使徒信条

(A.D.2001年 1月22日更新)

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、

天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、

からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。

アーメン

 

我は信ず
神を
全能の父
天地の造り主
その独り子、イエス・キリスト
われらの主
聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり
三日目に死人の内よりよみがえり
天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり
かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん
われは聖霊を信ず
聖なる公同の教会、聖徒の交わり
罪のゆるし
NEW!からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン

 


我は信ず

私たちは誰でも、何かを信じて生きています。

何かを信じていなければ生きていけないからです。

もし何一つ信じれるものがないならば、生きる希望はありません。

多くの人が信じているもの、
それは自分自身、あるいは自分の能力、可能性です。

けれども、 人生の荒波の中で、自分の力ではどうすることも出来ない問題にぶつかるとき、
人は自分自身に頼ることが無力であることを発見します。
そこでは、自分を信じる積極的思考など何の助けにもならないのです。

また、私たちは親友や家族、あるいは結婚相手を信頼して生きています。
しかし、自分さえ幸せになれればいいという考えで生きている人々は、
浮気や不倫、裏切りを平気で行えます。

自分の幸せしか頭の中にない人たちは、
相手や相手の家族が傷つこうが、知ったことではありません。

他人を蹴落としてでも、自分のわがままを実現させたいのです。

日本でも今、不倫・裏切りによって、
離婚する夫婦はますます増え、
たくさんの子どもたちが深い傷を負って生きています。
多くの人が、家庭崩壊の危機の中で、
信じれるものを必死で探しながら生きています。

そんな中にあって、キリスト教会が告白し続けているのが、
この使徒信条です。

キリスト教会は、力強く「我は信ず」といえる方を知っているのです。

たとえ親しい友が、生涯のパートナーがあなたを裏切ったとしても、
決して裏切ることのないお方を、私たちキリスト教会は知っているのです。

 


神を

あなたは日本語の「神」という言葉を聞いたとき、どのようなお方を思い浮かべるでしょうか?

神棚や神社に祭られている神でしょうか?
お寺に安置されている像や経文でしょうか?
仏壇や墓に祭られている先祖の霊でしょうか?
巨木や大岩、そびえる山、大地といった偉大な自然を見た時に感じる神秘的な何かでしょうか?
太陽や月・星、あるいは宇宙そのものでしょうか?
狐や蛇といった生き物でしょうか?
何かに秀でた人物でしょうか?
かつて現人神(あらひとがみ)と言われた天皇でしょうか?

日本には八百万の神々がいると言われています。

ですから、何気ない会話の中で、同じ「神」という言葉を使っていても、
イメージするお方がまったく違うという場合がよくあります。
そして、その大きな違いに気付かないために生じる誤解が多いように感じます。

 「私たちが「神」ということばを聞いたとき、どういうイメージを持っているのか?」

この質問の答え、つまりその人の持っている神様のイメージは、
どう神様に祈るか、どう神様を拝むかという言動に現れてきます。
そしてそれだけではありません。
あなたが心に思い浮かべる神様のイメージは、
あなたの人生や生き方を決めてしまうほど大きなものなのです。

人が見ていない隠れた所ですることは、神様も見ることが出来ないと考えるなら、
その人は表裏のある生き方をするでしょう。
人が見ていない所で、その人は本当の姿を見せているでしょう。

日本では古くから「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」 と言われているように、
どんな神様(宗教)を信じていても結果は同じだと多くの人が考えています。

また、「いわしの頭も信心から」という言葉は、
どんなものでも熱心に拝めばご利益があるというような考えを表しています。

そんな中にあって、キリスト教会が告白し続けているのが、
この使徒信条です。

キリスト教会は使徒信条によって、
次のような天地万物の創造主である唯一の神を信じていることを告白しています。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

我は聖霊を信ず。


全能の父

キリスト教会が使徒信条によって告白する神は、

まず「全能の父」と呼ばれます。

全能の父とは父としての能力において全能であるという意味です。

すべてのものにいのちを与え、またいのちを取られるお方。
独り子イエス・キリストを死者の中からよみがえらせたお方。

すべてのものの源であるお方。
永遠の父であり、わたしたちの父であるお方。
永遠の愛をもって私たちを愛してくださっているお方。
それが全能の父という呼び方に込められている神のイメージです。

