NEW! 2002年 9月1日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)

キリストの弟子の自由A
「あなたには、わたしのほかに、
ほかの神々があってはならない 」

聖書個所:出エジプト記20章1−3節

20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

主題:キリストの弟子の自由は、まことの神だけを神とし、主イエスだけを主として生きることにある

導入:

 前回から、キリストの弟子の自由と題して、出エジプト記に記された十戒を味わい始めました。この前は、十戒の語られる土台となる、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」という御言葉を聴きました。今日はいよいよ、十戒の第一戒、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」という御言葉に、ご一緒に耳を傾けていきたいと思っています。

本論1:第一戒は、神々の多様性と個性を否定するが人間の多様性と個性は否定しない

 私は神学校を卒業した2000年の春から、インターネットの上に、「The Gospel of Jesus Christ(イエス・キリストの福音)」という名前のホームページを、個人的に開設しています。クリスチャンの方や求道中の方などから、いろんなお便りを頂いています。昨年の秋に、ある方から次のようなメッセージを頂きました。

「貴兄は、聖書こそが教科書だとおっしゃるが、その思想の根底において、多様性と個性を否定する一神教の考え方でどうやって新たな人間を作るというのか?…」
(Oct. 10, 2001)

 これは、『私は聖書こそが、新しい人を育てる真の教科書であると信じている。』 という私の言葉に対する反対意見でした。この方は、 「一神教の考え方は多様性と個性を否定するので、聖書からは新しい人間は育つはずがない」というような考えを持っておられました。私は何とかこの方にお返事を書きたいと思いましたが、連絡先を書いておられなかったので、直接お返事を送ることができません。それで返事を書いて、ホームページで公開することにしました。こんなふうな内容です。

 『とても考えさせられるメッセージをありがとうございます。まず聖書の語る一神教の立場を改めて考えてみました。この世界には、お父さんと呼ばれる存在が数え切れないほどいます。けれども、あなたの肉親としてのお父さんは世界でただ一人しかいません。同じように、この世界には神と呼ばれる存在が数え切れないほど存在します(日本では八百万(やおよろず)いると言われます)。けれども、あなたの造り主なる神、天地万物の創造主なる神は、世界でただ一人しかいない。これが聖書が語る一神教の立場です。

 実際、お父さんと呼ばれる人々とその人のお父さんとの間には、明確な区別、質的な違いがあります。このような考えを、多様性と個性を否定する考えだと否定する人がいるでしょうか。同じように、たとえ世界に神と呼ばれる存在が何百万あろうとも、その神々とあなたの創造主なる神との間には、明確な区別、質的な違いがあるはずです。

 確かに一神教の思想は、神々の多様性と個性を否定しています。しかし、それは決して、人間の多様性と個性を否定することにはつながらないと思います。なぜなら天地万物の創造主は、私たち一人一人を、誰一人として同じ顔や同じ性格にはお造りになっていないのですから。むしろ一神教の思想は、神は世界の創造主であるという立場から、ナショナリズムや民族差別の壁を越えて、全世界のすべての民族、すべての人間の多様性と個性を本当の意味で尊重することの出来る立場に立つことができるのではないでしょうか。』

 今日皆さんと一緒に味わいたいと思っているのは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」という御言葉です。この言葉には、聖書が語る一神教の最も明確な立場が表れています。確かにこの言葉は、神々の多様性と個性を一切否定する、排他的な言葉です。しかし、この言葉は決して、私たち人間の多様性と個性を否定しているわけではないのです。

 「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」この御言葉によって、私たちの心の中は深く探られます。なぜなら、私たちを自由へと解放して下さった主なる神は、この御言葉によって、まず、「あなたの心の中には、まことの神であるわたしのほかに、ほかの神々がありはしないか?」、「あなたが本当に頼っているのはわたしなのか?」、「あなたが何よりも慕い求めているのはわたしなのか?」と、私たち一人一人に問い掛けておられるからです。

