「教会の働きとしての証し」
聖書個所:使徒の働き14章8−18節

2003年11月30日 主日礼拝式メッセージ(野町 真理)

主題:教会が生けるまことの神を証しする理由は、人々をむなしい的外れな罪から救い出すためである。

14:8 ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。
   彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。
14:9 この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。
   パウロは彼に目を留め、 いやされる信仰があるのを見て、
14:10 大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。 すると彼は飛び上がって、歩き出した。
14:11 パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、
    「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」 と言った。
14:12 そして、バルナバをゼウスと呼び、
    パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。
14:13 すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、 雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、
    群衆といっしょに、 いけにえをささげようとした。
14:14 これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、 群衆の中に駆け込み、叫びながら、
14:15 言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。 私たちも皆さんと同じ人間です。
    そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、
    天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、
    福音を宣べ伝えている者たちです。
14:16 過ぎ去った時代には、
    神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。
14:17 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。
    すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、
    食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」
14:18 こう言って、ようやくのことで、 群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。

導入:収穫の秋を迎えて

 収穫の秋を迎えていますが、皆さんはどのような秋を、過ごされているでしょうか?私は柿をおいしく頂いたりしています。豊橋は柿がとてもおいしい所だと実感しています。また先日は、愛児舎の子供たちと一緒に、芋掘りに行って着ました。

 秋の愛児舎は、行事が目白押しでした。運動会から始まって、遠足、そして芋掘り。それぞれの時に、神様は天候を守って下さいました。 運動会の時は、片付けが終わってしばらくすると、雨が降り始めました。動物園に遠足に行った時には、子供たちが帰りのバスに乗ったすぐ後で、雨が降り始めました。

 芋掘りの時には、子供たちが教会から出発した後で、パラパラと雨が降り始めました。不安になりながら、私は先に現地に行って、芋を掘った後に手を洗うための水を、祈りつつバケツに汲んでいました。そうこうしているうちに子供たちが到着し、その頃には雨も止んで、楽しく芋掘りができました。 子供たちも、祈りに答えて下さる神様を体験出来たようです。いつも愛児舎の働きを覚えて、祈って下さっている皆さんに、心から感謝致します。

 さて、芋掘りですが、おいしそうないもが沢山とれて、大収穫でした。取って来たいもで、保育師の先生たちと子供たちが、スイートポテトや焼き芋を作ってくれました。そして、おいしい食べ物を与えて下さる神様に、感謝しながら頂きました。

 また先週私は、家の前の小さな庭で、さつまいもを収穫することが出来ました。実は夏になる前に、買って来ていたさつまいもが、芽を出てしまったので、もったいないからと庭に埋めていたのです。秋になって掘ったら、丸くて大きないもと長細いいもが出て来ました。自分で植えたものが成長して実を結び、それを収穫するというのは、とても大きな喜びです。

 さて、今日の聖書の個所には、恵みをもって天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、私たちの心を満たしてくださっている、そんな天の父なる神様のことが紹介されています。早速ですが、使徒の働きの14章8節を見て下さい。

本論1:足の不自由な男を癒す使徒たち

14:8ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。
   彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。
14:9この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。

 パウロとバルナバは、伝道旅行を続けていました。そして様々な町で、イエス・キリストの福音を伝えていました。しかしユダヤ人たちの、あるいは現地の人たちの迫害を受けて、次々に違う町に逃れ、そこで福音を語り続けていました。 このルステラという町で登場してくるのは、一人の男の方です。足が不自由で、そして生まれながら両足を動かすことが出来ない。そして一度も歩いたことがない人です。

 もし私たちが、生まれつき歩くことが出来なかったとしたら、どんな人生を送るでしょうか?移動するにも、手を使って這うか、他の誰かに助けてもらうしか方法がありません。 いつも這って移動するか、誰かを煩わせなければ動くことも出来ない人生。とても苦しい人生だと思います。おそらくこの人は、「こんなことなら生まれてこなかったほうがよかった!」、「もういっそ死んだほうがましだ!」、「早く死にたい!」、そんなふうな叫びが、口から出ても不思議ではない人生を送っていたのではないかと思います。あるいはこの人は、何度か自分の命を絶とうとしたかもしれません。

