NEW! 2002年 12月28日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)

キリストの弟子の自由E
「あなたの父と母を敬え」

聖書個所:出エジプト記20章1−12節

20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
   上の天にあるものでも、 下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、
   どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
   あなたの神、であるわたしは、ねたむ神、
   わたしを憎む者には、 父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、 恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、の御名を、みだりに唱えてはならない。
   は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。
   「「あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、
      また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。「「
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、
    七日目に休まれたからである。
    それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
20:12 あなたの父と母を敬え。
    あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

主題:天の父の愛に根差すならば、人間関係においても愛する自由を持つことができる

導入:私たち人間は、一人では生きていけないが、人間関係は最大の悩みの種である

 私たち人間は、この世に生れ出でて「オギャー」と産声をあげた時には、泣くことしかできない無力な存在です。自分でミルクを飲むこともできないのです。そして生まれて数年間は、しゃべることも、自分でトイレに行くこともできません。幼稚園や保育園に入ったとしても、親に送り迎えをしてもらわないと自分では通園できません。病気になって熱がある時などはなおさら、自分で病院に行くことなど不可能です。中学生ぐらいまでは、働いてお金を稼ぐということも出来ません。

 大きくなって就職したとしても、最初はいろいろと教えてもらわなければ、一人前に働くことは出来ません。一人前に働けるようになったと思っても、実はいろんな人がその人を理解して受け入れ、協力して支えて下さる故に、一つ一つの仕事を成し遂げていくことができるということでしかありません。そして年を重ねていくならば、やがて体力は衰え、様々な形での介護や助けを必要とするようになります。

 このように、私たちは絶えず、何らかの人間関係の中で支えられ、お互いに助けあって生きているのです。実にゆりかごから墓場まで、私たち人間は、決して一人では生きていけない弱い存在なのです。一人では生きていけない。それ故に私たちは、人との関わりの中で共に生きていくわけです。ところが、この人との関わり、人間関係というものは、本当に難しいものだと思います。

 何年か前に、東南アジアのタイという国に行っておられた宣教師が、日本に帰って来られて、宣教の報告をして下さる時がありました。ある方がその宣教師に、「タイで一番大変だったことは何でしたか?」と尋ねると、その宣教師は笑いながら、「う〜ん。そうですね。タイ(対)人関係でした。」と答えられたことがありました。(その宣教師は、タイ人関係と対人関係をかけて下さったわけです^・^)それを聞いていて私は、おそらくどこの国でも、人と人との対人関係、人間関係こそが、一番大変なことなんだろうな、と思ったわけです。

本論1:すべての人間関係の出発点は親子関係−故に親子関係は最大の悩みの種

 一口に人間関係と言っても、様々な関係があります。友達という関係もありますし、仕事における人間関係もあります。彼氏、彼女と呼び合う関係もありますし、もしそのような二人が結婚したならば、夫婦という関係の中で、残りの生涯を共に生きることになります。家族、親族といった関係から近所の方とのおつきあいまで、私たちは様々な人間関係の中で、共に生きています。

 さて、今日与えられている「あなたの父と母を敬え。」ということばは、十戒の後半部分、つまり人と人との関係における最初の教えとして語られています。ここで主なる神様は、十戒を通して、あらゆる人間関係の出発点となるものは親子の関係だ、ということを教えておられます。実際、親子という関係は、あらゆる人間関係の出発点であり、同時に、すべての人が持っている、切っても切れない関係ではないでしょうか。

 結婚しなければ、結婚関係、つまり夫婦という関係を避けることができます。けれども、親子関係だけは、絶対に避けることができません。そしてそれ故に、親子関係というのは、人生最大の悩みの種ともなり得るのです。

 ある娘さんは、父親のことを思い出すだけで、おなかが痛くなるという深刻な悩みを抱えて、大人になっても苦しんでいます。そして、心の病を抱えて、心療内科に通ったりしています。その方は、一度も自分は父親に愛されていると感じたことがないというような家庭環境の中で育った故に、そのような心の傷を負って苦しんでいるのです。

 ある方は、とても尊敬できない父親のもとで育った故に、十戒の中の「あなたの父と母を敬え。ということばを、最も聴きたくないいやなことばだと告白されます。

 尊敬できるお父さんやお母さんに育てられた人はいいのですが、尊敬できないお父さんやお母さんに育てられた人にとっては、「あなたの父と母を敬え。ということばは、そのような響きを持ったいやなことばになりやすいのです。

