Diary


2004年 4月8日(木)

38度の熱の中で

先週はHBCで中高生スプリングキャンプが持たれ、
私は牧師スタッフとして参加した。
テーマはREAL、講師は北陸KGK主事の大嶋重徳師だった。
とても熱く、イエス・キリストの福音を聞くことが出来た素晴らしいキャンプだった。

しかしキャンプから帰ってきた後、土曜日の夜から38度の熱が出てしまった。
薬を飲んだが熱は下がらず、結局38度の熱の中で、日曜日朝二回のメッセージ、
主任牧師就任式、CS教師任命式等に立つこととなった。
その後に予定していた役員会はさすがに延期して頂いて、
寝込むこととなった。
38度以上熱が出たのは久しぶりだ。
頭がガンガンして眠れない。
自分の痛みだけで精一杯だった。
でもその中で、主イエス様のすごさを改めて覚えさせて頂いた。
主は十字架に磔にされた時、その痛みと苦しみの極みの中で、
他の人のために祈られた。
そのようなことを黙想しつつ休ませて頂き、やっと元気になった。
宣教協力には体力が必要だ。
改めて体を鍛えなおさなければ…^・^。


2004年 3月28日(日)

正教師按手の恵み

先週、日本同盟基督教団の教団総会において、正教師按手の恵みに与ることが出来ました。
主が命がけで愛して下さっている教会を愛し、共に建て上げたいと願います。
今後ともよろしくお願い致します。


2004年 3月19日(金)

思い出のアルバム(愛児舎園長バージョン)

春のことです 思い出してごらん あんなこと こんなことあったでしょう
いのちを捨てた 十字架の愛
僕のいのちを 救うため

春のことです 思い出してごらん あんなこと こんなことあったでしょう
イースターの朝 お墓は空っぽ
イエス様今も 生きている

(今日、10名の卒園生のために、第38回愛児舎卒園式のメッセージの中で歌った歌詞)


2003年 10月10日(金)

野辺山から眺めた八ヶ岳

私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
旧約聖書 詩篇121:1−2

青空を背景にした八ヶ岳の風景。中央に主峰赤岳が見える。

野辺山から眺めた八ヶ岳(松原湖研修会に参加した後の帰り道で)

新キャビン建設のため工事中の松原湖バイブルキャンプ場(MBC)

新キャビン建設のため工事中の松原湖バイブルキャンプ場(MBC)


2003年 9月16日(火)

どうしてもっと早く伝えてくれなかったのか!

 私が初めてイエス・キリストの福音(The Gospel of Jesus Christ)を聞いたのは、20歳の時でした。その時に思ったことは、「どうしてもっと早く伝えてくれなかったのか!」ということでした。それまで、「自分はクリスチャンだ」と名乗る人に出会うこともなく、誰もイエス・キリストのことを伝えてくれなかったんですよ。

 でも、今考えて見ると、すべてのことの背後にあってすべてを統べ治めておられる主イエスが、私にとって最善の時に、十字架の愛と復活の力によって、私を捕らえて下さったんだなあと思います。もしそれ以前に福音を聞いても、私の場合は、聞く耳を持っていなかったように思うからです。私は、「神などを信じることは弱い人間のすることであって、私に神など必要ない!」と本気で思っていたからです。

 いろんな経験の中で、むなしさや苦しみを味わい、自分の弱さや愛のなさを思い知らされ、生きる希望と力を失い、人生の目的や自分の存在価値を必死になって探し求めていた時に、イエス・キリストの福音を伝えてくれる人に出会えたことは、やはり絶妙なタイミング(神の時・カイロス)であったとしか言いようがありません。

 でも、その時から私は、イエス・キリストの福音(The Gospel of Jesus Christ)を伝えていく立場の人になりました。今度は私が、「どうしてもっと早く伝えてくれなかったのか!」と言われてしまうかもしれない立場に置かれているのです。

 ということで、キリスト教のことをもっと知りたい、教会に行ってみたい、聖書を読んでみたい、イエス・キリストを信じたいという方がいたら、ぜひメール(shin@hc-rock.com)を下さい。


2003年 9月15日(月)

宣教協力

 自ら宣教師として中国奥地に移り住んだハドソン・テーラーは、かつて次のような結論に至りました。それは、「一つの地域教会、あるいは一つの教団・教派だけの働きでは、全世界のすべての国民に福音を宣べ伝えることは不可能である」という結論です。

 だからこそハドソン・テーラーは、教団・教派を超えた宣教協力の必要性を声を大にして叫びました。そして、この考えに賛同した多くの方々によって、チャイナ・インランド・ミッションが創設されました。

 このハドソン・テーラーに強く賛同した人物の中に、フレデリック・フランソンという宣教師がいました。フレデリック・フランソンは、スウェーデンの田舎に生まれましたが、後に世界各地に『同盟宣教団(アライアンス・ミッション)』を創設し、多くの宣教師たちを世界中に派遣したのです。フランソンが創設した『同盟宣教団(アライアンス・ミッション)』は、世界のキリスト教未伝地域に超教派的な宣教協力によって宣教師を派遣する教団でした。

 この経緯を覚える時、国内外において世界宣教を現実のものとするためには、教団教派を超えた宣教協力がどうしても必要であることを、私も強く覚えています。超教派的な宣教協力のために必要なのは、キリスト教の本質がシンプルに告白された信仰告白と、自分たちが一番素晴らしく、自分たちだけで世界宣教が出来るなどと思い上がらないキリストにおける謙虚さではないかと私は考えています。

