NEW! 2001年 9月30日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)

キリストの弟子の祈りB
御国が来ますように!」


聖書個所:ルカ11章1−4節

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。
   「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
   『父よ。
   御名があがめられますように。
   御国が来ますように。
11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
   私たちを試みに会わせないでください。』」

主題:御国が来ますようにという祈りは、主イエスの愛による支配を求める祈りである

導入:文脈から聴き取ることの出来る大切なメッセージ
    −主の祈りは、キリストの弟子が本当に願うべき祈りである

 少し前から私は、ルカの福音書を順番に読み、そこから聴き取ったメッセージを語らせて頂いています。良きサマリア人のたとえから始めて、ベタニヤ村のマルタとマリアの話、そして主の祈りについて、祈りつつ耳を澄まし、主イエスのメッセージを聴き取ろうとして来ました。
 主の祈りは、イエス・キリストの弟子の生き方において、とても大切な祈りです。ですから主の祈りは、何回かに分けて語らせて頂こうと思い、「キリストの弟子の祈り」というシリーズタイトルを付けました。まず最初は@として、「父よ!」という呼びかけについて語りました。そして前回は、Aとして「御名があがめられますように!」という祈りについて語りました。そして今日は、「キリストの弟子の祈りB」として、「御国が来ますように!」という祈りについて、語らせて頂きたいと思っています。

 ルカの福音書に限らず、聖書の文脈、文の流れはとてもよく考え抜かれています。例えば、ルカの福音書では、あのベタニヤのマルタとマリアの話の後に、この主の祈りが記されています。
 私はこのルカの福音書を読みながら、こんなことを考えました。「どうして、この福音書を書き記したルカは、あるいはルカを導かれた聖霊なる神様は、あのマルタとマリアの話のすぐ後に、主の祈りを記したんだろうか?」「どうしてあの記事の後に、この記事があるのか?」

 このような疑問を持って聖書を読むと、自分に都合のいい聖書の読み方から守られます。私たちは自分の願いや先入観を持って聖書を読みます。それはどうしても避けられないことです。なぜなら、頭を白紙にして、真っ白の状態で聖書を読むということは、実際には無理だからです。
  けれども、文脈、文の流れを大切にしないと、自分の目にとまった一節のみことばだけを取り出してきて、「ああ、神様はやはり私にこのことを願っておられるのだ。」というようなことをしてしまう危険があります。私たちは、聖書の中に自分の願いや自分にとって都合のいい考えを読み込んでしまいたいからです。

 「どうしてあの記事の後に、この記事が記されているのか?」そんなふうに問いかけながら、文章の前後関係を大切にして、聖書のことばに耳を傾ける。そうすることは、自分の願いや勝手な思い込みではなく、著者が、そして著者を導かれた神様がそこで何をお語りたいのかを聴き取るために、とても助けになる読み方なのです。

 マルタとマリアの話のすぐ後に、この主の祈りの記事を記されています。ここに主がお語りになっているメッセージがあります。それは、キリストの弟子が本当に祈るべきこと、キリストの弟子が本当に願うべきことは何かということです。

 私たちはキリスト者であっても、自分の願いを一方的に祈り、「神様、あれして下さい、これしてください。お願いします。」というような祈りをしてしまいやすいように思います。ちょうどあのベタニヤのマルタ姉さんのように。また、うっかりすると、「自分があがめられますように」といった、結局自分の栄光のために神様を利用してしまうような祈りをしてしまいやすいものです。

 私たちがキリストの弟子として、本当に祈り願うべきことを知るにはどうしたらいいのでしょうか?その答えは、主イエスのことばに耳を傾けて、主イエスに聞く祈りをするということです。つまり、私たちがあのベタニヤのマリアさんのように、静かに主に聴く祈りをするなら、何をどう願ったらいいのかを知り、みこころにかなった祈りをしていくことができる。そんなことを主は、教えて下さっているのではないでしょうか。

 主イエスが祈り終えた時、あの弟子の一人は、「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 と、主イエスの御許に来てお願いしました。そしてその後、弟子は主のことばに真剣に耳を傾けたのです。それ故に、あの弟子は、この主の祈りと呼ばれる素晴らしい祈りをイエス様から教えて頂くことが出来たのです。この主の祈りの中には、キリストの弟子が本当に祈り願うべきことが、簡潔にしかも美しくまとめられています。