本論2:あらゆる人間関係の土台は対神関係
−十戒の前半(神を愛する自由)は後半(人を愛する自由)の土台

 これまで私たちは、十戒の前半のことばに耳を傾けてきました。そして、これから私たちは、十戒の後半部分に耳を傾けようとしています。十戒の前半には、私たちを奴隷の家から救い出して下さった神様との関わり方が具体的に語られていました。それに続いて、十戒の後半部分には、人と人との関わり方、つまり人間関係における指針が具体的に語られています。

 まずまことの神様との関わり方が語られ、そして次に、人との関わり方が語られる。この十戒を通して、主なる神様が私たちに教えておられることは、あらゆる人間関係の土台は、まさに十戒の前半に語られている、神様との関係なのだということです。

 このことは十字架の縦棒と横棒によってよく説明されます。十字架の縦棒は縦の関係、つまり神様と私たちの関係を表わしています。そして十字架の横棒は横の関係、つまり人と人との関係を表わしています。神様との関係が人との関係の土台であり、神様との関係をしっかり持っていくなら、豊かな人間関係を持つことができるのです。十戒の前半で語られているような神様との関係を持たなければ、後半で語られるような人との関係を持つことは、人間的にはできないのです。

 けれども、「あなたの父と母を敬え」という命令は、「もし私の愛に根差すならば、あなたは将来必ず、父と母を敬うことのできる自由に生きることができる者に変えられる。」という約束なのです。天の父なる神の愛に根差すならば、どんな難しい親子関係においても、父と母を敬う自由、父と母を愛する自由を持つことができるのです。主なる神様は、そのような人を愛する自由の中に、私たちを生かそうとされています。

 十戒の前半には神を愛する自由が語られており、後半には人を愛する自由が語られています。もし私たちが神を愛する自由の中に解放されるならば、人を愛する自由に生きることができる。21世紀に生きる私たちにも、そのような解放のメッセージを、神様は十戒を通して語っておられるのです。

 ですからまず何よりも、天におられる私たちの父なる神様がどのようなお方なのか、そのことにもう一度思いを巡らしたいと思います。

本論3:天の父なる神の愛に根差すならば、人間関係においても愛する自由を持つことができる

A、天の父なる神とは、あなたの造り主である
−あなたは天の父に望まれ、愛されるために生まれてきた

 旧約聖書の詩篇139篇という所を開いてみてください。そこには、天の父なる神様とは、あなたのデザイナーでありあなたの造り主だということが記されています。13節から18節までをお読みしますので聞いていてください。

139:13 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
139:14 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。
     私のたましいは、それをよく知っています。
139:15 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
     私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
139:17 神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。
139:18 それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。
     私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。詩篇139:13-18

 お母さんのお腹の中であなたを組み立てられたお方。そしてあなたが生まれる前から、あなたのことを優しい眼差しをもって見つめておられるお方。目には見えませんが、いつもあなたと一緒にいてくださるお方。あなたが喜ぶときには一緒に喜んで下さり、あなたが苦しむ時には一緒に苦しんで下さるお方。あなたのすべてをご覧になり、すべてを知っていてくださるお方。そのような神様が、聖書が語っているあなたの神様です。そしてあなたは、この天の父に望まれ、愛されるために生まれてきたと聖書は語っているのです。

 イザヤ49章15節という所も開いてみてください。

女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。イザヤ 49:15

 お母さんがお腹を痛めて生んだ自分の子どものことを忘れることができるだろうか?自分の胎から出た自分の子どもをあわれまないでおれようか?いや、たといあなたのお母さんがあなたのことを忘れたとしても、このわたしは、あなたの造り主であるわたしは、あなたを絶対に忘れない。そのようにあなたに語りかけておられるお方、それが天におられるあなたの父なる神様なのです。

 エレミヤ31章20節という所も開いてみてください。

エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。
わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。
それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。エレミヤ31:20

 ここには、天の父なる神様のはらわたがわななく(文語訳聖書では我が腸痛む)という驚くべきことばと共に、主なる神様の胎(子宮)ということばから造られたあわれむということばが2回重ねて使われています。それは、「わたしは彼をあわれまずにおれようか?いや、わたしは彼を必ずあわれむ!」という力強い響きを持ったメッセージなのです。

 エフライムというのは、これ以上ないというほどに神に愛されたにも関わらず、ことごとく父なる神の愛を裏切り続けた神の民イスラエルのことです。しかし天の父なる神は、そのような罪の限りを尽くす者でさえ、見捨てることが出来ないほどに、あわれみ深いお方なのです。それは私たちがどんなに罪人であっても、天の父なる神にとって私たちは、自分の胎の子、わたしな大事な子であるからに他ならないのです。

B、天の父なる神は、御子イエス・キリストを信じる者が永遠のいのちを持つために、世(あなた)を愛された。
  それはあなたがまだ罪人(神の敵)であったときに、イエス・キリストをお与えになったほどの、
  キリストをあなたの身代わりとして十字架につけるために引き渡すほどの愛である。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16