使徒パウロは、かつて熱心にキリスト教徒を迫害していましたが、
復活のキリストに出会い、全能の父なる神を知りました。
パウロは後に大伝道者・牧者としてこのお方のために生きました。
そのパウロが書いた手紙に次のような素晴らしい祈りがあります。

こういうわけで、私はひざをかがめて、
天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、
あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、
あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 すべての聖徒とともに、
その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
どうか、私たちのうちに働く力によって、
私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
教会により、またキリスト・イエスにより、
栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。
アーメン。
エペソ人への手紙 3章14−21節

天地の造り主

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、
したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
ヘブル人への手紙 11章3節

キリスト教会が信じている「全能の父」なる神は、「天地の造り主」なる神です。

天地とは宇宙全体を意味します。

地球も、太陽も月、星も、美しい自然も、 大地も植物も動物も、そして私たち人間も、
この造り主、創造主なる神によって造られたものなのです。

ですから天地の造り主とは、私たち人間の、つまりあなたの造り主でもあるわけです。
このお方がもし存在しなければ、私たちが存在することもなかったのです。
また、今もこのお方によってのみ、私たちは存在しています。
人間はこの造り主なる神から離れて生きるとき、
存在目的、存在価値、アイデンティティを失うのです。

なぜこのお方は私たちを、そしてこの世界を創造されたのでしょうか?
それは私たちを愛するため、いつまでも共に生きるためであったと聖書は語ります。
この天地の造り主は、愛であるゆえに私たちとこの世界を創造し、共に生きようとされるお方なのです。

このことは結婚の誓い(誓約・契約)と非常によく似ています。
全能の父であり、天地の造り主なる神が、まず私たちを永遠に愛することを誓われ、
共に豊かに生きるために、すべての舞台設定をされたのです。

造り主は、人間が神と共に生きていくことが出来る環境を、すべて整えてくださいました。

水、光、空気、食物、衣服、住居、
適度な温度と適度な気圧、有害な宇宙線をカットするオゾン層などなど…。

そして私たちにいのち、肉体、神に応答することができる能力、
自由意志、地を治めることができる能力、生殖能力(DNA)などを与えて下さったのです。

そうして創造されたのが、この地球の生態系(エコロジー)と私たち人間です。

創造主なる神は人間に自由意志を与えてくださいました。
これは人間をロボットのようにはされなかったということです。

造り主がデザインし、無から創造されたものすべては非常に良いものでした。
すべて全能の父なる神、造り主なる神の最高傑作だったのです。

最近地球規模の環境破壊が大きな問題になっていますが、
そのことでこの地球のエコロジーが、絶妙なバランスの上に成り立っていることがわかってきました。
環境破壊は創造主なる神を神とせず、自己中心に生きる一人一人の人間によってもたらされています。

しかし永遠の父であり、天地の造り主なる神は、
たとえあなたがその愛を裏切り、
背を向けつづけていたとしても、
変わることなくあなたを愛し続け、
探し続け、呼び続けて下さっているお方です。

世界中の神々は、
人間を造られた神と、人間が造ったり祭り上げた神々に分けることが出来ます。
そして造り主と造られたもの(被造物)との間には、無限の質的な違いがあります。

私たち人間はどんな人であっても造られた者であって神ではないのです。
どんな家系に生れても、どんなに自己啓発や修行をしたとしても、死んだとしても、
人間は絶対に創造主なる神にはなれないのです。

天皇も人間宣言をしてもしなくても、一人の人間であって創造主なる真の神ではないのです。

日本では太陽を天照大神と呼んで伊勢神宮にまつり、太陽が皇室の祖神として崇拝されています。
けれども太陽も創造主によって造られた被造物であって、真の神ではないのです。


その独り子、イエス・キリスト

イエス・キリスト。
これは、「イエスがキリスト(救い主、メシヤ)である」という単純明快な信仰告白です。
(イエスが名前でキリストが名字というわけではありません^・^)

キリスト教会が「我信ず」と告白する信仰の対象は、
イエス・キリストによって啓示された、
全能の父なる神、その独り子イエス・キリスト、そして聖霊なる神です。
この父、子、聖霊なる神は、
交わりにおいて一つである三位一体の神です。