 イエス様に尋ね、そしてイエス様のことばに耳を傾ける。これを実践したのが、あの主イエスに尋ね聞いた弟子でした。今私たちには、日本語に翻訳された聖書があります。そしてこの聖書には、主イエスにどう祈ったら良いのかを訪ねたあの弟子と、それに答えて祈りを教えて下さった主との対話が記録されているのです。この聖書のことばに静かに耳を傾けることを通して、私たちも、何をどう願ったらいいのかをはっきりと知ることができるのです。

 主イエス様が、「祈るときには、こう言いなさい。」と教えて下さったキリストの弟子の祈りから、今日は「御国が来ますように。」 という祈りを、ご一緒に味わっていきましょう。あるユダヤ教の教えの中には、「御名と御国について祈らない祈りは祈りではない」というふうに記されているそうですが、この御国を求める祈りは、キリスト教にとっても欠かすことの出来ない、とても大切な祈りです。

本論:神の国のすでにといまだ−御国を来たらせたまえと祈る土台と必要

1、神の国とは、すでに来てくださった主イエスの愛による支配である

 11章の2節をもう一度見て下さい。

11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
   『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。

 主イエス様は、30歳になられる頃まではナザレという村で、両親に仕えられながら大工をしておられました(大工といってもイスラエルでは石で家を建てるのでかなりの力仕事だったと思われる)。そして30歳になられた頃、公に宣教活動をなさるようになり、イスラエルの各地を歩き、教えを始められました。それまでのイエス様の生活については、ほとんど聖書に記録されていません。けれども、伝道活動に入られた後のイエス様については、詳しく記録されています。イエス様が伝道活動に入れらた時、まずどのようなメッセージを語られたか、皆さん覚えておられるでしょうか?

 ルカの福音書にははっきり記されていませんが、マルコの福音書には「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」というメッセージが記されています。

 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 御国と神の国とは、まったく同じ意味のことばです。「時が満ち、神の国は近くなった。」という御言葉は、「時が満ち、神の国はもうすでに、ここに近づき到来した。神の国はすでにここに来ている。だから悔い改めて福音を信じなさい」というようにも訳せる、驚くべきメッセージなのです。すでに神の国は近づき、到来した。そうイエス様は宣言されて、神の国の福音を宣べ伝えられたのです。

 「神の国はもうすでに来ている」という主イエスの宣言は、この主の祈りのすぐ後にも記されています。それは、ルカの福音書11章の14節から20節の所です。
  主イエスは悪霊につかれておしになっていた人から、悪霊を追い出されました。それを見ていた人々はびっくり仰天するとともに、主イエスに対して、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言い出すものもいました。その人たちに対して主はこう宣言されたのです。11章20節を見て下さい。

 「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」。つまり御国、神の国とは、すでに来られた主イエスの、愛による支配のことなのです。そして主イエスは、罪と死とサタンに支配されていた私たちを神の愛の支配のもとに救い出し、死から永遠のいのちに移して下さるまことの救い主、キリストなのです。

 あのアメリカで起こった同時多発テロを筆頭に、21世紀を迎えたこの世界には、神の国が私たちのところに来ているとは思えないほどの、悲惨な出来事が後を絶ちません。けれども、現実の只中で、主イエスに対しての信仰がぐらついてしまい、すでに神の国は近づき到来しているということが信じられなくなるような経験したのは、決して現代の私たちだけではありません。

 あの主イエスの道備えをしたバプテスマのヨハネが生きていた時代。つまり2000年ほど前、主イエスがこの地上に来られた時代も、まさにそのような希望を持つことが非常に困難な時代でした。バプテスマのヨハネは、主イエスが現れた時には、主イエスを力強く指差して「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ1:29)」、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。(ヨハネ3:30)」と証ししました。

  しかしあのバプテスマのヨハネでさえも、捕らえられて獄の中に入れられていた時、主イエスに対する信仰が揺れ動きました。バプテスマのヨハネが弟子に託して、獄中からイエス様に言い送ったメッセージを聞くと、そのことがよく分かります。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。(マタイ11:3)」とヨハネは主イエスに問うたのです。
  そしてヨハネのところから来た弟子たちに対して、主イエスはこうお答えになりました。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。(マタイ11:4−6)」と。