C、天の父の愛に根差すとは、イエス・キリストを信じて受け入れること。愛の源を受けること。

私たちは罪人(だめな子)なので価値がない?−罪を強調しすぎる否定的なメッセージによる悪影響

 いえいえ。父なる神は、ありのままのあなたに価値を見い出し、あなたを永遠の愛をもって愛し続けておられる。あなたはけっして忘れられてはいない。決して見捨てられてはいない。

 だからこそ、父なる神はそのひとり子(御子)イエス・キリストを、あなたの罪の身代わりとして十字架につけるために引き渡された。

結論:天の父の愛に根差すならば、人間関係においても愛する自由を持つことができる

 天の父の愛に根差すならば、人間関係においても愛する自由を持つことができるのです。そして、天の父の愛に根差すとは、イエス・キリストを信じて受け入れること。愛の源を受けることです。

マザーテレサのことば

 家族とか親子関係ということを考えながらマザーテレサさんの本をパラパラめくっていますと、こんなことが書かれてありました。

愛は身近の人−家族−を気づかうところに始まります。
私たちの夫、妻、子どもたち、または親たちが、いっしょに住んでいながら、十分に愛されていないと感じ、
孤独な生活をしているのではないかと反省してみましょう。
そのことに気づいているでしょうか?
年老いた人々は今日、どこにいるのでしょう?
介護施設(あればの話ですが)の中です。
なぜ?
それはかれらが邪魔だから、厄介者だから、そして……
「マザー・テレサ−愛と祈りのことば」ホセ・ルイス・ゴンザレス・バラド編/渡辺和子訳(PHP)より引用

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

 さて、改めて出エジプト記20章12節を最後までみてみましょう。

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
出エジプト20:12

 「あなたの父と母を敬え」という戒めの後には、「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」という理由、あるいは約束が語られています。いろいろと考えていましたが、これは次のようなことだと考えられます。

 子どもは親をしっかり見て、良くも悪くも、親と同じような人間に育つ。これはまぎれもない事実です。ですから、もしあなたが父と母を敬わずに生きるなら、あなたの親に対するその態度が、そのまま子どもに受け継がれる。そして、やがてあなたが年老いていくなら、邪魔者、厄介者扱いされるようになる。

 けれども、もしあなたが、天の父の愛に根差すことによって父と母を敬うなら、「生んでくれてありがとう!」、「育ててくれてありがとう!」「お父さん、お母さん。元気で長生きしてね!」と心から言える者に、あなたがまず変えられる。あなたがまず、子どもや次の世代の者達に尊敬されるような者に変えられる。そして、そういうあなたの、尊敬に値する姿を見て育った子どもは、親孝行な子に育ち、親を敬うことができる者に、たとえ親に欠点があっても、それを忍耐することができる者に変えられていく。

 そういうことではないかと考えられます。ただし時間はかかるでしょう。心から父と母を敬うということは、インスタントには出来ないことです。そして父と母を敬うということは、継続的なことです。けれども聖書は、もしあなたが真剣にこの戒めに従おうとして神に祈り、神に依り頼んでいくなら、将来必ず、父と母を敬う愛の人に変えられると聖書は約束しているのです。これは人間の努力によって出来ることではなく、神の愛の力による奇跡の業なのです。

祈り

3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、
   あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
   また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
   こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、
   私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。
   アーメン。(エペソ3章より)

私たちの天の父なる神様。
あなたは今日、「あなたの父と母を敬え」という御言葉をもって、
私たち一人一人の心を探って下さり、親子関係について深く考える時を持たして下さって感謝します。

私たちの偽善は、親子関係において、最もよく現れているように思います。
私たちは、親を利用するだけ利用し、利用できなくなれば厄介者、邪魔者扱いをするような、
本当に愛のない者でしかありません。
どうかあわれんで下さい。

けれどもあなたは、そんな私たちに価値を見い出して下さり、
独り子イエス様を私たちの身代わりに十字架で殺すために引き渡して下さったことを覚え、心から感謝します。
またイエス様はよみがえって、私たちの心の中に住んで下さり、
愛の源となって私たちを愛する自由に生かして下さることを信じて感謝します。

父と母を敬うには、あなたの助けが必要です。
忍耐が、体力が、知恵が、そして何よりも愛が必要です。
どうかこれらを豊かに与えて下さい。

年末年始、実家に帰って家族と過ごす方も多いと思います。
どうか、それぞれの家族との交わりを祝福してください。
私たちの主イエス・キリストの御名によって、祈ります。
アーメン。


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