ヨハネの福音書の冒頭で、
イエス・キリストは
「ことば」、
「父のみもとから来られたひとり子」、
「父のふところにおられるひとり子の神」

と呼ばれています。

初めに、ことば(イエス・キリスト)があった。
ことば(イエス・キリスト)は神(父なる神)とともにあった。
ことば(イエス・キリスト)は神であった。
この方(イエス・キリスト)は、初めに神(父なる神)とともにおられた。
すべてのものは、この方(イエス・キリスト)によって造られた。
造られたもので、この方(イエス・キリスト)によらずにできたものは一つもない。
この方(イエス・キリスト)にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

神から遣わされたヨハネ(バプテスマのヨハネ)という人が現われた。
この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、
すべての人が彼によって信じるためである。
彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

この方(イエス・キリスト)はもとから世におられ、
世はこの方(イエス・キリスト)によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方(イエス・キリスト)はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、
すなわち、その名(イエス・キリスト)を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、
ただ、神によって生まれたのである。

ことば(イエス・キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。

私たちはこの方(イエス・キリスト)の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方(イエス・キリスト)は恵みとまことに満ちておられた。

ヨハネ(バプテスマのヨハネ)はこの方について証言し、叫んで言った。
「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』
と私が言ったのは、この方(イエス・キリスト)のことです。」

私たちはみな、この方(イエス・キリスト)の満ち満ちた豊かさの中から、
恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
いまだかつて神を見た者はいない。
父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
ヨハネの福音書 1章1−18節

ここには、以下のような集中構造によって強調された中心メッセージがあります。
それは、「イエス・キリストを神のひとり子として信じ受け入れた者は、
神によって新生して、神の子どもとされる!」
という素晴らしい福音のメッセージです。

A 1章1−5節
 父とともにおられたひとり子の神
 ことば(ロゴス)なるイエス・キリスト
 永遠の先在者、神、すべてのものの創造者、いのち、人の光

 B 1章6ー8節 
  バプテスマのヨハネの使命
  (まことの光を反射して指し示す鏡のような存在)

  C 1章9節
   世に来られることば
   (すべての人を照らすまことの光として)

   D 1章10−13節
    イエス・キリストと世の関係
    キリストを受け入れなかった民と受け入れた人々
    キリストを受け入れた人々に対する神の約束

       しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、
       すなわち、その名(イエス・キリスト)を信じた人々には、
       神の子どもとされる特権をお与えになった。
       この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、
       ただ、神によって生まれたのである。

  C' 1章14節
   世に来られたことば
   ことばなる神の受肉と栄光、恵みとまこと
   父のみもとから肉体を持った人間として世に来られたひとり子

 B' 1章15節
  バプテスマのヨハネの証言

A' 1章16−18節
 父のふところにおられるひとり子の神、
 ことばなるイエス・キリストによる神の自己啓示
 キリストによる恵みとまことの実現


われらの主

ダビデの賛歌
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
旧約聖書 詩篇23篇

「主」とは、私たち人間一人一人と、本当に親しい関係をもって、
どんなときも共に歩んでくださる神様の名前です。

かつて羊飼いであったダビデは、神様をよく「主」と呼んでいます。
そしてダビデは、「主は私の羊飼いです」という書き出しで始まる素敵な詩を書き残しています。

キリスト者が「われらの主、イエス・キリストを信ず」と告白する時、
それは、「イエス様は私たちの良い羊飼いなんです」と告白しているのです。

主という言葉の持つ響きは、羊飼いというイメージととてもよく重なります。
羊飼いはいつもひつじの傍にいて、一匹一匹のひつじを気にかけています。

羊飼いは一匹一匹のひつじの名前を呼んで、
群れを緑の牧場やいこいの水のほとりに導いて下さるのです。
狼が襲ってきたりした時、羊飼いはいのちがけでひつじを危険から守ってくれます。

100匹のひつじを飼っていて、そのうちの一匹でも迷い出たなら、
羊飼いは見つかるまで必死になって、失われたひつじを捜し出して下さるのです。

聖書は人間をよくひつじにたとえています。
そしてイエス様は、ご自分のことを、次のように自己紹介して下さいました。

…わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
ヨハネの福音書 10章10−11節


聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ

私たち日本人が無意識に使ってしまう表現に、「子どもをつくる」という表現があります。
けれども決して、子どもは両親によってつくられるわけではありません。

世の中には、子どもを切に願っていても与えられない方がたくさんいます。
子どもは親がつくろうと思ってつくれるものではないのです。

このことを真剣に理解しないと、子どもをまるで自分の所有物のように思ってしまったり、
「あなたは望んでいなかったのに、避妊に失敗して、中絶もしなかったから生れてきたのよ!」
というような言葉を、平気で自分の子どもに浴びせ掛ける、鬼のような親になりかねません!

