Nov. 11, 2002

福音主義神学会・中部部会 2002年秋期研究会資料

『神の痛みの神学』のキリスト中心的理解

The Christ-centric understanding of “Theology of the Pain of God”

日本同盟基督教団・豊橋ホサナキリスト教会伝道師
野町 真理


Abstract

 Kazo Kitamori, a Japanese theologian wrote the book named "Theology of the Pain of God"(translated into English in 1965).And Karl Barth wrote "Evangelical Theology: An Introduction".In this foreword to Japanese, he presented a very serious question to Kitamori's Japanese style theology.

 In this thesis, having addressed to Jesus Christ described in the Synoptic Gospels, the author is trying to seek the Christ-centric understanding of "Theology of the Pain of God", by focusing the Greek word "splagchnizomai", which has the same nuance as the phrase in Jeremiah 31:20 : "my bowels are troubled for him".

 By "splagchnizomai", the painful heart or joy of God is in a Christ-centrically spoken of more eloquently and abundantly. It is the amazing love of God that forgives repentant betrayers without condition and brings about a reconciliation only by grace.

 The Christ-centric understanding of "Theology of the Pain of God" enabled me to avoid being affected by Japanese style theology and understand "Love based on the Pain of God" more concretely and abundantly.This concrete and abundant understanding of "the Pain of God" moves us humans from the bottoms of our hearts.The sympathy toward "Love based on the Pain of God" prompts us to love God as God in the true meaning of the word.And this moving love will improve our sensibilities to pain and become the motive for us to love and forgive each other and to live together being neighbors.

1、はじめに

 この研究発表は、東海聖書神学塾における1999年度卒業論文に基づくもので、北森嘉蔵(1916−1998)の主著『神の痛みの神学』(1946年に日本で出版され、1965年には英訳されている)を考察し、その素晴らしい点に倣いつつ、同時にその課題点を克服しようと試みたものである。

 北森は『神の痛みの神学』において、聖書(特にエレミヤ31章20節)に基づき、「痛む神」という神観を全面的に提示した。これは、西洋のキリスト教神学が持っていた「苦しまない神」という非聖書的な神観に対しての大きな貢献であった。これまで日本の神学会において、北森の『神の痛みの神学』は、あまり注目されてこなかったように思われる。しかし、今日の西洋を代表する福音主義神学者アリスター・マグラス、またユルゲン・モルトマンといった著名な神学者たちは、北森の『神の痛みの神学』を高く評価している。

 しかし西洋の神学者たちが、全面的に北森の『神の痛みの神学』を受け入れているわけではない。特にカール・バルトは、その著書『福音主義神学入門』の日本語版序文において、『神の痛みの神学』の日本的な部分に対して、真剣な疑問符を提示している。

 論文では「絶対他者か痛む神か?」というテーマを掲げ、北森の提示した「痛む神」という神観と、バルトの提示した「絶対他者」という神観を巡って、聖書に基づいてそれぞれの神観についての考察を行った。

 そしてその考察に基づいて、共観福音書の中に用いられている、スプランクニゾマイというギリシア語に注目し、キリスト中心的な『神の痛みの神学』を試みた。スプランクニゾマイは、エレミヤ31章20節「我が腸かれの為に痛む(わななく)」と同じ響きを持った言葉である。しかし北森は『神の痛みの神学』において、スプランクニゾマイについては何も言及していない。

2、論文のアウトライン

 第一章 序論 「絶対他者」か「痛む神」か?