 この第一戒をめぐっての歴史から、学んでいきたいと思います。

本論2:第一戒をめぐっての歴史から学ぶこと

 まず最初に、旧約聖書に記されたイスラエル民族の歴史に目を向けたいと思います。

A、旧約聖書に記されたイスラエルの歴史から学ぶ

 旧約聖書には、この地上のすべての民族の歴史が記されています。けれどもほとんどの紙面を割いて、旧約聖書に中心的に記されているのは、やはりイスラエル民族、ユダヤ民族の歴史です。そして、全世界の創造主、すべての民族の創造主である唯一まことの神も、やはり中心的には、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神として、つまりイスラエルの神様として記されています。そして今私たちが学んでいるこの十戒も、もともとは神の民イスラエルに与えられたものでした。

 旧約聖書を見ますと、イスラエル民族は、ただ神のあわれみによって、神の民として選ばれ、神の民として愛され、神の民として育まれ続けた民族であることがわかります。イスラエル民族は、他の民族と比べて特別優れていたから神の民として選ばれたのでは、決してありません。それが、ただ神のあわれみによってという意味です。

 けれども、旧約聖書が語る神の民イスラエルの歴史は、罪と恥と裏切りに満ちています。ただ神のあわれみによって神の民として選ばれ、これ以上ないというほどに神に愛されたはずの神の民イスラエルは、ことごとく自らの神に逆らい続け、恵み深い神に反逆し続けた民でもあります。

 実にイスラエルの歴史、神の民の歴史は、神によって自由にされたにもかかわらず、ことごとくこの第一戒を破り続けた歴史でありました。まことの神だけを神とし、まことの神だけにより頼む道から外れ、ほかの神々と共に歩み続けた故に、自ら滅びを刈り取った民なのです。バビロン捕囚とよばれる出来事がそれです。あのエルサレムが、神の神殿がことごとく焼き払われ、イスラエルの人々は異国バビロンへ、捕囚として強制連行されていったのです。

 私はキリスト教の信仰をもって間もない頃、「どうして旧約聖書には、イスラエル民族の歴史が中心的に記されているのか?」と不思議に思ったことがあります。また、「どうして、ほとんどイスラエルの歴史が記されているこの旧約聖書を、日本人である私が、いや全世界の人々が学ぶ必要があるのか?」という疑問を持っていました。皆さんはそんな疑問をお持ちになったことがないでしょうか?

 けれども、いろんなことを学ばせて頂きながら、段々とわかってきたことは、「イスラエルという民族は、いわば全世界のすべての国民、すべての民族の代表である」ということです。つまり旧約聖書を読み、イスラエルという民族の歴史を見ていくということは、いわば、本当の自分を映し出す鏡の前に立たされ、見たくない本当の自分の姿を見させられる、ということなのです。
  実はこれが、「なぜ旧約聖書には、イスラエル民族の歴史が中心的に記されているのか?」、「なぜ、ほとんどイスラエルの歴史が記されているこの旧約聖書を、全世界の人々が学ぶ必要があるのか?」という疑問に対する答えだと、私が確信していることです。

 仮に日本民族が神の民として選ばれていたとしても、イスラエルとまったく同じように、うなじのこわい民としてほかの神々を持ち、神の愛を裏切り続けたでありましょう。また、救い主として来られたイエス様を拒み、イスラエルとまったく同じように、十字架につけてこの世から抹殺しようとしたことでしょう。後で紹介する日本のキリスト教会の歴史を見るなら、そのことを覚えることが出来るのではないかと思います。

 旧約聖書に続いて、新約聖書に記された、イエス・キリストの弟子の歴史に目を向けていきましょう。

B、新約聖書に記されたキリストの弟子の歴史から学ぶ

 主イエス・キリストは、約3年間の間、特別に12人を弟子として選び、寝食を共にし、特別に愛と労力を注ぐことを通して、弟子たちを訓練なさいました。しかしその弟子訓練の成果は、イエス様が十字架に架けられるために捕えられた時に、明らかになりました。なんと、12弟子の一人であったイスカリオテのユダが、イエス様を裏切り、銀貨30枚でイエス様を引き渡したのを筆頭に、「いのちをかけてもあなたに従います!」と誓っていた12弟子たちが全員、 イエス様を見捨てて、クモの子を散らすように逃げてしまったのです。

 「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」と、キリストに言われたシモン・ペテロなどは、キリストの弟子であることの故に、自らの上に火の粉が降りかかりそうになった時、3度もキリストを裏切ったのです。