天地の造り主であり、全能の父なる神様だけが、子どもをつくることができます。
そして、生れてくるということは、決して偶然でも、両親の意思によることでもありません。
すべての人は、私たちの天の父なる神様が望まれた故に、愛されるために生れてくるのです。

いのちはもちろんですが、性を与えてくださったのも、私たちの天のお父さんなのです。
そして、私たちの天の父は、性を以下の2つの目的のために与えてくださいました。
それは、「結婚関係の中で喜び楽しむため」、そして「子どもを預ける手段」です。

性はいのちと深く関わっていて、全人格的なものです。
性を結婚関係以外で用いることは、罪であると聖書ははっきり語っています。
なぜなら、不倫、婚前交渉、援助交際、フリーセックスは、
自分と自分の家族だけでなく、相手とその家族までも確実に不幸にするからです。
結婚関係以外での性を用いることは、信頼を破壊する道であり、無責任な生き方しか出来ない道です。

真の神であり真の人であったイエス様は、
おとめマリアより、肉体を持った人間の赤ちゃんとして生まれて下さいました。

男性の介入(人間の業)によらず、ただ聖霊なる神様の業によって、
イエス様は処女マリヤの胎に、肉体を持ってやどり、生まれて下さったのです。

それが2000年程前、世界で最初のクリスマスに、
ベツレヘムという小さな町の家畜小屋の中で起こった驚くべき出来事でした。


それは私たちを罪と欲望の奴隷から解き放って、
本当の幸せの中に、完全な罪の赦しの中に生かすためでした。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
使徒の働き 16章31節

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け

ポンテオ・ピラトは、A.D.26年〜36年まで、ユダヤ地方の総督でした。

イエス・キリストは、今から約2000年ほど前に、この地上にお生まれになりました。
そしてイエス様は、地上での生涯の最後に、
このポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けられたのです。

ポンテオ・ピラトの名前は、イエス・キリストの名前とともに、
新約聖書以外の歴史文章にも記録されています。

ローマの歴史家タキトウス(A.D.55−119)の『年代記』(115年頃)には、
ローマの大火(ネロが放火したといわれている)が キリスト者によるものであるとされたこと。
キリスト者が捕らえられ、十字架刑や火あぶりの刑にされたり、
動物の皮を着せられて犬にかみ割かれたことを記すとともに、
「彼らがその名前をとったキリストという者は、
ティベリウス(帝)の時、総督ポンテオ・ピラトによって処刑された」

と記されています。

ピラトは、イエス様を無実であると宣言した後、
自分の身を守るためにイエス様を処刑のために引き渡しました。
(マルコの福音書15章1−15節などを参照)

使徒信条の中に、ポンテオ・ピラトの名前があることで、
キリスト教会が信じていることが、歴史的な事実(ノン・フィクション)であって、
作り話ではないことが明らかにされています。
また、すべての国家権力が、神の裁きとあわれみのもとにあることも明らかにされています。

「苦しみを受け」という言葉は、
イエス・キリストの生涯全体を一言で表わすのに、最もふさわしいものです。

主イエス様は、この世のご生涯において、特にその生涯の終わりにおいて、
私の、そしてあなたのために、 私たちの罪に対する神の怒りを一身に受けてくださったのです。

それはちょうど、避雷針のような十字架の上のキリストに、
雷が落ちたような、全宇宙に響き渡る出来事でした。


十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり

十字架につけられた神。死にて葬られた神。陰府にくだられた神。
それがキリスト者が使徒信条によって告白する真の神、主イエス・キリストです。

十字架。それはアクセサリーではありません。
十字架。それは血なまぐさい処刑の道具です。

どんな人であっても、「やがて死を迎え、墓に葬られる」という現実から逃れることは出来ません。
しかしここで、イエス様が「死にて葬られ」という言葉が指し示していることは、
イエス・キリストが葬られた時、実は私たちもキリストとともに葬られたという事実です。
このことは洗礼(バプテスマ)において、最もよく刻み付けられることです。

