NEW! 2003年 3月 2日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)
20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
上の天にあるものでも、 下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、
どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、
わたしを憎む者には、 父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。
「「あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、
また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。「「
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、
七日目に休まれたからである。
それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
20:12 あなたの父と母を敬え。
あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
もう既に天国に行かれましたが、クリスチャン作家であった三浦綾子さんの書かれた本の中に、次のような実話が記されています。三浦さんの友人の中に、かつてプレイボーイとして有名であった男性がいました。その男性は、かわいい女性やきれいな女性を見かけたら、すぐに声をかけ、次から次へと、いろんな女性と関係を持ってきたような方でした。
駅前で路傍伝道などをしていますと、そのような男性が、通りすがりの女性に声をかけている姿をよく見かけます。そんな男性がある時、三浦さんにこんな質問をしたのだそうです。「こんな僕でもたった一人だけ手を出さなかった女性がいるのですよ。どうしてか分かりますか?」と。三浦さんは、「いいえ、分かりません。」と答えたそうです。するとその男性は、自分でその理由を、こんなふうに告白したそうです。「それは、僕がその女性を本当に愛していたからですよ。」と。
これは、とても考えさせられる言葉ではないでしょうか?現代はフリーセックスの時代だと言われます。そして、「結婚してなくても、愛していればセックスをしてもいい。愛し合っていれば肉体関係を持つのが当然。セックスをしないのは愛していない証拠だ。」などと本気で思っている方がほとんどではないかと思わされます。
けれども、そのようなフリーセックスに生きてきた男性が、三浦綾子さんに語った、「一人の女性を本当に愛していたので、僕はその女性だけには手を出さなかった」という告白には、本当に大切なことが本音として語られているのではないでしょうか?それは、「本当に相手を愛しているなら、相手を大切にする思いから、簡単に肉体関係を求めたりはしない」ということです。まだ結婚なさっておられない若い方々、将来本当に幸せな結婚をするために、ぜひこのことを覚えていてください。
マタイ福音書の山上の説教より。イエス様による、十戒の「姦淫してはならない」という意味の解き明かし。
5:27 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。
からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。
からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
マタイ5:27−30
「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」これは主イエス様の有名な言葉です。
ここで情欲という言葉が使われていますが、これは、異性の肉体に対する欲望、つまり性欲のことです。聖書は、性欲そのものは神様から与えられた良いものであって、決して汚れたもの、悪いものではないと語っています。
「性が汚れているのはなく、性を汚れたものと考える頭脳が汚れているのだ」 F.B.マイヤー
性自体は罪でなく神からの祝福に満ちた聖なる賜物。性を間違って用いることが罪であり汚れであり悪。同じように肉体そのものも決して悪ではありません。「えーっ!そんなこと聖書のどこに書いています?」とおっしゃる方のために、性についての聖書の御言葉に改めて耳を傾けたいと思います。
旧約聖書の一番初め、創世記の1章26節から31節を開いて見てください。
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。
そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。
「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、
種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、
食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。
1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。
見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。
創世記1:26−31
ここには、「生めよ。ふえよ。」という、いわば性・セックスを祝福される神様の命令があります。また、神様がお造りになったすべてのものは、「見よ。それは非常によかった。」とあります。ですから、性欲も肉体も神様が与えて下さった良いものであり、情欲そのものは決して汚れた思いではなく、罪でもないのです。