 けれどもイエス様は、裏切ったシモン・ペテロを、ペテロが3度裏切る前に、既に赦し、ペテロの信仰がなくならないように祈っておられたことが新約聖書には記されています。

シモン、シモン。見なさい。
サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:31−32

 そして復活された主イエスは、ペテロに「あなたはわたしを愛しますか?」と3度問い掛けられた後、ペテロに使徒としての使命を与えられたことを、新約聖書は記しています。

 続けて、初代教会の歴史について、見ていきましょう。

C、初代教会の歴史から学ぶ

 かつて初代教会のキリストの弟子たちは、ローマ帝国によって大迫害を受けました。ローマの歴史家にタキトウス(A.D.55−119)という人がいますが、その人の書いた『年代記』(115年頃)という書物には、ローマの大火(ネロが放火したといわれている)が キリストの弟子によるものであるとされたこと。 キリストの弟子たちが捕らえられ、十字架刑や火あぶりの刑にされたり、動物の皮を着せられて犬にかみ割かれたことなどが記されています。

 しかし後にローマ帝国は、主イエスを信頼し続け、忍耐をもって闘い抜いたキリストの弟子たちによって、見事にひっくり返されました。「殉教者の血は、教会の種子である」という言葉がありますが、キリストの弟子が一人殺されたなら、その死に様を見ていた人たちが何人もキリストの弟子になっていったという驚くべき出来事をよく表わしています。けれども中には、恐ろしい迫害の中で、信仰を捨てた方もいました。

 やがて迫害の時代が終わった後、キリスト教がローマ帝国の国教になると、迫害の時に教会を離れてしまった人たちが、再び教会に戻って来ました。そうすると、一度キリストを裏切った人たちを再び教会に受け入れるべきなのかどうかということで、大きな論争が起こりました(ドナチスト論争が有名)。

 けれども、あのキリストを裏切った弟子シモン・ペテロを、復活の主キリストご自身が赦し受け入れ、そして使徒としての使命を与えられたことから学んだ教会は、たとえキリストを裏切った人たちであっても、悔い改めて教会に戻って来るなら、再び教会に受け入れることが主イエスの御心であることを覚え、その人たちを受け入れていったのです。

 次に、私たち日本のキリスト教会の歴史に目を向けたいと思います。

D、日本のキリスト教会の歴史から学ぶ

 日本のキリスト教会にも、真の神だけを神とすることを止め、天皇を現人神として拝み、天照大神(太陽)を拝んだという歴史がありました。日本のキリスト教会の将来のために、また、私たちキリストの弟子が、祝福の基、世の光、地の塩としての使命に生きるために、主イエスの十字架と復活による赦しの宣言をしっかりと聴き取り、赦された過去をしっかりと心に刻むことから始めたいと思います。

戦時下

 戦時下において、ほとんどの日本のキリスト教会は、日本政府によって、日本基督教団として一つにまとめられました。私たちの日本同盟基督教団は日本基督教団の第八部に所属していました。

 その時、私たち日本のキリスト教会は、国家神道ナショナリズム(国家主義)に対して抵抗出来ず、教団の統理(理事長のような立場の人)は伊勢神宮に参拝して偶像礼拝の罪を犯しました。日本の教会は、神社参拝が宗教であるかどうかという判断をキリスト(聖書)に聞かず、日本政府に聞きました。その結果、教会は教会としてのアイデンティティを失い、神社参拝は宗教ではないという政府の意見を受け入れ、積極的に神社参拝を行ったのです。

 そして教会の指導者たちは、特高警察と共にアジア諸国に行き、「神社参拝は宗教ではないから参拝しなさい」と同胞に勧めたのです。韓国のキリスト者にまで神社参拝を勧めに赴いた日本の教会の指導者たちに対して、韓国の抵抗して殉教していったキリスト者は「それは第一戒に反することではないのですか?」と命をかけて問うたのです。