 1、神観の重要性について
 2、北森嘉蔵とカール・バルトの神観の相違
   北森嘉蔵の神観―「痛む神」
   初期のカール・バルトの神観―「絶対他者」
 3、神の受苦不能性について

 第二章 『神の痛みの神学』の中心的主張点

 1、「神の痛み」なる概念の根拠とされる釈義的研究
   −エレミヤ31章20節とイザヤ63章15節
     エレミヤ31:20について
     イザヤ63:15について
 2、痛みにおける神
 3、神の痛みと歴史的イエス
 4、神の本質としての痛み
 5、神の痛みへの奉仕

 第三章 『神の人間性』に見る後期カール・バルトの神観
      −神の神性の内に含まれる神の人間性(神の受苦性)

 1、かつての方向転換の回顧と新たな方向転換のための命題提起
 2、命題のキリスト論的展開―「神の神性」と「神の人間性」のキリスト中心的理解
   
「神の神性」のキリスト論的理解
   「神の人間性」のキリスト論的理解と「神の受苦性」

 第四章 『神の痛みの神学』における課題点

 1、日本的な神学であることについてバルトが真剣な疑問符を提示した理由
   日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰(1944年)
   日本的思惟とは
 2、『神の痛みの神学』における課題点
   A、痛みの類比における課題点
   B、神観についての課題点

 第五章 『神の痛みの神学』のキリスト中心的理解
     −新約聖書におけるスプランクニゾマイ
     −神の神性の極み(核)としての神の人間性

 1、共時的に見た新約聖書におけるスプランクニゾマイ(12箇所)

  ●マタイの福音書におけるスプランクニゾマイ(5個所)

  @マタイ9:36(参照マルコ6:34 )
  羊飼いとしてのイエスの、失われていた羊に対する深い愛と宣教の情熱を表わすスプランクニゾマイ
  …実際に倒れていたわけではないと思われるが、主の瞳に映る群衆の姿は、
    羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている姿であった。

  Aマタイ14:14(参照マルコ6:34)
  イエスの後を追ってくる病んでいる人々を癒すスプランクニゾマイ

  Bマタイ15:32(参照マルコ8:2)
  空腹の群衆を見られたイエスの口から、 弟子たちに対して出たスプランクニゾマイ

  Cマタイ18:27(マタイ18:21−35)
  1万タラント(6千億円)の借金を赦す王のたとえ
  −赦し難い罪の負債を徹底的に赦すスプランクニゾマイ

  Dマタイ20:34
  二人の目の見えない人たちの嘆願に応えて癒されるスプランクニゾマイ

  ●マルコの福音書におけるスプランクニゾマイ(4箇所)

  @マルコ1:41
  ひとりのらい病人の信仰による嘆願に応えられ、癒しをもたらすスプランクニゾマイ

  Aマルコ6:34(参照マタイ14:14)
  羊飼いとしてのイエスの、失われていた羊に対する深い愛を表わすスプランクニゾマイ

  Bマルコ8:2(参照マタイ15:32)
  空腹の群衆を見られたイエスの口から、弟子たちに対して出たスプランクニゾマイ

  Cマルコ9:22
  イエスに対しての不信仰な祈りの中で用いられたスプランクニゾマイ

  ●ルカの福音書におけるスプランクニゾマイ(3箇所)

  @ルカ7:13
  ひとり息子の死を嘆き悲しんでいるナインのやもめを見た時のイエスの思い
  −死を打ち破るスプランクニゾマイ

  Aルカ10:33(ルカ10:25−37)
  良きサマリヤ人のたとえ:強盗に襲われた敵の隣人になった動機
  −(民族間の・神と人との間の)敵意の壁を打ち破るスプランクニゾマイ

  Bルカ15:20(ルカ15:1−32)
  ルカ15章のたとえ:父が遠くに帰ってきた放蕩息子を見つけた時の思い
  −失われた息子を見出した父親の歓喜を表わすスプランクニゾマイ

  まとめ

 2、通時的に見たスプランクニゾマイ
   ―世俗ギリシア語、後期ユダヤ文献、新約聖書におけるスプランクニゾマイ

  A、ギリシア語の用例
  B、後期ユダヤの文献における用例
  C、新約聖書における用例

 スプランクニゾマイのヘブル語ラハムとの関連性について
 ラハミム(ラハム)とヘセッドについて

 総括
 結論

 1、砕かれた人間の姿によって心の底から揺り動かされる神
 2、イエス・キリストによって明らかにされた「絶対他者」であり「痛む神」
 3、キリスト者の生活における苦難の積極的意味