ですから、異性を見て情欲を覚えるということは罪ではありません。むしろそれは、正常なこと、健全であることの証拠です。ハワイで長年牧師として働いておられた先生が、ある時ハワイのビーチ沿いを車でドライブしておられると、大胆な水着姿の若い女性たちが横断歩道を渡っていかれたそうです。その時のことを思い出しながら、その牧師先生は、笑いながらこのように語られたそうです。「皆さん。これで何も感じなければ、私は男ではありません。何も感じなかったとしたら、それは聖められているのではなくて、枯れているのです!」と。
しかしです。先ほどお読みしましたマタイ福音書の山上の説教の中でイエス様が語られたことは、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」というものでした。異性を見て情欲を覚えるということは罪ではない。けれども、情欲を持って異性を見ることは姦淫の罪である。そうイエス様は仰っておられるのです。
なぜなら、情欲をいだいて女性を見るということは、自分の欲望を満たすための道具として女性を見るということだからです。自分の欲望を満たすための道具・モノとして人間を見るということは、相手の人格やいのちを軽んじる、恐ろしい罪なのです。お金さえ儲けることができれば、何をやってもいいと考える人たちは、性も商品化してしまって人間の人格やいのちを踏みにじるという恐ろしい罪を犯しています。
そのような姦淫の罪は、その人や相手、また家族を不幸に落とし入れ、からだ全体をゲヘナ、つまり地獄、永遠の滅びに至らせる恐ろしい罪であると、主イエス様は警告しておられます。
姦淫とは、結婚関係以外で性を用い、肉体関係を持つことです。そして、フリーセックスというのは、援助交際はもちろん、婚前交渉、売春、不倫、浮気など、性を結婚関係以外で用いることですから、まさに姦淫の罪を犯すことなのです。
教会に行ってクリスチャンになると、結婚関係以外で性を用いることが出来なくなる、フリーでなくなる、自由でなくなるので、クリスチャンになるのはいやだと仰る方が若い方に時々いるようです。
非常に正直な考えかもしれません。しかし、よくよく考えるならば、フリーセックスのフリーというのは、実は名前だけです。その実態は、欲望に支配された欲望の奴隷、罪の奴隷です。相手を自分の欲望を満たすための道具としてしか見れないほどに欲望の奴隷となっている人が行っているのがフリーセックスなのです。
どんなに愛し合っていても、結婚関係以外で性を用いるフリーセックスには本当の自由がありません。フリーセックスというのは男性にとっては大変都合のいい関係です。なぜなら相手が嫌になったら、いつでも自由に切ることの出来る関係だからです。また、女性にとっては、いつ捨てられるかわからない関係で、つかの間の喜びがあったとしても、絶えず不安がつきまとう関係です。相手を自分勝手に束縛し、相手を自分のために利用しようとする。惜しみなく相手から奪い取る。そして都合が悪くなれば、簡単に関係を切ってしまう自分勝手で無責任な関係。それがフリーセックスというものの実態です。そこには本当の愛などないのです。
昔は、「こうのとりが赤ちゃんを運んでくる」というようなことが言われていたようですが、私を産み育ててくれた母は、結婚する前、「キスをしたら赤ちゃんができる」と思っていたようです。最近では小学校で性教育がなされていますので、小学生でも5・6年生になると、どうやったら赤ちゃんが与えられるのかということを知らない人はほとんどいない時代になっています。
けれども、小学校や中学校などで行われている性教育は、性をいのちとか人格から切り離し、解剖学的あるいは機能的なものとしてだけ教えることが多いようです。そして、妊娠しないための方法、避妊のための薬や道具の使い方などを教えることによって、結婚関係以外で、あるいは結婚前に性を用いるフリーセックスを容認しているようです。
私は、一人でも多くの方にイエス・キリストの福音をお伝えしたいとの思いから、個人的にもインターネットのホームページを開設しています。時々、求道者の方や、キリスト教に興味がある方から電子メールを頂いたりして、祈りつつお返事を書いたりしています。けれどもインターネットのホームページの7割ほどが、ポルノサイトや出会い系のサイトだと聞いています。
今の時代、そのようなことはインターネットに限りません。携帯電話や電子メールアドレスを持っていると、それだけでいやらしいメールが何通も送られて来たりします。本屋さんやコンビニエンスストアに行けば、小学生や中学生でも、淫らな漫画や雑誌、あるいはビデオなどを簡単に手に入れることが出来ます。視聴率を最も大切にして作られるテレビやラジオの番組なども、やはり性的な誘惑に満ちたものが多いです。 今の日本には、淫らなものを見ないで生きる自由というものは、ほとんどないのです。
ですから、高校生の半数以上は性的な体験を持っているという驚くべき報告もされています。また、将来があるはずの若い人たちの間に性的な病気が流行っていて、そのような病気になった人がたくさん病院を訪れているそうです。そして、妊娠中絶をなさる方も非常に多いのです。
誘惑に満ちた現代社会においては、親がいくら子どもに注意したとしても、誘惑に負けて、親の目の届かない所で姦淫の罪を犯してしまうのではないでしょうか。寝ている子を起こすなという考えは、もう通用しない時代に私たちは生かされています。なぜなら子どもたちは、もうすでに叩き起こされ、誘惑され続けているからです。
ホセアという預言者に主が命じられたこと。
1:2 主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。
「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」
3:1 主は私に仰せられた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。
ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」
なぜ主は、ホセアにこのような命令をなさったのか?それは少しでも主なる神様が私たちに対して味わっておられる怒りと苦悩を理解させようとしてのこと。私たちは、まことの神に愛され、奴隷の家から解放されていながら、どれほどまことの神以外のものを慕い求め、まことの神以外のものを頼っているのか?十戒の前半に語られていたことに聴き従わないことは、偶像礼拝の罪であると同時に、霊的な姦淫の罪である!