 そんな苦しみの中にいた方の前に、パウロとバルナバが現われて、福音を語り始めました。「この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。」と、9節に記されています。

 どんなふうにパウロたちは語っていたのでしょうか?当時の伝道旅行は、今のように交通機関が発達した安全な旅ではありませんでした。まして、パウロたちを殺そうとする人たちが起こってきたわけですから、まさに命がけの旅でした。パウロたちは、いのちをかけても伝えたいものがあった故に、伝道旅行をしていたのです。そんな真剣なパウロたちを、この方はじっと見つめ、真剣に耳を傾けていたのです。

 9節の続きを見ますと、「パウロはその方に目を留め、いやされる信仰があるのを見て」と書かれてあります。福音のメッセージが語られる時、そのメッセージに耳を傾ける者の内に信仰が与えられる。そのことを覚えます。 「イエス様だったら、私の人生を変えてくれるかもしれない」、「イエス様だったら、私のこの動かない足を癒して、歩けるようにして下さるはずだ!」。語られたいのちのことばが、冷え切っていた彼の心を暖かく溶かし、そのような信仰を芽生えさせたのです。

 そしてそのような信仰を、男の内に見たパウロは、大声で彼に命じます。「自分の足で、まっすぐに立ちなさい!」。 パウロがそう命じると、なんと彼は飛び上がって、歩き出したのです。その時奇蹟が起こりました。生まれつき足が不自由で一度も歩いたことのなかった彼が、信仰によって癒され、飛び上がって歩き出したのです。 さて、それを見ていた人たちの反応を次に見ていきたいと思います。

本論2:それを見ていた人たちの反応

 11節から13節までを見て下さい。

14:11パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、
   「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」 と言った。
14:12そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。
14:13すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、
   群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。

 ルステラという町が、異邦人の町であったことが、このような反応をもたらしました。パウロがしたことを見た群衆は、興奮して大きな声を張り上げ、ルカオニヤ語で「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」と叫び、バルナバとパウロを神々として崇め奉ろうとしました。 この地方の人々は、普段はギリシャ語を話していたようですが、驚くべきことが起こったのでその土地の言葉で叫んだのです。

 実はこのルステラ地方には、ある神話があったそうです。昔ギリシアの神々が人間の姿をとってお下りになって、この地方を訪れました。けれども、ほとんどの人はそれに気づかずに神々として崇めず、ただ一組の夫婦だけが、その神々を崇めて神々の祝福を頂いた。そんな神話です。

 そのような神話を伝え聞いていた人々には、パウロとバルナバが、人間の姿をとってお下りになった神々、ゼウスとヘルメスとして映ったのです。 そして、ゼウス神殿の祭司が登場して来ます。ゼウスというのは、ギリシャの神々の中で、一番偉い神です。そのゼウス神に仕えていた祭司が、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来ました。群衆といっしょに、パウロとバルナバにいけにえをささげようとしたのです。 さて、このような群集の反応に対して、どのような態度をパウロとバルナバはとったのでしょうか?

