NEW! 2003年 1月19日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)
20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
上の天にあるものでも、 下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、
どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、
わたしを憎む者には、 父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。
「「あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、
また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。「「
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、
七日目に休まれたからである。
それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
20:12 あなたの父と母を敬え。
あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
20:13 殺してはならない。
「キリストの弟子の自由」というテーマで、十戒の一つ一つの神の言葉、御言葉を味わっています。十戒の前半では、まず神様と私たちとの関係が語られています。それらは、神様を愛する自由に生きるための神の言葉です。そして十戒の後半では、人と人との関係が語られています。それらは、人を愛する自由に生きるための神の言葉です。今日は、「あなたの父と母を敬え」という御言葉に続いて、「殺してはならない。」という神の言葉に耳を傾け、思いを巡らせたいと思っています。
前回耳を傾けました「あなたの父と母を敬え」という御言葉には、どうして父と母をうやまわなければならないのかという理由、あるいはそれに伴う約束が、はっきりと語られていました。それは、「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」というものでした。ところが今日注目している「殺してはならない。」という御言葉には、理由が一切語られていません。なぜ神様が殺人を禁じておられるのか、その理由がまったく語られていないのです。
けれども、いのちがますます軽んじられているこの時代にあって、「なぜ人を殺してはならないのか?」という問いが、私たち一人一人に突きつけられていますから、ここで改めて、主なる神様が人間に殺人を禁じておられる理由を考えてみたいと思います。
皆さんの祈りとサポートによって、毎年浜名湖バイブルキャンプ場(略してHBC)では、小学生キャンプや中高生キャンプ、成人キャンプなどが行われています。私は大学生の時からずっと、中高生キャンプに関わらせて頂いていますが、中高生キャンプは毎年2回、春と夏に行われています。
(この春も、3月25日から28日にかけて、中高生スプリングキャンプが浜名湖バイブルキャンプ場で持たれます。講師は新年聖会でも講師をして下さった玉井邦美先生です。春のキャンプは今度中学生になる方から高校を卒業される方まで、キャンパーとして参加されます。そして昨年夏に引き続いて、私がキャンプリーダーをさせて頂くことになっています。ぜひ祈りに覚えて下さい。また、キッチンワーカー、プログラムアシスタント、カウンセラーなどの奉仕をして下さる方も大募集中です。
今年浜名湖バイブルキャンプ場は、キャンプ宣教を始めてから50周年、そして今の場所にチャペルが献堂されてからは30周年を迎えたそうです。吉持先生や森川先生が中心になって立ち上げて下さり、東海ブロック(地域)の諸教会の祈りと献金によって支えられ、今日までキャンプ場が豊かに用いられてきたことを覚えて、主を心からほめたたえます。今年の夏、成人キャンプの時には、キャンプ宣教50周年、そしてチャペル献堂30周年を記念して、記念聖会のようなものを計画中ですので、これもぜひ覚えてお祈り下さい。)
昨年の夏のHBC中高生キャンプの時でした。講師の三木健先生がメッセージの中で、「なぜ人を殺してはならないのか?」という問いに触れて下さいました。そして、陶器師と陶器(焼き物を作る人と焼き物)の例えによって、次のようにわかりやすく語って下さいました。
ここに立派な陶器があるとしましょう。もしあなたが、その陶器を造った陶器師・陶芸家、つまりその陶器の造り主であれば、自分の造った作品が気に入らなければ、それを壊す権利を持っています。けれどももしこの陶器が、あなたではなくて他の人が造った陶器ならば、気に入らないからといって、他の人の造った作品を勝手に壊す権利を、あなたは持っていないのです。
私たち人間はすべて、造り主なる神の作品であって、決して偶然に存在しているわけでもないし、いのちは人間が造り出したものではない。そして神様は、決して失敗をなさらない造り主。一人一人をその人にしか出来ない目的をもって造られたお方。その目的が達成された時に、いのちを取られるお方。そう聖書は語っています。もしあなたが、他の人の造り主であるなら、その人を殺す権利があるでしょう。しかし私たちは造り主ではなく、すべての人は造り主なる神の作品なので、あなたには神の作品である人間を勝手に殺す権利、勝手にいのちを奪う権利は与えられていないのです。
人を殺すということは、神の作品を壊すということです。人を殺すということは、神の作品である相手の存在価値、あるいは自分自身の存在価値を認めないということです。そして人を殺すということは、傲慢にも自分が相手の造り主の立場に立つことなのです。ですから「なぜ人を殺してはならないのか?」というような問いは、そのような傲慢な思いから出てくる愚かな問いではないでしょうか?
「殺してはならない。」十戒の中で、このようにはっきりと、人殺しを禁じる命令が語られているということは、それだけ私たち人間が、お互いに神の立場に立って、人を殺してしまいやすい者だからではないでしょうか?
けれども、ある方はこう仰られるでしょう。「私は人を殺すなんて恐ろしいことをしたことはありません。だから私は、この戒めを守ってる正しい人間です。」と。人間の目から見るならば、あなたは仰るとおりの正しい人間かもしれません。けれども、うわべだけではなく、心の中もご覧になっておられる主なる神様、隠れたこともすべてお見通しの主なる神様の目から見るならばどうでしょうか?