 近隣の諸教会のために祈ることから、教団・教派を超えた宣教協力を始めていきたいと思います。主イエス・キリストが再びこの地に来て下さるまでに、全世界のすべての国民に、共にイエス・キリストの福音(The Gospel of Jesus Christ)を宣べ伝えるために。


2003年 4月17日(木)

World Wide Web (WWW)

アルゼンチン、オーストリア、オーストラリア、ブラジル、カナダ、ココス島、スイス、チリ、中華人民共和国、コスタリカ、ドイツ、デンマーク、エストニア、フィンランド、フランス、ギリシャ、グアテマラ、香港、クロアチア、インドネシア、アイルランド、イスラエル、イタリア、日本、キルギス、韓国、セントルシア、ルクセンブルク、メキシコ、マレーシア、オランダ、ニュージーランド、ペルー、フィリピン、パキスタン、ポーランド、サウジアラビア、スウェーデン、シンガポール、タイ、トリニート・トバゴ、台湾、イギリス、アメリカ諸州、南アフリカ。

上記の国や地域は、私のホームページ(WEBページ)にアクセスがあった国です。
ログをチェックしていない日もあったりするので、この他にも多数の国からアクセスがあったはずだと思います。

主よ。あなたは、全世界に出て行き、すべての造られたもの、すべての民族に福音を宣べ伝えなさいと言われました。
この世界は、今週受難週を迎え、次の日曜日にはイースターを迎えようとしています。
この小さなWEBページをあなたがますますお用い下さって、
この世界に、あなたのみこころが行われる御国が来ますように!
そのために私たちを、争いのある所に和解と平和をもたらす者として遣わして下さい。


2003年 1月16日(木)

トラクト配布による福音の種まき

 私の所属している教会では、毎週火曜日の午前中にトラクト配布を行っています。ここ数年は、駅前で路傍伝道をする際にも、手渡しでトラクトを配布しています。EHCのトラクトも幾つか購入して配っていますが、特に三浦綾子さんのトラクト「私を変えた愛」は受け取って下さる方が多いです。トラクトを受け取るのを拒もうとする方であっても、表紙に書かれた「三浦綾子」という名前を見つけると、「ああ、三浦綾子さんね!」と言いながら快く受け取って行かれる。そんなことがよくあります。

 種まきというのは、収穫を期待するからこそ出来る働きだと思います。そして、収穫 を期待しつつ種まきをするなら、収穫の時期に、きっと喜びながら刈り取りをするこ とができると信じています。 昨年私は、小さな庭にかぼちゃの種をまきました。たくさん虫にかじられたりしまし たが、それでも1つだけ、小さなかぼちゃを収穫することが出来ました。これも、もし種まきをしなければ、収穫することは出来なかったことでしょう。福音の種まきも同じではないでしょうか?

 トラクトを配ったからといって、すぐに反応があることはめったにありません。けれども祈りつつ福音の種まきを続けていると、時々トラクト配布による福音の種まきが実を結び、救われる方が起こされます。そうした方が、今度はトラクト配布に加わって下さるということもあります。そんな時は、本当に主を賛美する思いと喜びで、心がいっぱいになります。

 マタイ福音書9章36−38節の御言葉に耳を傾けると、主イエスの瞳に映っている 多くの未信者の姿を見ることが出来ます。それは、羊飼いのいない羊のように弱り果 てて倒れている姿です。主はその時、内臓が震えるほどの憐れみに揺り動かされて、弟子たちに次のようなチャレンジを与えられました。「収穫は多いが、働き手が少な い。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさ い。」


2003年 1月9日(木)

路傍伝道

 今日は新年初めての駅前デッキでの路傍伝道を行った。神学校を卒業した2000年の春から始めた路傍伝道。今年で3年目になる。ほとんど毎週木曜日の夕方には駅前に出て行く。午後6時から約30分、ギターを片手に路傍に立ち、神を賛美しながらイエス・キリストの福音を、目の前を通り過ぎていく人々に向かって語りかける。

 「豊橋の皆さん!私たちは住吉町、藤の花女子高の南にあります、豊橋ホサナキリスト教会から来たクリスチャンです。今日皆さんに、聖書に記されているゴスペル、神様からの素晴らしいメッセージをぜひ知ってもらいたいと思って来ました。
  皆さん。人生の中で、最もつらい時はどんな時でしょうか?それは自分がいてもいなくてもいい存在だと感じる時ではないでしょうか?かつて私もそんなふうに感じたことがありました。もし私がこの世の中から消え去っても、だれも本気で私のことを悲しんでくれる人なんかいないのではないか。そんなふうに思ったとき、背筋が凍るような孤独を覚え、生きる力を無くしたことがありました。皆さんはどうでしょうか?
  けれども、あなたの造り主なる神様は、あなたを愛しておられます!イエス・キリストはあなたを愛しておられて、あなたに素晴らしい人生を与えようとされています!死が終わりではない人生、永遠のいのちに至る豊かな人生がここにあります。…」そんなふうに祈りつつ福音を語る。

 個人的に始めた路傍伝道が、昨年からは教会の働きとなり、大体毎週、3組の伝道者とその家族が、ギターやバイオリンなどを持って駅前で賛美歌やゴスペルソングなどを歌う。小さな祈り、贈り物、さあ賛美しよう、いつくしみ深き、アメイジング・グレイス、すごく、父の涙、注がれた愛、御名をかかげて、ホサナ高らかに、賛美主ハレルヤ、セレブレイト・ジーザス、すべてが美しい、今はただそれだけ、footprintsなどなど。レパートリーは少しづつ増えている。