罪を一つも犯されなかったイエス様が、
死に定められている私たちに代わって、神ののろいを受けて下さいました。
イエス様が、私たちの身代わりとして、罪から来る報酬、神の罰をすべて受けて下さり、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだられたのです。

キリスト教信仰の中心は、
「イエス・キリストは、私のために十字架で死なれた」、
私はイエス・キリストとともに十字架につけられました
という告白です。

私たちがそのことを信じる時、
死はもはや、終りではなくなります!
死は、新しい永遠のいのちの始りとなるのです。


三日目に死人の内よりよみがえり

イエス・キリストの十字架と復活に関する証言は、「イエス・キリストの福音」の中心メッセージです。

それは
「十字架につけられたイエス様は、よみがえられたお方であり、
よみがえられたイエス様は、十字架につけられたお方である」

という証言です。

ほとんどの人は、
「イエス・キリストは十字架に磔にされて殺された方である」と知っています。

けれどもキリスト教会がこの2000年間、全世界に向かって証言し続けていることは、
「十字架につけられたイエス様は、よみがえられたお方であり、
よみがえられたイエス様は、十字架につけられたお方である」

という証言なのです。

ここで、イエス様が「三日目に死人の内よりよみがえり」という言葉が指し示していることは、
イエス・キリストがよみがえられた時、実は私たちもキリストとともによみがえったという事実です。

イエス様を信じることによるこの新生は、
洗礼(バプテスマ)において、最もよく刻み付けられるもう一つのことです。

キリスト者とは、
この証言を信じる信仰によって、イエス様とともに十字架につけられ、葬られ、
イエス様とともに新しい永遠のいのちの中に新生した者なのです。

キリスト教信仰とキリスト教会は、
「この証言が真実かどうか」によって立ちも倒れもします。

この証言について、以下の3つの立場が考えられます。

1、何らかの作り話による!(例:弟子たちによるフィクションでは?)
2、何らかの誤解による!(例:イエス様は死んでなかったのに、死んだと誤解された?)
3、それは歴史的事実・真実である!(十字架につけられたイエス様は、本当によみがえられた!)

順番に、その内容を検討したいと思います。

1、何らかの作り話による(例:弟子たちによるフィクションでは?)

弟子たちの生き様の変化を見ると、この仮説の可能性は消えていきます。

「あなたのために死ねます」と言っていたイエス様の弟子たちは、
イエス様が十字架につけられるために捕らえられた時、
みなクモの子を散らすように逃げてしまいました。

そして、自分たちが従っていたイエス様が十字架で処刑され、葬られた後、
彼らは意気消沈していました。

けれどもその後、弟子たちは復活され、生きておられるイエス様に出会うのです。

そしてその後、弟子たちは人が変わったように、
命がけでキリストがよみがえられたことを証言していったのです。

ある人は実際にイエス様は復活されたわけではなく、
弟子たちの心の中に復活されたのだと考えます。

けれども、
もしイエス・キリストが、本当にからだをもってよみがえらなかったのなら、
かつてキリストを裏切った弟子たちが、
どうしていのちをかけてキリストに従うことが出来たでしょうか?

2、何らかの誤解による
(例:イエス様は死んでなかったのに、 死んだと誤解された?)

イエス様が十字架につけられた時の記録を見ると、この仮説の可能性も消えていきます。

普通の人が十字架刑にされた場合、
数日間苦しみ続けながら、気が狂ったようになって死んでいくそうです。

けれども、イエス様が2人の犯罪人とともに十字架に釘付けられたのは金曜日でした。
ユダヤ人にとって、土曜日は安息日といわれる大いなる日でした。
この安息日に関する宗教的理由から、
ユダヤ人たちはその日のうちに、イエスの死体を取りのけることを願いました 。

そのため処刑を執行していたローマ兵たちは、十字架につけられた者たちのすねを折り、
死刑囚たちの息の根を止めようとしました。
(すねが折られると息が出来なくなって、死期を早めることができるのです)

けれどもローマ兵たちがイエス様のすねを折ろうとした時、
イエス様が既に死んでいたのが確認できたので、イエス様のすねは折られなかったのです。

ローマ兵の一人は槍でイエス様のわき腹を突き刺しました。
その時、血と水が分離されて出てきたことも記録されています。
このことも、イエス様が既に死んでいたことを示す医学的根拠だそうです。

イエス・キリストは文字どうり、十字架につけられ、死にて葬られたお方なのです。

3、それは歴史的事実・真実である!
(十字架につけられたイエス様は、本当によみがえられた!)