 謝辞
 参考文献

3、内容の総括

 共観福音書に記されているイエス・キリストに目を向け、エレミヤ31:20の「我が腸かれの為に痛む(わななく)」と同じ響きを持つスプランクニゾマイというギリシア語に注目することによって、キリスト中心的な『神の痛みの神学』を試みた。

 共時的に見たスプランクニゾマイは、キリストに対してだけ用いられており、まさしく神の神性の内に含まれた神の人間性(受苦性)を表現している。

 新約聖書において、イエス・キリストに対してだけ用いられたスプランクニゾマイの持つニュアンスは、エレミヤ31:20における「我が腸かれの為に痛む」という表現のニュアンス、また、同じテキストにおいて強意形で重ねて用いられているヘブル語ラハムの持つ「深くあわれまずにはおれない、必ずあわれむ」という言葉のニュアンスをさらに豊かに、また雄弁に語っていると考えられる。スプランクニゾマイによって、キリスト中心的に神の痛む心、また歓喜がさらに雄弁に、豊かに語られている。それはただ恵みによって、罪人を自由に赦し、和解へと招く、驚くべき愛である。

 通時的に見た場合、あわれむ、かわいそうに思うといった隠喩(メタファー)的意味は、ユダヤ教の文献と新約聖書にしか見出すことが出来ない。スプランクニゾマイによるラハムの翻訳は70人訳においては実際に導入されていなかった、しかし後期のユダヤ人の文献(12族長の遺訓)において、新しい翻訳として明確に取り入れられた。そしてその用例は新約聖書における用法のための直接的な前提である。

 『神の痛みの神学』のキリスト中心的理解によって、日本的思惟の影響を避けることができ、より具体的に、また豊かに「神の痛みに基礎づけられた愛」の認識が可能となる。この具体的、また豊かな「神の痛み」の認識が、私たち人間を心の底から揺り動かす。そして、「神の痛みに基礎づけられた愛」への共鳴が、私たちを本当の意味で神を神として愛することへと促す。そしてこの揺り動かす愛が、私たちが持っている痛みの感受性を引き上げ、隔ての壁を越えて私たちが互いに愛し、赦し、隣人となって共に生きる原動力となる。

4、結論

(1)主の瞳に映る私たちの失われた姿は、主の心を救いの情熱と魂への愛で満たす

 エレミヤ31:20の「我が腸かれの為に痛む」という言葉、また「彼をあわれまずにはおれようか。私は彼を必ずあわれむ」という言葉によって表現される神の心の動きは、自らの高ぶり、偶像礼拝、背信によって神の怒りの懲らしめを受けたエフライムが、砕かれた、悔いた心をもって、自分の罪を嘆いているのを聞いたときに、主なる神の心の底から生じた動きであった。

 しかしスプランクニゾマイで表現される主イエスの心の動きは、主の瞳に映る、私たちの失われた姿、救いなき姿、望みなき姿によってもたらされる。主の瞳に映る私たちの姿は、良き羊飼いである主イエスから迷い出、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている姿、強盗に襲われて道端に倒れている敵の姿、返済不可能な莫大な負債を主人にもたらしながらもあわれみを乞う姿である。主の瞳に映る私たちの失われた姿は、主の心を救いの情熱と魂への愛で満たすのである。

 しかしそれは、何をしているのか自分でわからないまま、おのおの自分かってな道を歩むことによって、神に敵対し続けている罪人の姿でもある。またそれは、それは、やみの中、死の影の地、涙の谷、愛のない砂漠、荒れ野を満たされることなく、自分勝手にさまよう罪人たちの姿でもある。