 教会の皆さんに祈っていただきながら路傍で語っていると、時々立ち止まって私を見ながら、真剣にメッセージに耳を傾けて下さる方に出会える。今日もそのような高校生が一人いた。EHCの三浦綾子さんのトラクトは相変わらず受け取って下さる方が多い。

 主よ。どうか蒔かれたいのちの種が芽を出して成長し、そして実を結ぶことができますように。いずれかの教会にくる方を起こして下さい。あなたの所に帰ってくる方を起こして下さい。主よ豊橋36万人の魂をお救い下さい。主よ。あなたにはそれがお出来になります。


2002年 3月6日(水)

 今日は水曜日なので、午前中は東田チャペル(豊橋競輪場のすぐ南側にある。50年前、ここからスウェーデンの宣教師が伝道を始めて下さった)に行き、水曜礼拝式に出席。マタイの福音書7章1−5節のみことばからメッセージを聞くことが出来た。人を裁いてしまいやすい弱さを改めて思わされる。午後から夕方にかけてはべテルの最終テストのための備えをした。午後4時から5時までは住吉チャペルでのスタッフミーティングに出席。その後久しぶりに虹を見ることが出来た。夜は7時半から9時まで祈祷会に参加。詩篇113篇を味わいながら祈りの時を持つ。


2002年 2月20日(水)

僕はハッカー?!

 リナックスの革命 ハッカー倫理とネット社会の精神 (The Hacker Ethic−And the Spirit of the information age)
 ペッカ・ヒマネン、リーナス・トーヴァルズ、マニュエル・カステル 河出書房新社(2001年5月) 1600円

を読むと、まず、ハッカーとクラッカーの違いが明記されている。不正アクセスをしたり、ウイルスを作ったりするのがクラッカーで、ハッカーとは、以下の様な人々であるとの定義が紹介されている。

ハッカーとは「プログラム書きに情熱を燃やす」人々で、「情報の共有は影響力大の絶対善であり、自分の専門知識を広く公開するのはハッカーの倫理的義務だから、自作のソフトをフリーで提供したり、可能な場合は情報やコンピュータ資源にだれでも簡単にアクセスできるようにするべきだ」と信じている。

ハッカーとは基本的に「あらゆる種類の専門家もしくは熱中家であり、例えば天文学のハッカーというものも存在する」
by ジャーゴン・ファイル

 そういう定義から言うと、私は神学のハッカーあるいはハッカー的キリスト教伝道師ではないか!

 この本の中では以下の様な興味深い議論がなされている。

ハッカー倫理(仕事との情熱的な関わりかたを示す新しい労働倫理+ハッカー的金銭倫理+ネットワーク倫理)

 ⇔ プロテスタント的労働倫理(by マックス・ウェーバー:プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)

これからじっくり読んで、考えてみたい。


2002年 2月19日(火)

インターネットはからっぽの洞窟?

 何年か前に話題になった本の中に、『インターネットはからっぽの洞窟』という本がある(クリフォード・ストール/倉骨 彰 訳/草思社)。今日、その本を古本屋で立ち読みしていたが、インターネットに対するネガティブな批判はとても新鮮であった。しかし私がホームページを開設し、更新しているのは、からっぽの洞窟の中に、いわば世界で最高の宝物(イエス・キリストの福音)を持ち込むためである。インターネットのホームページを開設するのにそんなにお金はかからない。そしてインターネットは、個人であっても、情報を広く発信することが出来る強力な道具だと私は考えている。


2002年 1月21日(月)

「ハートフル・クリスマスの恵み−チームワークによる宣教」

 昨年の春、日本同盟基督教団の補教師に任命された私は、4月から東三河の牧師会の交わりにも加えて頂いた。東三河には、豊川、豊橋、蒲郡といった愛知県東部の市町村がある。信仰の諸先輩方が熱心に祈りつつ開拓して下さった故に、今この東三河にも、幾つかの教会が建てられている。しかし、約20年の間、この東三河の地には協力宣教が途絶えていたと聞かされた。

 けれども昨年、驚くべき主の導きによって、東三河の諸教会にチームワークが与えられた。そして映画「親分はイエス様」のモデルになったミッション・バラバのご夫妻3組をお招きして、市民クリスマス(ハートフル・クリスマス)をする運びとなった。12月21日(金)、午後と夜、それぞれの集会に500名を越す人たちが集い、そこにたくさんの未信者の方がおられたことを覚え、御名をほめたたえる。豊橋市だけでも約37万人の人々が住んでいて、ほとんどの方は未だ神の国の外におられる。そのような中で昨年、主が建てて下さったこの東三河の諸教会が、協力して地域宣教を行なえたことは、私達にとって大きな励ましとなった。

 今年は、日本と韓国の地でワールドカップの開催が予定されている。サッカーにおいて、チームが勝利するために大切なものは何だろうか?やはりチームワークではないか。もしそれぞれのメンバーが監督の下で一致協力し、それぞれのポジションにおいて良い働きをするなら、必ず勝つことができるであろう。 教会が大宣教命令に従って、全世界のすべての造られたものに福音を宣べ伝え、世界宣教における決勝点を決めるためにも、主によるチームワークが大切であると私は強く感じている。


2002年 1月19日(土)

性的な誘惑に打ち勝つために

 ゴスペルブームの中で、何とかイエス・キリストの素晴らしい福音をお伝えしたいとの思いから、「The Gospel of Jesus Christ」という個人的なホームページ、福音サイトを開設しています。2000年3月、神学校を卒業する時に開設して、もうすぐ2年が経ちます。

  アクセスカウンターが、今12500台になりました。毎日平均20カウントぐらい増えます。(多いときには40カウント)そして時々、求道者の方や、キリスト教に興味がある方から電子メールを頂いたり、掲示板に書き込みがあったりして、祈りつつお返事を書いたりしています。