 目の見えない人が見、足の悪かった人が歩き、らい病人がきよめられ、耳の聞こえなかった人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられる。これらの人たちに共通していることは、社会の片隅に追いやられた人たち、貧しい人たちであるということです。神の国は、そのような孤独と絶望の中に住んでいた人たちの所に、まず近づき来たったのです。

 旧約聖書を見ますと、実は預言者によって、これらのことが将来必ず起こるということが預言されていたことを知ることが出来ます。そして驚くべきことに、これらの約束の一つ一つが、主イエスが来られたことによって、出来事となったのです。まさにこれらの出来事こそ、主によって語られたことは必ず実現するということを証しすると同時に、時が満ちて、神の国が近づき、そしてもうすでに到来している。ということを目に見える形ではっきりと証ししていたのです。

 その後バプテスマのヨハネは、ヘロデによって首をはねられて地上の生涯を終えました。しかし主イエスのもとに遣わした弟子たちの報告によって、信仰が強められ、獄屋も剣も、ヨハネの信仰の炎を消すことは出来なかったことでしょう。

 新約聖書の中には、次のようなことが記されています。それは、私たちの主イエスが、エルサレムに向かって旅をされたこと、そして私たちの罪のために十字架につけられて殺され、墓に葬られたこと。しかし3日目に主は復活され、今も生きておられること。そして今、主イエスは天において、神の右の座で私たちのために、この主の祈りを共に祈り、とりなしていて下さっているということです。
  これらのことによって新約聖書は、世界で最初のクリスマスに、あのダビデの町でお生まれになった主イエスこそ、まことの救い主、キリストであることを、はっきりと証言しています。

 「この天と地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。(マタイ24:35)」と聖書に記されていますが、たとえこの世界がどんな状況になったとしても、私たちがこの聖書のことばに落ち着いて耳を傾けるならば、揺れ動く地にあっても信仰が支えられ、堅く信仰に立って信仰の勝利者になることができるのです。なぜなら、すでに世に勝って下さった主イエスと共に歩むなら、悲しみが尽きないこの世にあっても、日々神の国を味わいながら、生きていくことが出来るからです。

 今も主は、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)」 と語っておられます。

 さて、これまで、「神の国とは、どんなに現実が絶望的であったとしても、もうすでにそこに到来している主イエスの愛による支配である」、ということを考えて来ました。この、神の国がすでに近づき、私たちの現実の只中に来ているという事実こそ、私たちの希望の土台、信仰の土台であるとも言えるでしょう。

 しかしここで改めて考えてみたいことがあります。それは、主イエスが、「御国が来ますように」と祈りなさいと教えてくださっているということです。「御国が来ますように」と祈らなければならないということは、神の国の到来が「もうすでに」であると同時に、「しかしいまだ」であるという事実を意味しています。
 ある神学校の先生は、神の国のことを生徒に教える時、神の国には「すでに」という現実と「いまだ」という現実があって、両方ともとても大事なんだということを、いつも強調されたそうです。それで、あまりにも「いまだ。しかしすでに。」ということを口にされたので、生徒から「いまだ、しかしすでに先生」というようなあだ名をつけられたそうです。私たちも、神の国の「すでに」ということに続いて、今度は「いまだ」というもう一つの大切なことを考えてみましょう。

2、神の国とはいまだ来ていない主イエスの愛による支配である
  ⇒だからこそ主イエスは「御国が来ますように」と教えて下さった

 ここでもう一度、主イエスが公生涯に入られた時、まず最初に語られたメッセージを思い出して下さい。

 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 確かに神の国とは、どんなに現実が絶望的であったとしても、もうすでにそこに到来している主イエスの愛による支配です。しかし主イエスの「神の国は近くなった。だから悔い改めて福音を信じなさい。」というメッセージは、神の国の中に入るためには、悔い改めて福音を信じる必要があることを語っています。

 神なしで、自分の力で生きていけると思っている人、神に頼るほど自分は弱くはないと思っている人、神などいてもいなくても自分の人生には関係ないと無関心な人。神を神とせず自己中心に生きている人。そういう人は皆、神に背を向け続けて生きている人です。けれども神に背を向け続けて生きている人は例外なく、いまだ神の国に自分から入ろうとしない人たちです。神に背を向け続けて生きている人は、主イエスの愛を受けようとしない故に、いまだに神の国の外にいるのです。