聖書を読めば読むほど、また歴史を調べれば調べるほど、
「十字架につけられたイエス様は、本当によみがえられたお方である」
ということがわかります。

十字架につけられたイエス様は、本当によみがえられた!
この証言は、何らかの作り話でもなければ、 何らかの誤解でもありません。
それは歴史的事実、真実なのです!

「三日目に死人の内よりよみがえり」とあるように、
金曜日に十字架で死なれ、葬られたイエス様は、
三日目、日曜日の朝、 死人の内よりよみがえられたのです。

このことを覚えて、ユダヤ人キリスト者でさえも、
週の最初の日、日曜日に集まって、イエス・キリストを礼拝することを始めました。

それから2000年間、キリスト者は時代を超えて日曜日を「主の日」と呼んでいます。
そして全世界のキリスト者は、毎週日曜日ごとに教会堂に集い、
今も生きておられる主イエス様を礼拝することから、一週間を始めています。

「イエス・キリストの福音」は、死の問題にも解決を持っています。
イエス様は死に勝利されて、今も生きておられる。
そのことの故に、死の向こうにも、確かな希望があるのです。

イエス様は、やみの中に輝き続けている世の光です。

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
ここにはおられません。よみがえられたのです。…
ルカの福音書 24章5−6節

天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり

天にのぼられたイエス様が、
「全能の父なる神の右に座しておられる」というのは、
どういう意味ですか?

それは、イエス様こそが、
今も「天においても地においても、一切の権威を持っておられる主」であるということです。
(マタイ28:18参照)

イエス様こそ「生ける権威者」、王の王、主の主なのです。

父なる神の右の座で、
主イエス様は今何をなさっているのでしょう?

主イエス様は、私たちのために祈って下さっています。
主イエス様は、私たちの呼びかけを待っておられます。
主イエス様は、今も日本の、そして世界の歴史を導いておられます。

主イエス様は、どんな祈りをして下さっているのでしょう?

主イエス様は、今も「主の祈り」を祈り続けておられます。

父よ! おとうさん!

キリスト者を通して、 全地で御名があがめられ、御名が聖とされますように。

キリスト者を通して、 御国・神の国が、全地に来ますように。
そのために彼らが私を信頼し、 地に住み、誠実を養うことができますように。

キリスト者を通して、
みこころが、天で行なわれているように、 全地でもことごとく行なわれますように。

父よ!
私が彼らを愛したように、 そのように彼らも、互いに愛し合うことができますように。

キリスト者を通して、
全世界の飢えている人々、貧しい人々に、 神の口から出た日ごとの糧が届けられますように。

父よ!
どうか私が十字架の上で流した血潮の故に、打たれた打ち傷の故に、 彼らを赦して下さい!
彼らは何をしているのか自分でわからないのですから。

キリスト者を通して、
和解の福音が全世界にくまなく宣べ伝えられ、 天地万物が一つになりますように。

父よ!
彼らを試みに会わせず、 すべての悪から救い出して下さい。

キリスト者が私に似た者になるように。
そして、家庭で、学校で、職場で、地域で、全世界で、 彼らが祝福の基となるように。


かしこより来たりて
生ける者と死にたる者とを審きたまわん

主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け
十字架につけられ死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり
天にのぼり、 全能の父なる神の右に座したまえり

使徒信条において、
「やどり」、「生れ」、「苦しみを受け」、「十字架につけられ」、「死にて」、「葬られ」、
「よみがえり」、「のぼり」 までは、すべて完了形で表現されていて、過去の出来事として告白されます。

しかし、「座したまえり」ということばは、現在形で表現されています。
「イエス様が全能の父なる神の右に座っておられる」ということは、
現在の出来事として告白されるのです。

そして、

かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん

という告白では、「きたりて」という未来形の動詞が使われます。
ここでは、「イエス様が再びこの世に来られる」という将来の出来事が、今すでに告白されるのです。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、
二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
ヘブル人への手紙 9章27−28節