 けれどもポルノ系、出会い系のサイトの数やアクセス数に比べたら、まったく桁が違うようです。新年聖会で水草先生がそのことについても話して下さいました。インターネットのホームページの7割ほどが、ポルノサイトや出会い系のサイトだということでした。

 今の時代、そのようなことはインターネットに限りません。携帯電話や電子メールアドレスを持っていると、それだけでいやらしいメールが何通も送られて来たりします。本屋さんやコンビニエンスストアに行けば、小学生や中学生でも、Hな漫画や雑誌などを簡単に手に入れることが出来ます。視聴率を最も大切にして作られるテレビやラジオの番組、また映画なども、やはり性的な誘惑に満ちたものが多いのが現状です。 また、高校生の半数以上は性的な体験を持っているという驚くべき報告も紹介して下さいました。誘惑に満ちた現代社会においては、親がいくら子どもに注意したとしても、特に男の子の場合は誘惑に負けて、親の目の届かない所で罪を犯してしまうのではないでしょうか。

 それでは、子どもたちや青年たちに対して、いったい私たちには、何が出来るのでしょうか?まず中高生や大学生、そして青年のために祈るということが、私たちに出来るとても大きなことではないでしょうか。今度朝の礼拝式において、主の祈りの「私たちを試みに合わせず、悪より救い出したまえ」という祈りについてもメッセージさせて頂きますが、子どもたち、中高生、大学生、青年たちが誘惑から守られ、神様から祝福された結婚をすることができるように、真剣に祈りたいと思います。 またやはり、私たち人間は、自分の力や理性では絶対に、罪の誘惑、特に性的な誘惑に打ち勝つことが出来ません。そのことを考えると、祈ることと共に、子どもたち、中高生、青年、また大人たちにイエス様を伝えるしかないと思わされています。


2002年 1月4日(金)

心の支え

しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。
旧約聖書 イザヤ書 9章1節

新しい年を迎えることが出来た。

ある方からの年賀状に、ますます心の支えが必要な時代だと書かれてあった。
読んで思った。「ああ私も、ますます心の支えを必要としている」と。

イエス・キリストの福音を安売りする者はこう言っている。

「信じればすべての悩みや問題がなくなる。
病気は癒され、豊かな人生を生きることができる」と。

でも、キリストを信じて生きる生活は、決してバラ色ではない。
決して雲一つない青空の下を、陽のあたる場所を歩き続ける旅ではない。

キリストを信じていても、信じ切れずに思い煩うことがある。
キリストを信じていても、病気になることがある。
キリストを信じていても、事故に遭うことがある。
キリストを信じていても、投げ出したくなることがある。
キリストを信じていても、人を赦せないことがある。
そして、キリストを信じていても、涙の谷や死の影の谷を通らなければならない時がある。

しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。

キリストを信じていても、苦しみや悩み、問題はなくならない。
でも、主イエス・キリストは、苦しむときそこにある助け、心の支えとして私たちと共にいてくださる。


2001年 11月30日(月)

1年

この日記のページを書き始めたのは、昨年の11月22日だった。

もう1年たった。

教会の暦は、次の日曜日からアドベント(待降節)に入り、クランツに一つ光が灯る。

この一年を振り返ると、いろんなことがあった。

記憶に新しいのは9月11日。
あの同時多発テロがアメリカで起こった日。

あの日、
乗客とテロリストたちを乗せた旅客機が、相次いで世界貿易センタービルに突っ込み、
しばらく後に、アメリカ経済の象徴であったツインタワーは、轟音をたてて崩れ落ちた。

そしてあの日、
アメリカ国防省、ペンタゴンにも、テロリストたちにハイジャックされた旅客機が突っ込んでいった。

そしてその後、テロ攻撃に対するアメリカの報復攻撃が始まり、
今なおアフガニスタンで戦いが続けられている。

天にまします我らの父よ!
願わくは御名をあがめさせたまえ!
御国を来たらせたまえ!
御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ!
我らの日用の糧を今日も与えたまえ!
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ!
我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ!
国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。
アーメン。


2001年 10月22日(月)

失敗学のすすめ

今日、畑村洋太郎著の「失敗学のすすめ」(講談社)という本を買った。
以前大学で学んでいた時から教えられていることを、改めて考えさせられる本だ。

最近注目されているものは何か?それは成功学ではなく失敗学!

なぜか?(失敗学が注目されている理由)

もし失敗の経験から学ぶことをしなければ、 同じ過ちを何度でも犯し、成長がない。
けれどももし失敗から学ぼうとするならば、少なくとも同じ過ちを犯すことから守られ、成長する。
失敗から学ぶということは、なぜ失敗したのかという原因を追求し、それに対処しながら生きること。
自分の失敗から学ぶことも大切であるが、
他人の失敗から学ぶことも、とても大切。

改めて聖書に耳を傾けると、聖書は失敗学のテキストで満ちている。
創世記2章以降は、人間の失敗の連続の歴史が記されているといっても過言でない。

サタンの誘惑に負け、 善悪の知識の木の実を取って食べた(神を神としない) という大失敗。
神ではなく自分の知恵や力に頼ることによる失敗。
自分に栄光を帰したいという誘惑に負ける失敗などなど。

牧会伝道・教会形成において、時に牧師・伝道師も失敗を犯す。
あるいはキリスト者・教会の歩みにも様々な失敗がある。

しかし聖書は、決して失敗なさらない神が、私たちと共に歩んで下さっていることを語っている。
取り返しのつかない失敗を犯した者に、やり直しの機会を与えて下さる神。
失敗を益に(マイナスをプラスに)変えて下さる救い主なる神。
そのお方こそ、私たちのすべての罪過のために身代わりに十字架について下さったお方。
その御名は、主イエス・キリスト。