 この心の底からのあわれみが、主イエスを具体的な愛の行動へと揺り動かしている。これが神を受肉と受難(COMPASSION)へと向かわせる神の大いなる情熱(PASSION)であり、和解によってあくまでも私たち人間と共に生きようとする動機である。主イエスは、私たちがまだ罪人(神の敵)であったとき、私たちのために十字架に架かって死んでくださり、永遠の愛を明らかにしてくださった。主の赦しとあわれみは、私たちの悔い改めに先行する自由な恵みなのである。

 ルカ15章に記された、放蕩息子の父親に対するスプランクニゾマイは、失われていたが帰って来た息子を、遠くに見つけた時に使われていて、父の心に沸き起こった、はらわたが震えるほどの歓喜を伝えている。失われていた息子、死んでいた息子が帰って来たことで、大喜びする父の姿がここにある。

(2)イエス・キリストによって明らかにされた「絶対他者」であり「痛む神」

 スプランクニゾマイは、キリストにだけ用いられることによって、キリストの痛み・あわれみの質的差異を啓示している。同時に、この語はキリストの最も深いところからの痛み・あわれみを表現している。

 スプランクニゾマイは、まさしく神の神性の極みとしての神の人間性(受苦性)を表現している言葉である。イエス・キリストは地上で最も偉大な人間以上の、人間とは質的に異なった、天地万物を創造された無限の神である。しかし同時に、イエス・キリストは私たちと同じ肉体を持たれ、一人のユダヤ人として私たちの間に住んで下さった人間である。イエス・キリストは喜ぶ者と共に喜び、痛む者と共に痛んで下さった、本当の人間、神のかたちそのものであったと言える。イエス・キリストによって明らかにされた真の神は、人間とは質的には異なるという意味で「絶対他者」であるが、私たちのために仕え、痛んで下さる恵み深い神である。

(3)キリスト者の生活における苦難の積極的意味(神の5つのチャレンジ)

1、赦し(あわれみ)による和解への招き
  一万タラントの借金(罪の負債)を十字架によって赦された者として、
  隣人を赦し、和解の務めに生きる苦難へのチャレンジ
  マタイ18章21−35参照

2、良き隣人となることへの招き
  良き隣人キリストに助けられた者として、他者のために生きる苦難へのチャレンジ
  自ら造った壁を超えて、憐れみ深く共に生きることへのチャレンジ
  ルカ10章25−37節参照:良きサマリア人は敵であったユダヤ人の隣人になった

3、悔い改めと喜びへの招き
  信仰によって神の愛を体験し、喜ぶ者と共に喜ぶ苦難へのチャレンジ
  ルカ15章1−32参照:兄息子のような人(パリサイ人、律法学者)にならないために

4、祈りによる宣教の情熱への招き
  主の眼差しによって未信者を見、収穫の主に、働き手を送って下さるように祈る苦難へのチャレンジ
  マタイ9章35−38節参照

5、信仰への招き
  信仰の苦難へのチャレンジ
  マルコ9章22節においては、主イエスに対しての不信仰な祈りの中で、スプランクニゾマイが用いられている。
   「もしおできになるのなら、私たちをあわれんで(スプランクニゾマイ)、お助けください。」

 スプランクニゾマイの用例を見ると、上記のような5つのチャレンジが語られている。これらはいずれもキリスト者の生活における苦難の積極的意味を提示している。苦難と表現したのは、キリストの愛に揺り動かされて、本気でキリストの命令に従おうとする時、しばしば葛藤や苦痛、困難を感じる故である。キリストは「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい。」と言われる。このキリストに従う歩みとは、キリストの苦しみの欠けたところを満たすことに他ならない。

 苦しむこと、自己否定が目的(ゴール)ではない。しかし、苦難を通して、人間性がその極み(真の人間であるイエス・キリスト)の身丈まで成長すると私は確信する。苦難の意味は、キリストに従うことを通して、私たちがキリストのように変えられるというところにある。それは、私たち自身が全世界の祝福の基として他者のために存在する教会となるためである。福音宣教の使命に生きる教会として、ともに公同のキリストのからだである世界教会のキリストの身丈まで成長していきたい。


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野町 真理