本論3:使徒たちの必死の訴え

 14節から15節をお読みします。

14:14 これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、 衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、
14:15 言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。

 自分たちを神として祭り上げ、いけにえをささげようとする群集の熱狂的な行動を見たバルナバとパウロは、衣を裂いて群集の中に駆け込み、必死に叫びながら、それを止めるように訴えました。

 ユダヤ人は、神に対して恐れを抱いたり、がまんならないことが起こった時、また深い悲しみの時に、ビリビリと衣を裂いて、その感情を表しました。衣を裂くということはインパクトのある行動ですから、異邦人であってもただならぬ雰囲気を感じ取ったはずです。

A、私たちも、皆さんと同じ人間です

 まずパウロたちは、「私たちも皆さんとまったく同じ人間です。」ということを強調しました。

B、私たちは、福音を宣べ伝えている者たちです

 そして、「人間を神として崇めるようなことは、むなしいことです。私たちは、あなた方がそのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった、生ける神様に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」と語りました。

C、生ける神は、過ぎ去った時代にもあかししておられたのです

 そして、

14:16 過ぎ去った時代には、
    神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。
14:17 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。

 そんなふうに語りました。17節を見ますと、「あかししないで」という言葉があります。これは、「証言する者がいない」という意味の言葉です。「証言する者がいない」、という言葉は,「ハマルテュロス」というギリシャ語です。そして、同じギリシャ語で罪を意味する言葉は、「ハマルティア」と言います。「ハマルテュロス」と「ハマルティア」。興味深いことに最初の5文字が同じ綴りになっています。よく似ているので、それぞれの関係を考えてみました。

  「ハマルティア」という言葉が表現している罪とは、「的外れ」ということです。的外れなことをするのが罪なのです。 暗闇の中で、弓を射ることを考えてみて下さい。もし的を照らし出す光がなければ、どんなに一生懸命になったとしても、的を外すことしかできないでしょう。 同じように私たちの人生においても、もし歩むべき道を照らし出す光がなければ、的を外した人生しか生きられません。どんなに熱心に、また真剣に生きようとしても、ルステラの人々がそうであったように、的を外したむなしい人生を送ることしかできません。

  「熱心で純粋な信仰さえあれば、何を拝んでいてもいい。」日本人は、そう考えやすいと思います。けれども、どんなに熱心に拝んでいたとしても、もしその拝んでいる対象が本当の神様でなかったら、むなしいこと、的外れなこと、愚かなことでしかないのです。

 肉親としての両親に対して、的外れなこととは何でしょうか?それは本当の父母を無視して、他の父母に感謝を捧げることです。親を親として認めず、感謝もせず、他人の親を自分の親として生み育ててくれたことを感謝する。これ以上に的外れなことは出来ません。

 まことの神に対して、的外れなこととは何でしょうか?それは、本当の神を無視して、他の神々に感謝を捧げることです。まことの神ではなく、神に造られたものを拝むこと。これ以上に的外れなことは出来ません。

 「罪」という言葉と「証言する者がいない」という言葉が非常に似ている理由。それは、「証言する者がいなければ、的外れな罪を犯してしまう」という関係があるからではないでしょうか。

 パウロとバルナバは、神以外のものを神として拝むことがむなしく的外れであること、そして、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神こそが、礼拝を捧げるべき方であり、立ち返ってこの方に感謝を捧げることが、的を射た生き方であることを、必死になって訴えました。

  「神は、恵みをもって天からあなたがたに雨と収穫の季節を与えて下さっており、食物と喜びであなたがたの心を満たしてくださっているのです。」そのようにパウロたちは、生ける神をあかししたのです。

 農業をすると神様の恵みが良くわかるように思います。いも一つであっても、種になるいもがなければ、収穫することが出来ません。私は、神様から与えられたものを植えたわけです。そうすると、神が太陽を毎日昇らせ、雨を降らせ、そして土の栄養分を備え、実りをもたらしてくれたのです。私は与えられたものを植えただけでしたが、神様がそれを養い、育てて下さったのです。

 このように、食物はすべて人間が作り出しているわけではなく、神様が与えて下さっているのです。いろいろおいしい味があって、私の体重は増えています。そういう神様の豊かな恵みの中で、私は生かされていることを感謝しています。

本論4:やっとのことで、いけにえをささげるのをやめさせた。

 そして18節は、「こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。」と結んでいます。  パウロとバルナバは、人々が彼らにいけにえをささげようとするのを、やっとのことでやめさせることが出来たのでした。