成功談を聞いても、慰めを受けることはほとんどないが、
失敗談には慰めとやり直すことが出来るという福音がある。


2001年 8月25日(土)

救う力

先日私は海に行って祈ろうと思い、愛車トッポで海辺にまで行った。

豊橋は山と海がわりと近くにあるところで、
車を30分ほど南に向かって走らせると太平洋に出る。

いつもなら何の問題もなく通れるはずの海辺の道をドライブしている時だった。
だんだんと速度が落ち、そして動かなくなってしまった。
あれ、どうしたんだろう。
見ると、タイヤが砂にはまってしまって、 動けなくなってしまっていた…。

先日の台風のせいで、固まっていない砂が道にたくさん積っていたのだ。

さあこまった。
バックしようとしても、 板を持ってきてタイヤの下に敷いてもだめ。
アクセルをゆっくり吹かしても、タイヤは空しく砂の中で空回りするばかり…。

主よ…!。

けっきょく近くにいた、サーファーの方々に助けを求め、
4駆の車にロープで牽引してもらってやっとのことで抜け出すことが出来た。
さすが四駆は違う!力強くあわれなトッポは助け出された。

ふう。助かった。主よ。そして皆さん感謝します。
「 どうもありがとうございました。 」と皆さんにぺこぺこ頭を下げ、
それから聖書を片手に砂浜に行き、
聖書を読んだ。

しばらく波を見ながら、考えていた。

そうだ。私たち人間は調子に乗っていろんな所に行くが、
罪の道をどんどん進んでいってしまうことがよくある。

魅力的な罪におびき寄せられ、ここまでは大丈夫だと思って進んでいく。
すると、知らず知らずのうちに、もう自分では決して抜け出すことのできない深みにはまっていくということがあるではないか。

そうなってしまったら、もう自力ではどうあがいても抜け出すことが出来ない。

ただ一つの救いの道。それは主イエス様に助けを求めることだ。

主イエスは私たちが罪の縄目にがんじがらめにされている時、
そこに来てくださって、私たちを罪の縄目から解き放ち、
再び自由の中へと解放してくださる力を持った救い主なのだから。


2001年 8月22日(水)

私とパソコン

最近自作パソコンのCPUを、セレロン433Mhzから800Mhzに取り替えた。
セレロン800が6,000円台で購入出来たので…。

セレロン800Mhzはシステムバスが100Mhzとなっているので、
マザーボードも交換することになり、A-OpenのAX3S PROを購入した。

私が初めてパソコンに触れたのは、中学生の時だった。

父に買ってもらったパソコンは、MSXという規格のパソコンであった。
MSXとは、現在一般的になったPC/AT互換機の持つオープンアーキテクチャーの走りのような規格だった。

メーカーが違っても、同じMSXのパソコンならソフトが共用出来るという点が、当時のMSXの一番の魅力だった。

中学生の時は帰宅部であった私は、ゲームやBASICのプログラミングにはまりつつ、
パソコンのカバーをドライバーで外して中を覗いたりといったことをよくやった。

今思うと、中学を卒業して高知高専の電気工学科に入学したのも、
MSXのパソコンを買ってもらったことが大きな要因だったと思う。

でも高専の5年間は、研究以外ではあまりパソコンをいじらなかった。
5年間ずっと寮生活をしたが、自分の部屋にはパソコンはなかった。

新入生のための部活紹介の時に、空手道部が瓦割をしたのを見て感動した私は、
なんと空手道部に入部してしまったからであった。
その時のエピソードと空手部での5年間の歩みは、またいつか記したい。

さて、高知高専を卒業した後、恵みによって大学に進学することが出来た私は、
やはり電気・電子工学科に編入学した。

そこでも自分のパソコンを持たない大学生活を送っていたが、
卒論を書くために、図形が描けるワープロをということで、
こんどはマッキントッシュのノートパソコンを買った。
モノクロ液晶で、モデムなどもついてなかったが、これが2台目のパソコンとなった。
このマックは、論文を書く時、プレゼンテーションをする時などに大活躍した。

さらにその後、私は神学校で学生を続けることになった。
最初の3年半の間は、レポート作成のためにマックのノートが大活躍を続けたが、
卒論を書くために、妻の協力によりやっとPCのパソコン(セレロン400)を購入した。

インターネットでの文献検索などは主に大学のパソコンを使わせて頂いたが、
JバイブルやBible WorksといったパソコンソフトがPCで快適に動き、
無事卒論を書き上げることが出来た。

そして昨年のクリスマスの後、名古屋の大須などをうろうろして購入した部品を正月休みで組んで、
初めて自作パソコンを完成させた。

そのパソコンのパワーアップが出来たので、とてもうれしい。
これからも、主のためにこのパソコンを用いていきたい。


2001年 5月13日(日)

今日は小坂井チャペルで、共に主を礼拝することができた。

豊川を渡り、名古屋方面に向かって車を15分ほど走らせると、小坂井町になる。

小坂井チャペルは、1998年4月に生まれたばかりの小さな教会。
でも、そこに集う人たちは、みな生き生きしていて素晴らしい。

こんど6月8日にはフロイデンホールを借りて、ふらっと音楽会をするらしい。
ふらっとというのは音楽記号のあのふらっと。
半音下げるという意味から、
肩の力を抜ける音楽会にしたいとの思いがこめられたネーミングだそうだ。