まず、マタイの福音書、山上の説教の中に記されている、「殺してはならない」に関するイエス様のことばに耳を傾けたいと思います。
5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、
あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。
兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。
また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
5:23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
5:24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。
それから、来て、その供え物をささげなさい。
5:25 あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。
そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、
あなたはついに牢に入れられることになります。
5:26 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。
イエス様は、「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」と語られているのです。それは、兄弟に向かって腹を立てたり、兄弟に向かってそのような言葉を言うということは、神の作品に対しての態度や言葉だからです。ヨハネの手紙第一という所には、もっとストレートに、次のような御言葉が語られています。
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。
いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
1ヨハネ3:15
主なる神様は、心において、言葉において、そして態度や行動において「殺してはならない」と命じておられるのです。しかし私たちは、心において、言葉において、そして態度や行動において、人を殺してしまう恐ろしい者ではないでしょうか?言葉の暴力は恐ろしいと思います。実に舌先三寸でナイフよりもするどく相手の心を刺し通し、人を殺すことが出来るのです。言葉に出さなくても、心の中で誰かを憎んだり、また、「この人さえいなければ」などど思ってしまうなら、それはひそかな殺人なのです。私たちはそのように、日々ひそかな人殺しをしている人殺しではないでしょうか?
次に、どんな人であっても、神から離れて神なしで生きる時、様々な殺意に囚われるということを、聖書や文学を通して覚えたいと思います。どんな時に、私たちは人を殺したいという殺意を持つのでしょうか?殺人の動機をいくつか考えてみましょう。
まず殺人の動機として、ねたみ、嫉妬ということが挙げられます。創世記4章を開いて見て下さい。有名なカインの弟殺しの出来事が記されてある所です。人類最初の殺人事件といってもいい場面です。
4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。
4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。
主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
4:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、
罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」
そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
創世記4:1−8
次に、同じくねたみから殺意に囚われた、サウル王のことを見てみましょう。サムエル記第一の18章5節から11節を見て下さい。
18:5 ダビデは、どこでもサウルが遣わす所に出て行って、勝利を収めたので、サウルは彼を戦士たちの長とした。
このことは、すべての民にも、サウルの家来たちにも喜ばれた。
18:6 ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、
タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。
18:7 女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」
18:8 サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。
「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」
18:9 その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。
18:10 その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。
ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。
18:11 サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。
しかしダビデは二度も身をかわした。
1サムエル18:5−11
「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」 この言葉を聞くと、人殺しの父である悪魔・サタンが、巧みな言葉をもって私たちの間にねたみを引き起こし、そして私たちを殺意の虜にしてしまう。そんな事実を深く覚えさせられます。
サウル王に何度も殺されそうになったダビデは、後に全イスラエルの王様になります。そして神に油注がれた王として、大変素晴らしい働きをします。けれども、このダビデ王も、神から離れた時に、人殺しをしてしまったことを、聖書は隠すことなく記録しています。ダビデ王にはウリヤという名前の大変忠実で優秀な部下がいたのですが、そのウリヤの妻と、ダビデ王は姦淫の罪を犯してしまいます。そして姦淫の罪をもみ消すためにいろいろと策を巡らせますがうまくいかず、厄介者・邪魔者だからという自分勝手な理由で、ついにウリヤを戦いの最前線に出させて殺してしまうのです。たとえ神に注がれた指導者であっても、神から離れるならば、そのような殺意の虜になってしまうのです。
最近では、むかついたから、人を殺してみたかったからといった動機で人殺しをする若者も現れていますが、これらもまったく自己中心で自分勝手な動機だと言えます。
皆さんは本を読まれたりするでしょうか?私は時間のある時、本を読んだりしますが、有名なロシアの文豪ドストエフスキーの本の中には、人殺しの動機というテーマでとても深く考えさせられる作品がいくつかあります。有名な「罪と罰」という作品では、主人公のラスコーリニコフという人物がこのようなことを考えます。「もし自分がナポレオンのような偉大な人物なら、人殺しをしても咎められない。罪を問われない。罰を受けないはずだ。」と。そして、自分がナポレオン級の偉大な人物であるかどうかを確かめるために人殺しをするという物語になっています。考えてみると、これも非常に自己中心で自分勝手な動機でしかないでしょう。
ドストエフスキーは悪霊という恐ろしい本も書いていますが、この悪霊という本に描かれている主人公は、徹底した無神論、神はいないという立場に立って人殺しをします。
「神はいない!だから何をしても許されるはず。」これが、悪霊の主人公スタブローギンの徹底した考えなのです。そしてこの無神論に立って生きていくと、人間はどこまでやれるのかを試すために人殺しをする。そんな人物が描かれています。ただ自分の倦怠(だるさ)をまぎらわす遊びとして少女をもてあそび、少女が自殺するのを見ていて止めない。そんな恐ろしい人物が描かれています。神から遠く離れ、神なしで生きる者。あくまでも自分を自分の主として自己中心に生き続ける者の辿り着く獣以下の姿と自己破壊がこの本には描かれています。