日本同盟基督教団105周年記念大会 −横浜宣言−より

4.かえりみて、戦時下、特に「昭和15年戦争(1931-1945年)」の間、私たちの教団は、天皇を現人神(あらひとがみ)とする国家神道を偶像問題として拒否できず、かえって国民儀礼として受け入れ、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」・「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」との十戒の第一戒と第二戒を守り抜くことができませんでした。
 さらに近隣諸国の諸教会と積極的に平和をつくり出す者として生きることができず、国家が推進した植民地支配や侵略戦争に加担し、アジア地域の侵略に協力しました。
 こうして神と隣人の前に、とりわけアジアの人々に、偶像礼拝の強要と侵略の罪を犯し、しかも戦後、この事実に気付かず、悔い改めに至ることもなく、無自覚なままその大半を過ごしました。
 近代日本の100年余の歴史に重なる私たちの教団の歴史をかえりみ、私たち教職・ 信徒は、「信仰と生活の唯一絶対の規範」である神のみことばに、十分聞き従い続けることができなかったことを主のみ前に告白し、悔い改め、神と隣人とに心から赦しをこい求めます。
 私たちは、今、あらためて、堅く聖書信仰の原理に立ち、聖霊の助けにより、福音にふさわしい内実を伴ったキリストの教会へと変革されることを心から願います。
1996.11.19 MISSION 21 Yokohama
教育の力

 キリシタン時代の大迫害の時には、多くの殉教者がいて、死に至るまでも忠実な信仰を持っていたようです。けれども、戦時下の日本の教会には、ほとんど殉教者は起こされなかったようです。なぜ、かつてはいのちをかけても信仰を守り、抵抗することが出来たのでしょうか?なぜ戦時下で、ほとんど抵抗することが出来なかったのでしょうか? おそらくその原因の一つは、国家教育にあったと思われます。

 1879年頃から、天皇周辺によって教育干渉が始められました。そして1890年の「教育勅語」は、明治ナショナリズムの到達点、実質的に国教とされた国家神道の経典でした。「日本は昔からそうであった」というもっともらしい言葉で、全く新しい日本の歴史が作り上げられました。それは天皇を神聖視し、美化し、日本は昔から天皇の国(皇国)だったというフィクションでした。そして、天皇のために、国のために絶対献身して生きることが、最も素晴らしい生き方であるという教育が国家レベルで導入されていきました。それによって、筋金入りの国家主義的愛国心を持った日本人が育てられたようです。

 当時、この教育勅語による教育を導入した人々は、キリスト教をその最大の障害、最も邪魔な教えと見なしていました。

 (日本のキリスト教会が今、世からほとんど危険視、あるいは重要視されていないのはなぜでしょうか?その原因の一つは、あまりにも個人主義的な、あるいは自己中心的な、貧しい福音理解の故だと私は考えます。口でどんなに福音の素晴らしさを説いても、もしその人が本当に福音の豊かさを知り、福音に生かされていなければ、態度や顔の表情で「これは本当は素晴らしくないんです」と語っていることになります。
 世の中には、巧みなコマーシャルや虚言によって飽き飽きしている人々、けれども本物の救いを求めて羊飼いのいない羊のように、空しさと孤独と絶望の中を生きている多くの人々がいます。その人たちに対して、本物の福音を伝えていくためには、まず私たちキリスト者自身が、福音の豊かさを理解し、味わい、福音の神、イエス様を喜んで生きることがどうしても必要です! )

 「教育勅語」導入に対して、当時の教会指導者の多くは、「教育勅語」はキリスト教とは衝突しないものであると弁明し、特別視されること、迫害されることを恐れ、地の塩とされた者の持つ塩気(異質性)を自らなくして、同化していく努力をしたようです。

天よりの声 ヒロシマ・被爆二年目の手記

末包敏夫編 日本YMCA同盟出版部 1983年6月10日 第1刷発行

…とくに、日支事変以来のことであるが、国家が、キリスト教の神観と、キリスト教倫理の超民族的超国家的性格を問題とし、キリスト教に対する思想的、あるいは直接的弾圧がはげしかった。日本のキリスト教界は、純なる愛国的動機からそのような態度に出たのであろうが、いかにして国家の要望するものに応じうるかを発見するのに腐心し、いわゆる、日本的キリスト教の樹立への神学的探求労作が行われてきたのである。

これはキリスト教信仰の最後的のものを断固として守りぬくとともに、心の向かうところは、なんとかして、国家の要求と相一致する領域を見出したいとの願いをもち、主張すべきものを明確に主張するというよりも、第一の関心はどこまでも主張せずに置いて、国家の要求に応じうるかということを発見するにあった。