Tree'sというフルートとピアノで賛美するグループをお招きしての音楽会。

CDで聴いたところ、澄んだフルートの音色とリズム感のあるピアノは、とても素晴らしかった。
今から楽しみだ。


2001年 5月5日(土)

HBC青年キャンプ バージョンアップ2001

今週は木曜日から今日にかけて、
浜名湖バイブルキャンプ場(HBC)にて青年キャンプがあった。

私は当初キャンパーとして申し込んでいたが、スタッフとして参加させていただいた。

東京や大阪、兵庫などから、部分参加も含めるとキャンパーだけで50人以上が集った。
中国人の方も参加して国際色豊かなキャンプでもあった。

鍋バイキングからはじまって、炎のバーベキュー、そしてうなぎ丼などなど、
食事もとってもおいしかった。
キッチンの方々に感謝。

卓球のトーナメント、一発芸大会、潮干狩り、釣り、ゲームなどなど、
多彩なプログラムとゴスペルアワー、また出会いと語らいの時はとてもよかった。

今回のキャンプの講師は、武庫之荘めぐみ教会の松田吉広先生だった。

まな板の上の恋物語では、既婚者がいろんな質問に答えるという形で
結婚の素晴らしさを改めて味わうことが出来た。

主よ、よき時を持たしてくださったことを感謝します。
キャンプに集った青年たちに大きなビジョンを与えて下さり、
それぞれをとおして、あなたの栄光があらわされますように。
また、それぞれがよき結婚へと導かれ、
祝福された家庭を築くことができますように。


2001年 4月29日(日)

もとやくざ、しかし今は牧師の絶妙なコントラスト

昨日、豊橋にミッション・バラバの2人、鈴木啓之牧師と信田和富神学生が来て、
素晴らしい証しとメッセージを語って下さった。

彼らこそが、7月14日に封切られる映画「親分はイエス様」のモデルとなった方たち。

映画のダイジェスト版上映会の席に、
「福音を語るラッパ」とされたタンクトップ姿の彼らがいた。

肩から腕にかけて残っている刺青と短い小指は、しっかりと彼らの過去を物語っている。
けれども、首から上、その本当に穏やかな笑顔は、キリストによって救われた今を物語っている。

「どんな人でも人生をやりなおすことができる!」、
「もしあなたが信じるなら、神の栄光を見ることが出来る!」
ということを雄弁に語る、
イエス様という親分による絶妙なコントラストが、そこにはあった。

かつて極道の道を歩んでいた者たちが今確かに、奥さんの祈りによって変えられている。

この試写会と証しの時が、東三河諸教会の協力によって実現したことを覚え、心から主に感謝する。


2001年 4月18日(水)

私のおすすめCD

ラリー・カールトンの「アローン・バット・ネバー・アローン」
Alone/But Never Alone by LARRY CARLTON
(MCA RECORDS)
はわたしの一押しのCDです。

彼のアコースティック・ギターのアレンジは最高です。
特にCarrying YouとThe Lord's Prayerはお気に入りです。
疲れた時とかリラックスしたい時は、やはりこの2曲を聴いています^・^。


2001年 3月31日(土)

近況報告です

先週

静岡県つま恋で持たれた日本同盟基督教団の教団総会に参加。
その中で私も、補教師として任命される。
豊橋ホサナキリスト教会の皆さんと、東海聖書神学塾の先生方、その他たくさんの方々の祈りと励まし、
そして何よりも主に心から感謝します。
そしてこれからもよろしくお願いします。

補教師試験最終面接での会話:
「同盟教団でやる気があるのかないのか、それを聞きたい(理事長)」⇒「あります(私)」

今週

浜名湖バイブルキャンプ場(HBC)にて中高生キャンプが持たれた。
テーマは「出会い」。
今回も私はカウンセラーとして参加。
こてこての大阪弁で、井上賢二郎師が熱いメッセージを語ってくれた。
主よ。キャンプ場からそれぞれの所に、イエス様と一緒に戻っていった一人一人の歩みをお導きください。

P.S.

4月の半ばに教会のすぐ近く(ゲストハウスのとなり)に引っ越すことになりました。


2001年 3月11日(日)

感謝!WEBサイト開設1周年

ホームページ作成に凝るわが夫
妻はパソコン触れれず見れず

これは妻の作です。^・^


2001年 3月1日(水)

What a friend we have in Jesus!!!

現在このWEBサイトのホームページ(トップページ)にて聴ける曲は、「What a friend we have in Jesus」という賛美歌です。
意味は、「なんて素晴らしい友なのだろうか。イエス様というお方は!」というようなニュアンスだと思います。
この曲は、日本語では「いつくしみ深き」とか「罪とがを荷のう」という名前で親しまれています。

私はこの曲が大好きです。自分の結婚式でも歌いました。
自分の葬儀の時にも、この歌を歌って頂きたいと思っています。

素晴らしい賛美歌やゴスペルソングは、
深い悲しみや苦しみの中から生まれた曲が多いように思います。
この曲の詩もそうだと聴いています。
ジョセフ・スクライブン(Joseph Scriven)という方の深い悲しみの中で、
この歌詞は生まれたそうです。

作曲は、チャールズ・C・コンバース(Charles Crozat Converse)という方によります。

英語の歌詞(1番)を訳すと、次のような感じの内容です。

なんて素晴らしい友なのだろうか!イエス様というお方は!
私たちのすべての罪や悲しみを、一緒に背負ってくださるのだから。

なんて素晴らしい特権なのだろうか!
祈りのうちに、
神様にすべての悩みを打ち明けることができるなんて!!!