2000年ほど前、世界で最初のクリスマスの時に、イエス様はこの世に来て下さいました。
それは、私たちの罪をすべて背負って、ご自身を十字架の上で捧げるためでした。
私のために、あなたのために、十字架の上で裁かれるために、
裁き主であるイエス・キリストが、来て下さったのです。

「私はあなたを、いのちをかけても惜しくない存在として愛している! 」
その愛をイエス様は、十字架の上で最高に示して下さいました。

ですから、誰でもキリストの十字架が私の罪のためであったと信じるなら、
ただ信じるだけですべての罪が赦されて、
神の子とされ、永遠のいのちを持つことが出来るのです。

イエス様は、将来必ず、この世に再び来られることも約束されました。
キリスト教会は、そのことを「キリストの再臨」と呼んで、今も待ち望んでいます。
二度目は、罪を負うためではなく、イエス様を待ち望んでいる人々の救いのために来られるからです

イエス・キリストが再臨されるその時、 すべてのことが明らかにされます。
その時、すべてをご存知の主イエス様の前で、私たち一人一人がどう生きたかが問われるのです。

罪を持ったままでは、天国に決して入れません!
キリストを信じ、新しく生まれなければ、人は神の国を見ることは出来ないのです。

あなたは、罪の問題に解決を持っておられますか?
あなたは、今日死んでも天国に行ける確信をお持ちですか?

まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
ヨハネの福音書 6章47節

イエス・キリストは、決してあなたが罪の中で滅びることを望んでおられません!
イエス様は、あなたが悔い改めて、つまりイエス様の方に方向転換をして、
永遠のいのちに生きることを、切に願っておられます。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの福音書 3章16節


われは聖霊を信ず

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

我は聖霊を信ず

ここで、「我は聖霊を信ず」と告白される信仰の対象は、聖霊なる神です。

聖霊とは聖なる神の霊、イエス・キリストの霊、神御自身なのです。

聖霊は主の御霊、御子の御霊、助け主、真理の御霊、慰め主、いのちの泉などと呼ばれます。
聖霊は人格を持たれた神であり、非人格的な権威や単なる力ではありません。

聖霊なる神は、風のように、あるいは息のように、神御自身から出て私たちの内側、心に触れ、
神を知り、神を理解し、神を信じ、神と共に歩むことが出来るように私たちを導いて下さる神です。

聖霊なる神は、私たちの内に住んで下さり、私たちを目覚めさせ、生かし、真理を照らし出して下さる神です。

神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、
また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。
コリント人への手紙第1 12章3節

聖書は、
「聖霊に満たされ続けなさい」、
「聖霊の実(愛)を結びなさい」、
そして「聖霊が与えて下さる賜物を用いて互いに仕え合いなさい」
と教えています。


聖なる公同の教会、聖徒の交わり

キリスト者は、日曜日ごとに教会堂に集い、共に神に礼拝を捧げます。

しかし、教会(エクレーシア)とは、教会堂(建物)のことではありません。

キリスト教会とは、主イエス様によって呼び出されたキリスト者一人一人によって形成される、
信仰による共同体なのです。

教会のルーツは、旧約聖書の中に見つけることが出来ます。
神が召集した神の民、共同体としてのイスラエルがそれです。
イスラエルは、神の恵みの選びによって、神との契約関係の中に入れられました。
同じように、教会も、神の恵みの選びによる契約の民なのです。

イスラエルが神の民として選ばれたのは、ただ神のあわれみと恵みによります。
決して、他の民族に比べて優れた民であったからではありません。
同じように、一人一人のキリスト者が神の民として選ばれたのは、ただ神のあわれみと恵みによることです。
決して、他の人たちに比べて優れた人であったからではありません。

このことを忘れて、高慢な選民意識を持つ時、イスラエル、教会はいつでも神に裁かれます。

しかし神は、イスラエルを、そして教会を、
全世界の祝福の基、神の祝福をすべての国民にもたらす器として選ばれたのです。

キリスト教会には様々な教団・教派があります。
しかし、イエス・キリストの十字架を見上げる群れであり、
この使徒信条を告白する教会であれば、いずれの教団・教派であっても、
公同の世界教会につながる地域教会です。

