NEW! 2002年 6月2日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)
11:5 また、イエスはこう言われた。
「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、
『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、
子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
11:8 あなたがたに言いますが、
彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、
あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。
そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、
いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、
自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。
とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、
どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」 (ルカ11:5−13)
81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。
あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。
81:11 しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。
81:12 それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。
81:13 ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。
81:14 わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」
81:15 主を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。
81:16 しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。
「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」 (詩篇81:10−16)
前回まで、主イエス様が弟子たちに、「祈る時にはこう祈りなさい。」と教えて下さった、主の祈り、キリストの弟子の祈りを味わってきました。一番最後の、アーメンという言葉についても語りましたので、今日はその次に進みたいと思います。何を祈るべきかということをよく学ぶことの出来る主の祈りのすぐ後に、今度は、どういうふうにそれを祈ったらいいのかが記されてあります。まず祈る内容を教えて下さった主イエス様は、次にたとえ話をもって、こんどは祈り方を教えて下さっているのです。
真夜中に友人の家の扉を執拗に叩き続け、あくまでも頼み続けるなら必ずその求めに答えて下さるというたとえが記され、そして有名な「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(11:9−10)」という約束があります。
お腹をすかした友人のために、真夜中に寝ている友人の家の扉を叩き続ける人のように。あくまで頼み続けるなら=あつかましさのゆえに⇒求めていた必要なものが与えられる!
必要なものが与えられるまで、あくまで頼み続ける。主イエス様は、そのようなあつかましさを持って、祈りが答えられるまで、約束が完全に出来事となるまで忍耐もって祈るべきだと教えて下さっています。
ここで改めて見たいのは、この真夜中に友人の家の扉を叩き続けた人は、自分の必要のためではなくて、友人の必要のためにあつかましいほどに、あくまで頼み続けたということです。
私たちは、自分の必要のためなら、かなりあつかましく祈ることができるかもしれません。けれども、私自身、他の人のためにこのように祈れていないことを深く覚えさせられ、反省とともに大きなチャレンジを与えられています。
11節から、今度は、私たちが誰に祈り求めるのかということが、改めて記されてあります。ここではお父さんと子どもとの関係が語られています。
子どもが「おとうちゃん!おなかすいた。さかなちょうだい!」と言ったとき、「じゃあ蛇(生きた蛇:毒)をやるか。」なんていう親はまずいないのです。子どもが「おとうちゃん!おなかすいた。たまごちょうだい!」と言ったとき、「じゃあさそり(毒)をあげよう。」なんていう親はまずいないのです。最近はいろんなことがあります。そんな中で私たちは、本当はそんなふうにしたくないけれども、子どもに毒のようなものを与えてしまうということはあるでしょう。けれども、普通私たちは、子どもは目の中に入れても痛くないほどにかわいいもので、その子どもには、ほしいものをあげたいと思うのです。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
ここには、じっくり読むと、カチンとくる言葉がしるされてありました。それは、「あなたがたも、悪い者ではあっても…。」という言葉です。はっきり言えば、「あなたがたは悪者なんです!」と、ここで聖書は語っているのです。聖書はすべての人は罪人ですと語っています。聖書が語る悪者、罪人とは、神様でさえも自分のために利用し、そして、自分のまわりにいる人を、自分のために惜しみなく利用する人のことです。自己中心に、自分さえよければいいと思っている人のことです。
けれども、だれであっても、悪者であっても、求める者に必ず聖霊を与えて下さる父なる神様の約束が、ここには記されてあるのです。
聖霊とは、聖なる神の霊。御霊とも呼ばれる。単なる力ではない。人格をもっておられる神ご自身。イエス様が死者の中から復活し、天にのぼられた後、ペンテコステの日(復活から50日後)に聖霊は約束どおり与えられた!…使徒の働き(ルカ福音書の後編)参照
イエスを主と告白することが出来た者には、聖霊がすでに与えられています。誰も聖霊によらなければ、イエスを主とい告白することはできないと聖書にあるからです(1コリント12:3参照)。ですから、聖霊を与えて下さいと、あえて祈る必要はありません。しかし聖書は、聖霊に満たされ続けること(エペソ5:18)は、日々新しく祈り求めるべきだと語っています。