ああ。なんとよく、私たちは心を騒がせてしまうのだろうか。
なんとしばしば、味わう必要のない痛みを味わってしまうのだろうか。

それらすべてのことは、私たちが祈りのうちに、
神様にすべての悩みを打ち明けないことから来るのだ!


ゴスペルソングの中でも、本当に苦しい時や悲しい時に歌える歌は多くないように思います。

そんな中でこの歌は、心躍る喜びの時にも、深い悲しみに打ちひしがれる時にも、
歌うことの出来る曲です^・^。

の野上絢さんありがとう!


2001年 2月14日(水)

パフォーマンスをする動機

この世の中は、ますます能力主義になっているように僕は思う。

パフォーマンスをして自らの能力を他人にアピールしなければ、
大切な存在として受け入れてもらえないという傾向が強くなっている。

家庭においても、学校においても、社会においてもそうだ。

そこにあるのは、パフォーマンスによって、愛されようとする生き方だと思う。

パフォーマンスによって、自らの存在価値やアイデンティティを築き上げようとする生き方。

絶えず、「何かが出来るかどうか」というものさしを持って、
お互いにはかり合い、だめなやつだとかすごいやつだとかレッテルを貼り合う生き方。

たぶん、中高生が切れたりぐれる原因の一つは、能力主義から来るプレッシャーだと思う。
自分のためにパフォーマンスをする生き方は、
いつも不安で、孤独とむなしさがあるから。

聖書は、ボランティア活動をしたり、奉仕活動をしたりすることを大いに勧めている。
でも、人に見せるために、あるいは人にほめられるために、
パフォーマンスをすることは、厳しく否定している。
なぜならそれは、自己崇拝の生き方だから。

聖書は、造り主なる神様の無条件の愛を語っている。
あなたの造り主なる神は、あなたに能力も、いのちも、健康も与えて下さっているお方である。
あなたの造り主なる神は、 あなたのことをとても大切な存在として愛しておられる。
そう。ありのままのあなたを、いのちをかけても惜しくない、スペシャルな存在として愛しておられる!

ゴスペルとは、この造り主の大きな、そして無条件の愛のことを意味している。
イエス様は、いつもあなたとともにおられる。
この無条件の愛を知れば知るほど、あなたは人の目から解放される。

この神の愛を土台にして生きる人生は、神と人とのためにパフォーマンスをする生き方。
それは自分を通して、神がほめたたえられる最高の生き方。
そこには喜びと平安と感謝がある。


2001年 2月4日(日)

「交わりの神様」

IT(情報技術)革命の中にあって、私もこのようなWEBサイトを作成しています。

アクセスカウンタの数が毎日少しずつ増え、電子メールをやりとりしたり、掲示板に書き込みがあったりします。
でも、人と実際に会ってコミュニケーションをするのとはずいぶん違うことを実感しています。

イエス様によって明らかにされた、聖書の神様とは、実際に私たちの所に足を運んで下さり、
文字どうり顔と顔とを会わせてコミュニケーションをして下さるお方です。

聖書では、 コミュニケーションという言葉の代わりに、「交わり」という専門用語が使われます。
そして聖書の神様は、「三位一体の神様」、「交わりの神様」と呼ばれています。

父なる神様、子なるイエス様、そして聖霊なる神様は、
コミュニケーションにおいて、交わりにおいて一体になっておられる神様なのです。

そして聖書は、人間は神のかたちに似せて造られたと語っています。
神のかたちの一側面は、関係の中で生きておられるということだと思います。

人間が、一人では生きていけない理由がここにあるのではないでしょうか。

コミュニケーションにおいて、関係の中で生きるように、
私たち人間は造られているのです。

IT革命が、本当の意味でコミュニケーションを創造していくための道具として使えたらと願うのですが、
インターネットは、実際に会って話し合うことの代りにはならないことを痛感しています 。


2001年 1月19日(金)

WMAとMP3について

昨年末から、このWEBサイトではWMA(ウィンドウズ・メディア・オーディオ)形式の音声データによる
ゴスペルメッセージを試験的に配信しています。

理由は、MP3形式と比較した場合、
WMA形式の方が約半分のデータ量に圧縮出来、なおかつMP3と同程度の音質が得られるからです。

WMA形式の問題点は、現在はMP3形式ほどに普及されていないという点です。
試験的にという意味は、まだまだ一部の方にしか聞いてもらうことが出来ないからです。


2001年 1月3日(水)

「The sixth day」

今日は久しぶりに映画館に行き、「シックス・デイ」を見た。
オリジナルタイトルは「The sixth day」で、
日本語に訳すと、「第6日目」 というタイトルの映画。

このタイトルは、聖書の一番最初の書物、創世記の中の言葉からつけられている。
創世記には、天と地を創造された神が、6日目(the sixth day)に私たち人間を造られたと書き記されている。

20世紀後半には、生命科学・遺伝子工学が発達し、クローン植物や遺伝子組み替え食品、
そして羊をはじめとするクローン動物まで造られるようになった。
また、臓器移植などに伴う脳死の問題や人口受精の問題も生じてきた。
そして、コンピューターとインターネットを駆使した世界的な共同作業によって、
膨大な人間の遺伝子情報(DNA)も解析されつつあり、
人間のクローンでさえも技術的に造ることが出来る危険が生じてきた。

そのため昨年、日本の国会でも人間のクローンを造ることを禁止する法律が出来た。
これはこの映画の中に登場する、<人間が人間を造り出すこと>を禁止した「6d法」と同じ内容の法律。

