪魔)!」と、きつくしかられてしまいました。
聖書はサタン(悪魔)というものが、この世界に実際に存在することをはっきりと教えています。悪魔は目に見えませんが今も存在し、この世の只中で、人間を自殺や死に追いやろうとしています。悪魔は人を生かすのではなく、殺そうとする存在であること、私たち人間を誘惑し、罪を犯させ、あらゆる不幸と悲惨、そして永遠の滅びへと導く存在であることを聖書は教えています。 サタンは、いつでもイエス様の救いの業を、邪魔する存在です。イエス様がこの地上を歩まれた時、サタンが一番邪魔をしたのは、イエス様が私たちの罪の身代わりとして十字架の上で、死なないようにということでした。 ですからペテロがイエス様に対して十字架の道にいかないように説得した時、イエス様はペテロに、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」とおっしゃったのです。
ここで改めて考えたいことがあります。イエス様は、何も悪いことをされなかったお方です。それなのに、どうして罪のないイエス様が、十字架にかかって死ななければならなかったのでしょうか?そのことを考えることが、神のことを思うということにつながっていくように私は思います。
この時ペテロも、なぜ生ける神の御子であり、救い主であるイエス様が、苦しめられて死ななければならないのか、神のことがぜんぜん理解できなかったのです。けれども、このとき理解できなかったペテロも、この後イエス様の上に起こった出来事を実際に見ていく中で、罪のないイエス様が十字架で死ななければならなかった理由を理解していきました。
この後エルサレムに行かれると、イエス様は何の抵抗もなく捕らえられてしまいます。その時、弟子たちはペテロも含めて全員イエス様を見捨てて逃げてしまいます。たらい回しのようにされて、最後には十字架の上で死なれたイエス様の姿を、遠くから見つめていたペテロは、3日目によみがえられたイエス様に出会った後で、罪のないイエス様がなぜ十字架で死ななければならなかったのかを理解していきました。 ペテロは、「イエス様が、苦しまれ、死なれたのはこんなわたしのためだった」ということ、その惜しみなく自分を捧げてくださった十字架の愛を深く知ることになるのです。
私たち人間は心の中に罪を持っているので、そのままでは絶対に天国に入ることができません。もしイエス様が、私の、そしてあなたの身代わりとして十字架で死んでくださらなければ、決して私たちは、天国に入ることが出来なかったのです。 けれども、罪のないイエス様が、私たちの罪をすべて背負って、身代わりに十字架で死んでくださったので、どんな罪人でもイエス様をただ信じるだけで、天国に入ることが出来るようになりました。イエス様はご自分のいのちと引き換えに、わたしたちに、永遠のいのちを与えてくださったのです。
十字架の愛。それは私たちがまだ罪人であった時、その私たちのためにいのちを捨てて下さった愛です。それは人間の責任転嫁を自ら引き受けるということでした。私たち罪人の罪をご自分の罪として背負い、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、3日目に死人のうちよりよみがえられること。それが主なる神の御心の内にあった思いでした。
24節から26節を見てください。わたしたちのためにいのちをかけてくださったイエス様は、全世界を手に入れることよりも素晴らしい、まことのいのちへの招きのことばを私たちにも語って下さっています。
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、 自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、 わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、 まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。 そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
ここでイエス様が語られた「自分を捨てて、自分の十字架を負う」ということはどういうことでしょうか。 先ほどイエス様は、ペテロに対して「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われました。「あなたは人のことを思っている」というイエス様の言葉の中に、捨てなければならないものがあるように思います。
捨てなければならない自分、人のこととは、こういうことではないかと私は思います。
それは、自分が一番上に立ちたい、一番えらくなりたいという思いではないでしょうか?あるいは、神様よりも自分がほめられ、自分が賞賛や栄光を受けたいという思いではないでしょうか?
それは、決して人に弱さを見せたくない自分。自分の罪を認めたくない故に他人に責任転嫁をしてしまう自分。負けず嫌いの自分でもあるでしょう。自分のしたいように生き、究極的には自分を中心に世界を動かしたいという思いであるかもしれません。
私たち人間は、自分のしたいように生きたいと思ってしまいやすい者です。神様の願われていることよりも自分の願うことが、かなえられるようにと祈ってしまいやすい者です。神様がほめたたえられるよりも、自分がほめたたえられることを願ってしまいます。神様のためにいのちをかけるよりも、自分のいのちを救いたいと思ってしまいます。 こう考えてくると、「自分を捨てる」、あるいは「自分の十字架を負う」ということは、実は私たちが、一番したくないことだと思わされます。
ですから、まず自分を捨てて下さり、わたしたちのために命さえも惜しまずに捨てて下さった十字架のキリストに捕らえられない限り、自分の力では決してこの招きに答えることは出来ないでしょう。 けれども、まず私たちのために自分を十字架の上で捨てて下さったイエス様は、私たちを、全世界を手に入れることよりも素晴らしい、まことのいのちへと召して下さっています。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」。
主が私たちをまことのいのちに召してくださる理由は、わたしたちを全世界よりも高価な存在として愛してくださっているからです。 私たちは、全世界を手に入れることよりも素晴らしい、まことのいのちへと招かれています。あなたも、主のためにいのちを失うことによって、まことのいのちを見出す者となって頂きたいと切に願わされています。
かつてアフリカに宣教師として遣わされたリビングストンさんの話をしたいと思います。献金の時、お盆がまわって来ました。その時彼は、自分自身をお盆にのせたのです。つまり自分がお盆の上に乗って、彼はこう祈りました。「神様。私自身をあなたにおささげします。私のこれからの将来をすべて、あなたにおささげします。」
私も、10年ほど前から、この祈りによって、自分自身を、すべての生涯を主なる神の前にお捧げしています。私は、日々新たに自分自身を主にお捧げしていく礼拝の歩みを、主のあわれみによってさせていただいています。 それは、私のような小さなもののために、十字架の上でぼろぞうきんのようになって死んで下さり、よみがえって下さった主イエス・キリストの、大きな愛に捕えられてのことです。
「誰のために主イエス様は苦しまれ、十字架で死なれたのか?」今朝も主イエスご自身が、私たちに御声をかけていてくださいます。「それはあなたのためだった!」と。
皆さんの中に、自分のためではなくて神様のために生きる方はおられないでしょうか?自分の願いではなくて、神様の願いがかなうことを求めて生きる方ははおられないでしょうか?自分を信じて自分に素直に生きる人生ではなくて、自分に絶望して神様だけを信じて生きる方はおられないでしょうか?自分がほめられることではなくて、主なる神様がほめたたえられるために生きる方はおられないでしょうか?つまり献金袋がまわってくる時に、袋の中に入るような気持ちで、あなた自身を、神様のためにお捧げする方はおられないでしょうか?
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
主よ。
私のような者のために、自分を捨てて苦しんで下さり、いのちまでも惜しまずに十字架で捨てて下さったこと、心から感謝します。 また、3日目によみがえられたあなたが、今日も私のような小さな者を、まことのいのちに召していてくださいますから、ありがとうございます。今日、もう一度、私自身をあなたにお捧げいたします。あなたの栄光のために、私を使って下さい。感謝して、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
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