このように、われわれの当然主張すべきものを、明確に主張しなかったことは、たとえ事態の真相を知らされていなかったためとはいいながら、今や、痛烈に、神の前に責任を問われることになった。
もしも日本のキリスト教徒が、終戦後の今日のような考えに、戦時中も、断固として立ち、わが身を犠牲の祭壇にささぐる覚悟をもって、戦争反対と、世界平和のために行動していたならば、あるいは、広島数十万の人々が、死し、また傷つかずに済んだかもしれぬと思い、深い責任を感ぜざるをえない。…

(広島キリスト教会牧師 木村文太郎師の寄稿文「つぐないの道」より引用)

本論3:第一戒が指し示すキリストの弟子の自由

 キリストの弟子とは、主なる神によって罪の奴隷から開放され、神の民とされた者たちのことです。この世のものであった者が、十字架につけられ、よみがえられた神によって聖め分かたれ、神のものとされたのです。それはかつて、エジプトで奴隷であったイスラエルの民が、モーセに導かれて出エジプトをして、真の自由へと解放されたのと同じです。

 イスラエルがそうであるように、私たちキリストの弟子が先に救われた目的(神の計画)は、先に恵みによって神の民とされたキリストの弟子一人一人が、全世界の祝福の基、世の光、地の塩として、神の国とその義とをまず第一に求め、イエス様と隣人のための存在として生きるためなのです。これが聖書の語る「キリストの弟子の自由」です。

 そのためには、世のただ中に塩気を失うことなく出て行くという戦いをしなければなりません。塩気とは、十戒の第一戒に聴き従っている時にだけ、持つことの出来るものであり、ほかの神々を持ったり、自らの欲望を神として歩むならば、失ってしまうものなのです。まことの神だけを神とし、主イエスだけを主として生きる時にだけ、塩気を保つことが出来るからです。

 聖書はこう語っています。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、
また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。
あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
あなたがたは、地の塩です。
もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。
もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。
そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、
人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイの福音書5章10−16節

結論:あなたはわたしを誰よりも愛するか?

 あなたを造られた神は、神を神とすることをやめて、自らを神として自己中心に生き始めた結果、罪と欲望の奴隷となって、死と滅びに向かってさまよっていたあなたを、いのちがけで救い出してくださいました。そして、こう言われるのです。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
(だから)あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。…

と。

 出エジプトの時、イスラエルの民は小羊をほふり、その真っ赤な血をかもいと門柱につけました。小羊の血によって、神の滅びが過ぎ越されたのです。その時から、イスラエル民族は、過越の祭りという祭りを祝い続けています。そしてイエス・キリストは、過越の祭りの小羊がほふられる時に、十字架につけられて血を流されました。出エジプトの時の小羊の血は、イエス・キリストの血による永遠の救いを指し示しているのです。

 世の中には数え切れないほどの神々が、人間によって造られています。しかし、人間が造り、祭り上げた神々は、まことの神様に反逆している高慢な人間の投影でしかありません。偽りの神々は、命がけで仕えられることを求めます。偶像の神々は自らが崇められ、ほめたたえられることを求めます。そして、偽りの神々は決して人間に仕えることができません。まして私たちのために、いのちを捨てることなどとてもできません。

 しかし、イエス・キリストによって明らかにされたあなたの神、唯一まことの神は、あなたのために仕えてくださり、そして最後にはいのちまでも捨ててくださった本当の神様なのです。あなたを造られたお方、天地万物を創造された唯一まことの神は、あなたのためにいのちを捨てて下さり、よみがえって下さったのです。

 第一戒の、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」という御言葉は、言い換えるならこのような主イエス・キリストからの問いかけです。

「わたしの他に、あなたのためにいのちまで捨ててくれるような神が他にいるのか?
わたしは、あなたのために十字架でいのちを捨て、よみがえり、
あなたを罪と死の奴隷の家から解放したあなたの神、主である。
わたしはあなたを愛している。あなたはわたしのもの。
あなたはわたしを、他の誰よりも愛するか?
あなたはわたしを、他の何よりも愛するか?」

祈り

The Gospel of Jesus Christ(Shinri Nomachiのホームページ)へ

shin@hc-rock.com

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野町 真理