8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。
民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。
しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕
罪のないイエス様だけは、この女を罪に定めることが出来た。しかし罪のない主イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」という声を、女にかけられた。主イエス様は、罪ある私たちに対して、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」という声をかけて下さるために、肉体をもってこの地上に降りて来て下さり、姦淫の罪を犯している私たちの身代わりに、十字架で死なれ、葬られ、よみ(ゲヘナ)に下り、三日目の朝によみがえられた本当の救い主(メシア・キリスト)である。
ローマ8章26、34節
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。
私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、
私たちのためにとりなしてくださいます。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、
神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
天に上り、神の右の座に着かれたイエス様は、今も私たちのために祈って下さっている。聖霊なる神様も、とりなしの祈りをして下さっている。三位一体の神が全力を尽くして、私たちを愛し、今この瞬間も、私たちのために祈っていて下さる。
子どもたちや青年たちに対して、いったい私たちには、何が出来るのでしょうか?
まず中高生や青年のために祈るということが、私たちに出来るとても大きなことではないでしょうか。私たちは日々、「主の祈り」の中で、「私たちを試みに合わせず、悪より救い出したまえ」という祈りを祈ることが出来ます。子どもたち、中高生や青年たちが誘惑から守られ、神様から祝福された結婚をすることができるように、真剣に祈りたいと思います。 また私たち人間は、自分の力や理性では絶対に、罪の誘惑、特に性的な誘惑に打ち勝つことが出来ません。そのことを考えると、祈ることと共に、子どもから大人まで、主イエス様を伝えるしかないと思わされています。
まず夫婦が愛し合う姿を見せる。互いに愛し合う。仲良く生活する。共に生きる。そのような中で、性を正しく教えていくことができるはず。そして性を結婚関係の中でだけ用いていくことが、どんなに祝福と喜びに満ち溢れているかということを、子どもたちはしっかりと学んでいくことができるはず。
エペソ5章
5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、
私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
5:3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
5:4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。
5:5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者「「これが偶像礼拝者です。「「
こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
5:6 むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。
5:7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。
5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
5:9 「「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。「「
5:10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
5:11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
5:12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
5:14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。
「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
私たちは以前は暗やみでした。まわりをさらに暗くすることしかできない暗やみでしかありませんでした。しかし主は、そんな私たちを愛してくださったのです。そしてその主の愛は、私たちを光として下さいました。「あなたがたは、世界の光です。」とおっしゃって、私たちを世の光にして下さいました。そして今、「光の子どもらしく歩みなさい。」と命じて下さっているのです。それは、いのちと人格を大切にする自由に生きる幸いな道です。
恵みとあわれみに満ちた、私たちの天の父なる神様!
私たちは、相手を自分の欲望を満たす道具としてしか見れないような、罪と欲望の奴隷として歩んでいました。
しかし主は、私たちがまだ罪人であった時に、私たちのために十字架に架かって下さり、よみに下られました。
そして三日目の朝、イースターの朝によみがえられたあなたは、
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と語ってくださいました。
ありがとうございます。
どうか父よ!わたしたちを試みに合わせないで、悪からお救い下さい!
光の子どもらしく歩むことが出来るように助けて下さい!
この罪と姦淫の時代にあって、へびのようにさとく、鳩のように素直に生きることが出来るように助けて下さい!
私たちの主イエス・キリストの御名によって、祈ります。
アーメン。
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野町 真理