復讐心、報復せずにはおれない憎しみという感情も、やはり殺人の大きな動機の一つでしょう。
さて、レメクはその妻たちに言った。
「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。
私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。
カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」創世記4:23−24
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。
それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」ローマ 12:19
また、保険金殺人や強盗殺人などが毎日のように起こっていますが、これらの殺人の動機は、自らの欲望であると言えます。
あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。
うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。…
ヤコブ 4:2
と聖書にある通りです。
このように、どんな人であっても神から離れて神なしで生きるなら、様々な殺意に囚われる。その事実を聖書は赤裸々に語っています。
さて、人殺しというテーマを考えながら、こんどは新約聖書の御言葉に耳を傾けてみましょう。
ルカ23:13−25
23:13 ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、
23:14 こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、
私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。
23:15 ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。
見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。
23:16 だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
23:17 [本節欠如]
23:18 しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。「この人を除け。バラバを釈放しろ。」
23:19 バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢にはいっていた者である。
23:20 ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。
23:21 しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ。」と言った。
23:22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。
あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
23:23 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。
23:24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。
23:25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた男を願いどおりに釈放し、
イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。
誰が名付けた「ミッション・バラバ」。 命をかけた伝道集団。悪に強きは善にも強し。神のためならとことんやるぞ。
名前の由来は盗賊バラバ、エルサレム一のならず者。すんでのところで処刑のはずが、イエス様が身がわりに。
挫折ばかりの人生に、いちりん咲いた神の愛。餓えと渇きの魂を、いやしてくれたイエス様。
出来のいいヤツ悪いヤツ、墨を入れたヤツまでも。愛してくれたイエス様。僕らの親分イエス様。
(ミッション・バラバのwebページより引用)
「えーっ。もとヤクザ!」と心の中で嫌悪感を持ち、拒絶反応が起こる。クリスチャンでもそんな方がいらっしゃる。私もそのような一人だった。けれども、ミッション・バラバのご夫妻の体験談を聞いていると、こんなふうに私は思わされた。
私は彼らのように、腕や肩などに刺青はないかもしれない。けれども、心の中には刺青がしっかり掘り込まれているのではないか。人が見ていない所、人に知られないと思う所で、こそこそとヤクザと変わらないような悪いこと、神様がしてはならないということをしているのではないか?もしそうなら、隠れて悪いことをしている分、ヤクザよりも性質が悪い、ヤクザよりもいやらしいのではないか。心の中には自分のことだけ。惜しみなく人を自分のために利用する自己中心な存在。しかし天地万物の造り主なる神様は、隠れたこと、覆われていることをすべてをお見通しですべてご存知。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。
私たちはこの神に対して弁明をするのです。ヘブル4:13
しかし父なる神は、そんな私たち罪人(神の敵)を徹底的に愛して下さった。釈放された人殺し(バラバ・そして私たち)と身代わりに十字架刑に引き渡された無罪の主イエス。お解りでしょうか?イエス様はあなたの罪の身代わりとして、あなたを無罪放免するために、十字架で処刑されたのであります。
しかし主イエス様は、3日目に墓からよみがえられました。主イエス様は私たちの身代わりとしてよみ、地獄に下って下さいましたが、死人のうちからよみがえって、今も生きておられる救い主なのです。主イエス・キリストは、罪と死と悪魔に勝利された勝利者です。
「殺してはならない」ということは、逆に言えば「生かしなさい」ということです。天の父なる神の十字架の愛に根差し、神と共に生きるならば、様々な殺意から解き放たれ、人を愛し、人を生かす自由に生きることができる。どんな人であっても、やり直すことが出来る。そう聖書は語っています。どんな罪人であっても、人殺しであっても、「御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネの手紙1:7)
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
エペソ2:8−10
主イエス・キリストは、3日目によみがえって、今も生きておられるまことの救い主。イエス様は、もし私たちが信じるなら、信じるだけで、私たちに新しい人生、やり直しの人生、そして永遠のいのちに至る人生を与えて下さるお方。そして信仰によって私たちを新しく神の作品として造り直して下さり、人を生かす良い行いをも備えて下さったお方。
私たちの天の父なる神様。
私たちは、心において、言葉において、そして態度や行動において、人を殺してしまう恐ろしい者です。
お赦し下さい。憐れんで下さい。
けれども、人殺しのかどで捉えられていたあのバラバが釈放され、
それと引き換えに罪のないイエス様が十字架で処刑されたことを覚えます。
そして、
バラバとまったく変わらない罪人の私が赦され、人を生かす自由へと解き放たれて、
それと引き換えに罪のないイエス様が十字架で処刑されたことを覚えて、心から感謝します。
どうかあなたの十字架の血潮をもって赦され、贖われた神の子どもとして、
人を生かす存在となれますように助けて遣わして下さい。
あなたの復活のいのちに溢れさせて下さり、
いつもあなたとしっかりと結びついて生きることができるように助けて下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によって、祈ります。
アーメン。
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野町 真理