森川先生が今、ヨハネ福音書を順番に語って下さっています。この前7章に入りました。7章をもう少し読んでいきますと、この聖霊なるお方についての素晴らしいみことばがあります。ヨハネ7章37節から39節をお読みしますので、聞いていて下さい。
7:37 …「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
ヨハネ7:37−39
今日は詩篇の81篇を読んで頂きましたが、詩篇の一番最初のところ、1篇を見てください。ここには、水路のそばに植わった木のような生活についてのみことばが記されてあります。
1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。
詩篇1:1−3
私は四国の高知県で生まれ育ちました。20歳の時に、この豊橋に移り住むようになって、もう10年以上経ちました。この豊橋に住んでいて、だんだんとわかってきたことがあります。それは、この東三河の地には宇連ダムや豊川を水源とする豊川用水(牟呂用水もその中の一つ)という用水、水路があるということです。
牟呂用水は賀茂の菖蒲園のあたりを通り、創造大学の横を通って豊橋の街中に流れ、そして駅のあたりを抜けて神野新田の方に流れています。
豊川用水の東部幹線は、石巻のあたりから葦毛湿原のあたりをくぐりぬけ、ずーっと南の太平洋の方に流れていき、湖西市の方と渥美半島の先端のほうまで流れています。
豊橋市、蒲郡市、豊川市、新城市、田原町、赤羽根町、渥美町、一宮町、小坂井町、音羽町、御津町。そして静岡県湖西市。これら愛知県の東三河地方と静岡県の湖西地方は、昔から大きな川がなく、雨も少なく、干ばつに苦しむ地方だったそうです。今日、この地方が全国有数の農業地帯、工業地帯となり、また、国際港を持つ海外に開かれた都市として発展を続けている一つの理由は、この豊川用水があるからと言っても、過言ではないでしょう。
水は水道、農業、工業のために必要不可欠なライフラインです。まして聖霊なる神、いのちの水の源なるお方は、私たちの全人格的いのちにとって、必要不可欠な、どうしても必要なお方、まさにライフラインではないでしょうか。
⇒時が来ると、御霊の実(愛:単数)を結ぶ生活(ガラテヤ5:22−23)。
潜水艦クリスチャンということばがあります。私もそうなってしまいやすいのですが、日曜日にかろうじて浮上してきて礼拝式に出ますが、月曜から土曜にかけては沈んでしまうクリスチャンのことです。日曜日には疲れた顔をしてなんとか礼拝式に出席しますが、その後、しなければいけないことに忙殺される中で、祈ることも出来ない。聖書を読むことも出来ない。その結果どんどん落ち込んでいく。元気がなくなる。自分のことだけで手一杯というような具合です。
でも神様は、私たちが自分のことだけで手一杯になって、干からびたような生活をすることを望んでおられません。神様は、私たちが豊かにいのちの水を受けて、まわりを潤すオアシスのような存在として生かしたくておれないお方なのです。
詩篇81篇の10節から16節を見てください。主の祈りで祈り求めている天の父なる神は、かつてイスラエルをエジプトの地、奴隷の家から救い出されたお方、出エジプトを導かれた力強いお方でもあります。そのお方がこう仰っています。
81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。
あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。
81:11 しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。
81:12 それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。
81:13 ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。
81:14 わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」
81:15 主を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。
81:16 しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。
「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」 (詩篇81:10−16)
聖書は語ります。神様が私たちに与えて下さるものは、すべて最良のもの、最も良いものだと。
そして最良のものを与えて下さるという神様を思うとき、私は、ヨハネ3:16節のみことばを思い出します。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」。
私たちが献金をする前に、私たちが奉仕をする前に、私たちが神様を愛する前に、このお方は、ご自分の独り子、イエス様を、私たちのために与えて下さったのです!私たちの罪の身代わりに罰するために、天の父は罪のないイエス様を、私たちのために与えて下さったのです。そしてそのお方は、ねたむほどに慕っておられる聖霊を、私たちのために与えて下さったお方なのです。
そして、主の祈りは、この聖霊なる神の助け無しには、本当の意味では祈れないのです。
最後に、口を大きくあけるということは、具体的にはどういうことなのか?あるいは、聖霊に満たされ続けるにはどうしたらいいのか?ということを考えてみたいと思います。
あの主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていたベタニヤのマリアのように、デボーションの時、つまり一人静まって、心を主にだけ向けて、聖書のことばに耳を傾けることを、キリストの弟子として生きていくためにはどうしても必要なこととして、毎日最優先で持つ。
主に大きな期待をもって具体的に祈り求める。聞く祈りから大きく願い求める祈りに!それが大きく口をあけるということ。そして主の声に聞き、従う聞き従って主の道を歩むこと。罪が示されたなら、すぐに罪を主イエスに告白して悔い改めること。水路のつまりをいつもそうじすること。それが、聖霊に満たされ続ける秘訣。いのちの水を豊かに受け続ける秘訣。そして、主イエスの力によって、敵に勝利する秘訣。
大きなビジョンを持って、大きな期待を持って、共に主に祈り求めましょう!口を大きく開けて、いのちの水を溢れるほど飲んだなら、弱い者が強くされ、無力な者が主の霊によって、力ある大きな働きをすることができるのです。
『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。ゼカリヤ4:6
天の父なる神様。
なんと私たちは、あなたに期待することの少ない者でしょうか。
お赦し下さい。…
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