 自分の造り主なる神に背を向け続けて生きている人に対して、主イエスは「わたしの方に向きを変えて、私の愛の中に入りなさい。」とおっしゃっているのです。悔い改めるということは、方向を変えるということを意味しています。

 福音、ゴスペルとは何でしょうか?福音とは、主イエス・キリストが私の罪のために十字架で死なれたこと、葬られたこと、3日目によみがえられたことを信じるならば、信じるだけですべての罪が赦され、神を父よと呼ぶことの出来る神の子どもとされ、神の国の中に入れられるという神からの良き知らせのことです。

 福音を信じるということはどういうことでしょうか?それは、神に背を向け続けて生きていた人が、イエス・キリストを主として自分の心の中に、自分の人生の中に受け入れるということです。主イエスは言われます。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)」と。
 もしあなたが自分の心を開いて、「イエス様。私の心の中に入って下さい。そして私の主として、私の人生を導いて下さい。」と祈るなら、主イエスはどんなに罪に汚れている心であっても、その心の中に入って下さり、内側からあなたを新しく創造し、あなたの心を愛によって統べ治めて下さいます。

 キリスト者が「御国が来ますように」と祈る時、それはまず第一に、自らの心の王座を主イエスに明け渡し、主イエスを心の王座に主として迎える祈りなのです。キリスト者であっても、自らが主になってしまったり、イエス様以外のものを主としてしまうことがいくらもあります。ここに主の祈りを日毎に祈る必要があります。主イエスを心の王座に迎える時、そこにはすでに到来している神の国、すなわち主イエスの愛による支配があります。

 キリスト者が「御国が来ますように」と祈る時、第二にそれは、聖霊なる神様ご自身を求める祈りです。「父よ!」という呼びかけについてのメッセージの時に読みましたが、実はこの主の祈りのすぐ後に、どういうふうにこの主の祈りを祈ったらいいのか、その祈り方が記されてあるのです。
 そこには、真夜中に友人の家の扉を執拗に叩き続け、あくまでも頼み続けるなら必ずその求めに答えて下さるというたとえが記され、そして有名な「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(11:9−10)」という約束があります。主の祈りはそのような熱心さを持って、祈りが答えられるまで、約束が完全に出来事となるまで忍耐もって祈るべきだと主は教えて下さっているのです。

 そして最後には、求める者に必ず聖霊を与えて下さる父なる神様の約束が、記されてあります。11章13節を見て下さい。

11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。
    とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

 ここでどうして突然、聖霊を必ず与えて下さるという約束が記されているのでしょうか?それは、聖霊なる神こそ、主の御名があがめられるためにいまも父なる神、子なるキリストと共に全力で働かれ、そしてこの地上において、神の国がいますでにそこに来ているという力強いしるしを行なってくださり、私たちに神の国を体験させて下さるお方だからです。

 キリスト者が「御国が来ますように」と祈る時、第三にそれは、神に背を向け続けて生きている故に、いまだ神の国に自分から入ろうとしない人たち、いまだ神の国の外にいる人たちの人生の中に、神の国が来ますようにというとりなしの祈りなのです。すべてのキリスト者は信仰の先輩たちのこのとりなしの祈りによって、神の国に運び入れられているのです。(私の証し:洗礼を受けた後、祈祷会に行って知ったこと。初めて会った人たちが、「野町さん。あなたのために祈っていましたよ!」と喜びながら語って下さった。⇒祈られていた故に、主を信じ、洗礼を受けることが出来たということの実感と感謝!⇒今度は私たちの番。私たちが、いまだ神の国の外にいる家族・親族、友人、求道者の方々のためにとりなすことを切に願っておられる主。)

 そしてこれからも、教会の祈りと出て行く宣教の業を通して、御国の福音は全世界のすべての国民にあかしされて行くでしょう。そして、それから終わりの日がくることを聖書は預言しています(マタイ24:14)。収穫は多いのですが、働き人が少ないのです。主イエスは、この御国の福音のために、喜んで働き人になる人を今も求めておられます。それぞれ献身の仕方、仕え方は違います。けれども、あなたも、この福音のために、神の国とその義をまず求めて生きる生涯を歩んで頂きたい。そうイエス様は願っておられます。

 キリスト者が「御国が来ますように」と祈る時、第四にそれは、再び来たり給う主イエスを待ち望む祈りでもあります。最後に黙示録22章12節から15節をお読みしたいと思います。

22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。
22:15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。
黙示録22:12−15

祈り


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