結論:教会が生けるまことの神を証しする理由は、人々をむなしい的外れな罪から救い出すためである。

 このような出来事に思いを巡らせていると、クリスマスに私たちのためにこの地上に来て下さったイエス様のことを覚えます。 今日からアドベントに入りました。アドベントは、主イエス・キリストの御降誕を覚えるクリスマスの季節です。

 世界で最初のクリスマスは、今から2000年ほど前のことでした。その時、全世界の歴史が大きく動きました。西暦はその時を境に、新しく年月を数え始めました。そしてそれ以前の歴史は、キリストが来られる前の歴史と呼ばれるようになりました。キリストが来られる前の時代は「過ぎ去った時代」となったのです。 まことの神ご自身が、私たちと同じ肉体をもった人間となられて、この地上に降りて来られました。

 それは、神がご自分のことをはっきりと証言するためでした。的を射た人生、人間が人間として歩むべき道をはっきりとあかしするために、神ご自身が降りて来て下さったのです。 これはかつてルカオニア地方にあったような神話でも、あるいは現代の日本にある様々な神話でもありません。うそ偽りの話ではなく、生けるまことの神が、本当にこの地上に降りて来られたのです。

 イエス様は、慰めと希望に満ちたメッセージを力強く語ると共に、病気の人、生まれつき目が見えなかった人、生まれつき足が不自由であった人などを癒されました。そして死人をよみがえらせることもなさいました。 そのような奇蹟を主イエスがなさった時、ルステラでの出来事のように、人々は主イエスを神として祭り上げ、礼拝をささげようとしたことを聖書は記しています。

 もしエホバの証人の方たちが仰るように、「主イエスは最も偉大な人間であったけれども、神ではなかった」とすれば、当然主イエスは、人々が神として拝もうとした時、パウロとバルナバがルステラで行ったように衣を裂き、「私はあなた方と同じ人間です」と言って、それを止めさせたはずです。ところが主イエスは、人々が神として拝もうとした時、それを拒まれず礼拝をお受けになったのです。 なぜでしょうか?それは、主イエスこそ、人となられた生ける神であられるからです。

 2000年ほど前、天の栄光をすべて捨てて、私たちの住んでいる低き所に下ってくださった神の訪れを、多くの人は受け入れませんでした。そして私たちは、このお方を、まことの神を十字架につけてしまったのです。 しかし聖書は、私たちの身代わりとして十字架で死なれ、葬られ、よみに下り、3日目に死人の内からよみがえられた主イエスを、生ける神として受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになるという福音を語っています。

 今日のメッセージのタイトルを、「教会の働きとしての証し」としました。教会はいろいろなことをします。けれども、教会の中心的な働き、教会にしか出来ない働きは、生けるまことの神を証しするということです。 教会が生けるまことの神を証しする理由。それは、人々をむなしいことや的外れな罪から救い出すためです。

 かつて私たちも、同じようにむなしい人生、的外れな人生を送っていました。しかし私たちは、先にあわれみによって救い出され、死からいのちに、暗闇から光の中に招き入れられたのです。

 もし教会が証しをしなければ、他に誰も生ける神を証しすることの出来る者はいません。そして、生ける神を証しする人がいなければ、的外れな罪を犯して滅ぶ以外にありません。私たちが先に救われた目的と使命がそこにあります。

祈り

主イエス・キリストの父なる神様。あなたが天から雨を降らせ、
収穫の季節を与え、食物と喜びとで私たちの心を満たしてくださっていることを覚えて感謝します。

かつて私も的外れな人生を送っていました。しかしあなたは、あわれみによって私を救って下さいました。
しかし、まだ愛する多くの方々が、あなたを知らずにむなしい人生を歩んでおられます。

どうかそれぞれの遣わされる所において、あなたをあかしすることが出来るように助けて下さい。

御名によって祈ります。
アーメン。


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野町 真理