そして迎えた21世紀。
現実感あふれるこの映画は、見る価値があったと私は思う。

この映画は、科学や技術が悪なのではないと訴えている。

科学技術を使って人間自らが、生と死を支配しようとし、
有用な人間を造り出したり、厄介な人間を殺すこと。
つまり、「神のようになろうとする人間」、
「自分のためだけに人を利用する人間」が悪であることを訴えている。

草は枯れ、花はしぼむ。
ペットはもちろん、あらゆる生き物は、必ず死を迎えなければならない。
私たち人間も例外ではなく、遅かれ早かれ死を迎えるという現実がある。

しかし、自らを神とすることをやめ、イエス・キリストを信じ、主として心の王座に受け入れる者は誰でも、
永遠のいのちを持つことが出来、豊かな人生を生き抜き、からだをもってよみがえることが約束されている。

人間は、神を神とするその時に初めて、両刃の剣である科学技術も、
正しく用いることが出来る。

そんなことを改めて考えることが出来た映画だった。


2000年 12月18日(土)

 今週はアドベント第三週目。クランツには3つの光が輝いている。
今度の日曜日は、いよいよクリスマス礼拝式だ!洗礼式も予定されている。
4時からはクリスマス祝会もある。

 今年は聖歌隊と聖劇スタッフが協力して、クリスマス聖劇「マリヤ−神と共にある女の物語−」が上演される。
その後にはクリスマス・キャンドルライトサービス・祝会と盛りだくさんのプログラムが予定されている。
21世紀を迎える最後のクリスマス。
是非一人でも多くの方が教会に集い、希望の光を見つけてほしいと心から祈る。


2000年 12月9日(土)

 明日はアドベント第二週目。2つの光が輝く。
キリスト教会には、いつまでも残る信仰と希望と愛がある。
そして最高のクリスマスプレゼントも。感謝^・^。
 明日は午後1:30から教会で、ヤングチャペル(教会学校中高生科) と青年会が一緒になって、
わいわいクリスマス会もある。
楽しみ楽しみ。


2000年 12月3日(日)

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」

 今日から教会ではアドベント(待降節)に入り、アドベントクランツに一つ光が灯りました^・^。これからクリスマスに向けて、一週間ごとに1つずつ光が灯り、そしてクリスマスを迎えます。

 今から2000年ほど前、ユダヤのベツレヘムという小さな村で、イエス様はお生まれになりました。 イエス様は、暗やみをてらす光として、私たちのところに、来てくださったのです。 それが、世界で最初のクリスマスに起こったことでした。

 クリスマスキャンドルライトサービスの時、輝くキャンドルの光は、イエス様のことをあらわしています。 イエス様は、こう約束して下さいました。 「わたしは世の光です。わたしに従うものは、決してやみの中を歩むことがなく、 いのちの光を持つのです。」 と。

 ろうそくは、少しずつ自分を燃やしながら短くなり、やがてなくなっていきます。 同じように、イエス様は、あなたを愛する愛の光でいのちを燃やしながら、あなたのために十字架の上で死んで下さいました。 それは、あなたの心の中にあるろうそくに、火をつけてくださるためでした。
  イエス様はお墓に入れられましたが、3日目の朝、よみがえられました。 イエス様は今も生きていて、やみの中に輝いています。 やみはこれに打ち勝たなかったのです。

 キャンドルライトサービスで、ろうそくに火をつけてもらった人は、 イエス様を信じた人のことをあらわしています。 イエス様を信じた人は、心の中にあたたかい光を持つことができ、 まわりを明るく照らすことができるのです。 光を持っている人は、となりの人のろうそくに、火をつけてあげることもできます。 イエス様を信じた人は、あたたかい光を分けてあげることもできるのです。 今年のクリスマス。あなたも教会に来て、消えることのないともしびを持つことが出来ますように。


2000年 11月26日(日)

 私が卒論をインターネットで公開している理由は、ネットの利点を生かして、 多くの方と一緒に「イエス・キリストの福音」の深さ、広さ、長さ、高さを理解していきたいと思っているからです。全文公開しているのは、テーマが大きすぎて、書 いた本人がまだうまくまとめることができないからです。でも、卒論で学んだことを少しずつ説教にしていく中で、改めて教えられつつあります。

 特に神学はその性質上、一人で書斎にこもってする学ではないと思います。 交わりの中で、共に祈りつつ、理解が深められていくことが本来のあり方だと思います。そして教会に仕え、教会を建て上げるための学が神学であると私は東海聖書神学塾で学びました。

  リナックス(最近のネットスケープも)は、いままで探求してきたノウハウをネット上で全面的に公開している故に、多くの方の協力を得て、非常に短期間に、しかも良質なものを共同で作り上げています。

  21世紀に教会も、そのような時代を迎えるような気がします。 そのために私の卒論をたたき台として、恥も顧みず公開しているわけです^・^。

 21世紀に主の教会を全世界に建て上げるために、 世の光、地の塩、祝福の基として他者のために共に生きるために、 福音によって世に勝利するために、 皆さんの考えや理解などを聞かせていただきながら、世界教会的な神学を構築したい と思っています。


2000年 11月22日(水)

 今朝、教会員の方が昨夜突然亡くなられたという知らせを聞いた。今日夜は前夜式、そして明日は葬儀となる。人はいつ死ぬかわからないことを、改めて覚えさせられた。

 同時に、 まだ永遠のいのちを持っておられない多くの方々に、 死の問題にも解決があるイエス・キリストの福音を伝えていかなければ…と思わされた。

 人間は遅かれ早かれ、必ず死を迎えなければならない。 あなたは死の問題に解決をもっておられますか?


The Gospel of Jesus Christ(Shinri Nomachiのホームページ)へ

shin@hc-rock.com

野町 真理