現実の教会(自分もその中に含まれる)を見るとき、しばしば失望させられることがあります。
しかし、神の瞳に映る教会は、どんなに人間的に欠けだらけであったとしても、
聖なる神の教会、聖徒の交わりなのです。

キリストの十字架がなければ、決して赦されることのなかった者たちの集まり、それが教会です。
イエス・キリストは、
「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

と命じられます。
このキリストの命令に聴き従う時、
教会はキリストの愛を現わす共同体として、世のために存在することが出来ます。

…あなたがたに新しい戒めを与えましょう。
あなたがたは互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、
それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
ヨハネの福音書 13章34−35節

罪のゆるし

「加害者は忘れることが出来ても、被害者は決して忘れることが出来ない。」
この言葉は、韓国で働いている、ある日本人宣教師が語ってくれた言葉です。
人間の心理を鋭く言い当てている言葉だと思います。

被害者にとって、最も苦しむことは、相手を赦すことが出来ないということです。

交通事故、殺人事件、医療ミス、戦争などで、愛する家族を失った遺族たち。
幼い時から、愛ではなく暴力と虐待を受けて育った子どもたち。
学校でいじめ、差別、恐喝に出会った生徒たち。
だまされたり、裏切られたり、いいように利用された人たち。
ナイフよりも鋭く心をえぐる言葉で刺された人たち。

思い出す度に、被害者は、怒りと憎しみで沸き立つ心を静めることが出来ません。
まるで割れたガラスの破片をギューッと握り締めて生きているようです。

良心ある加害者は、自らの犯した罪による罪責感に苦しめられます。
罪責感を覚えつつ、赦されない、取り返しがつかないということは、耐えられません。
犯した罪が赦されないことを覚える時、人は苦悩の中で自殺することも考えるでしょう。
赦しを感じることがなければ、人は決して心のやすらぎを持つことが出来ないからです。

こう考えると、人が本当に幸せに、平安を持って生きるために必要なことは、
「罪のゆるし」であることがわかります。

キリスト教会には、この「罪のゆるし」と人を赦す力と愛が与えられています。

聖書は、すべての人が造り主なる神に対して、返済不可能な罪の負債を抱えていることを明らかにすると同時に、
すべての人に対する、あわれみ深い神の、罪の赦しの宣言を明らかにしているのです。

イエス・キリストが、私たちの身代わりとして十字架につけられて死に、よみがえられたことによって、
私たちの償うことが出来なかったすべての罪の負債はすでに赦されています!
そう聖書は語っています。

この考えられない神のあわれみ、神の赦しを私たちが体験する時、
心の中にあるすべての敵意と隔ての壁は、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのです。
ベルリンの壁が、旧ソビエトが崩壊したように…。

神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。
詩篇51:17

18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。
   「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、
   その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、
   『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。
   彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。
   『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
マタイの福音書18:21−35

からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン

キリスト者にとっても、
肉体的な死は、人生の最期に必ず迎えなければならないものです。

たとえ一時的に病や怪我が癒されたとしても、朽ちる肉体を持って生きている以上、
私たち人間は年毎に齢を重ね、老い、そして肉体の死を迎えなければならないのです。
その時、愛する家族や友人とも、しばらく会えなくなります。

しかしキリスト者にとって、死は「新しい生の始まり」、ほんのひと時の眠りなのです。
そしてキリスト者には、天国で愛する家族や友人とも再会できる希望と平安が与えられているのです。

それは、あのイエス・キリストが、十字架の上で死なれ、墓に葬られましたが、
3日目の朝に、新しいからだをもってよみがえられ、愛する弟子たちと再会されたのと同じです。

この使徒信条の最後に、キリスト者が告白していることは何かといえば、
まさに「新しい生の始まり」なのです。

キリスト者は、朽ちないからだをもってよみがえるという神の約束を信じて、
とこしえの命、永遠のいのちに生きているのです。

「アーメン」というのは、
「それは真実です。まことです。心からそう思います。」という意味のヘブル語です。

よく祈りの最後に用いられる言葉ですが、使徒信条の最後にも用いられています。

「これまで告白してきたことを、心から信じています」というキリスト者の思いが、
「アーメン」 という言葉には込められているのです。

A.D.2000年12月18日 主にありて 野町 真理


トップページ

The Gospel of Jesus Christ(Shinri Nomachiのホームページ)へ
メールによる質問、意見、感想をお待ちしています^・^